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無能、依存、天動説

今回は依存の話を書いていく。前回人を嫌いになることを受け入れたおかげで、つかえが取れたように文章が書けるようになった。なかなか書けなかったのは会社に依存していたことも関係している。

スキーマを解消していくことで視野が広がり、そのおかげで見たくないものも見えてきた。人を嫌うことや自分が依存していることなんかも。
僕のスキーマは「見捨てられ」と「無能」が中心となっている。そして「無能」は正確には「無能/依存」スキーマという名称だ。

これまで「依存」に触れてこなかったのは、会社の話が多かったから。
特定の人や狭いコミュニティに依存するのはイメージつくが、大きい組織への依存はピンとこなかった。また「見捨てられ」の中には依存の要素も入っていると判断し、省略してきた。

確かに見捨てられも依存も、相手の言動を拠り所にすることでは共通している。しかし対象への態度に違いがある。見捨てられは受動的に怖がり、依存は能動的に近づいていくことが基本となる。そう僕はある人に積極的に近づいていた。

依存対象


その人は一度僕の上司になり、異動したあとも関係は続いていた。僕が相談や愚痴を言うといつも納得させてくれて、理路整然と話すその言葉に僕は毎回感心させられていた。過去形なのはそのカラクリがわかったから。

彼は自分の言葉が正論になる状況を作っている。

最近話した際に、以前より冷静に言動を眺めたことでそのことに気がついた。

その手段とは、話している中で会社の理念やお互いの立場などに言及し、共通認識で周りを囲っておく。そして論理が正論となる状況を作った上で発言をするというもの。
会社の理念というのもポイントで、そういった反論できない共通認識で囲っておくことで、自分の言葉が決定的なものになるようにしてる。

会社の理念に触れることになるため、具体例が挙げられず申し訳ない。だがこの具体例が挙げられないこと自体が依存を認識したきっかけとなる。
会社の理念を前提としていなければ、大したことは言っていないと気づいたからだ。

団体や組織、コミュニティごとに何かしら共通理解がある。僕の勤める会社にも理念や慣習があって、そしてそれは内部でしか通用しないものだ。理念を他の集団で話しても「何それ?」となるだけだろう。
でも僕は絶対だと思っていて、彼の話す前提条件を疑わずに受け入れていた。僕はその人を通して会社に依存していた。

仕事をやめることを考えているから、その人と話していても「そもそも前提が成り立たないじゃん」って思ったときに「ああ、僕は依存していたんだ」と認識した。

居場所

ここで見捨てられスキーマが出てくる。僕は居場所がなくなることが不安だ。恐れている。だからコミュニティの前提条件を無条件で受け入れてしまう傾向がある。大学のサークルのときもそうだったなと今ならわかる。

中と外の論理の違いはわかっているつもりだったから、会社に依存していると思っていなかった。実際24時間依存していたわけでもなく、人を通すという形を取っている。多分保険的に依存していたのではと考えている。

保険的とは見捨てられスキーマが発動しないような依存のあり方だ。
先程「愚痴や相談をしたとき」と書いたが、それはつまり「会社に不満を持っているとき」とも言える。そのとき彼に話すと論破してくれて、僕は会社に残る理由を手にできる。

僕はもう会社から心が離れている。だけどそれを認めると、同僚から見捨てられるような気がしている。そこでわざとありそうな不満を使って論破されにいく。会社の論理に引き戻してくれる、マッチポンプとしての依存。

ここまで書いて公開したくなくなってきた。あなたがこれを見たなら、僕の勇気を認めてほしい。読んでくれてありがとう。

好き


「自分の言葉が正論になるように状況を組み立てる」

そのこと自体は多くの人がやっているだろう。
彼が違うのは状況を組み立て始めるのが早いのと、僕や他の人の発言も利用して有利な状況に持っていくということだ。単純にその能力は高いと感じる。

うまいと思う、ずるいとも取れるだろう。そして、そんな人が僕は好きだ。

見捨てられスキーマもほぐれ、会社をやめることも現実的となって、その人の言葉に左右されなくなったときに僕はそう思った。霧が晴れると新しい自分が見えてくる。

あるものを利用して自分に有利に物事を動かすのは、正攻法では心もとないことの裏返しでもある。それは共感できることで、相手を傷つけなければ僕も真似したい。素直にそう感じた。僕ももっと自分のためにずるくなりたい。

良いとか悪いとかじゃなくて、僕が自分でそう思ったことを大事にしたい。

天動説

これまで僕は会社や誰かを中心にして、周りをくるくる回っていた。はみ出しそうになると無理やり軌道修正しながら、その重力の影響下にいようとしてきた。ずっと僕だけが動いていた。つまり地動説で生きてきた。

これを天動説に変えていくには大変な労力が必要だ。もう自分を軸にしていいと観測結果は出ているのに、認めたくなくて、心の中で宗教裁判が行われている。

僕ができることは証拠を集めること。誰かの論理じゃなくて、僕自信の言葉を集めていきたい。ずるい人が好きでもいい。それが素直な気持ちなら。
自分自身に天動説を納得させたい。天体観測ばかりの日々に別れを告げるために。

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