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けもの道
人間には足が二本しかないから、猫のようには歩けない。だから手にした道具も使っていこう。
スキーマが刺激されると、自動思考の黒い霧が現れて、現実を見えなくする。スキーマを探っていくことでその霧が晴れてきて、たくさんのものが見えてきた。それは良いものだけではなくて、自分が有能アピールをしたがっていることにも気づいて前回凹んでいた。
有能アピール
僕のスキーマを文章にすると「無能がバレたら見捨てられる」だ。その反対は「有能であれば受け入れられる」になる。だからことあるごとに僕は自分が有能であることを主張しようとしてきた。そんな自分に気づいて嫌な気持ちになったが、次第に冷静に見渡すことができてきた。
僕が働く会社は障害のある人向けのサービスを行っていて、僕は障害者雇用で働いている。周りは健常者が多いので、例えば会議で気になる表現があった時に「そういう表現は障害のある人にはよくないですね」なんて、重箱の隅をつつくように発言していた。確かにそこは良くなかったと今も思う。しかし、大抵はプラスに働いていたとも思っている。
有能さを示すために、与えられた業務はしっかりとやり遂げてきた。半期に一度査定があるが、だいたいいつもある程度の評価をもらっていた。飛び抜けた成績は残せなくても、会社の利益に貢献できているだろう。
それに自分が当事者であることを活かせる会社に入っていること自体が、賢い選択だとも言える。先の会議での表現についても、言い方は悪かったとしても、障害福祉の会社として掲載する文言に、障害当事者の意見が入るのは理にかなっている。
実際に業務として表現チェックを頼まれることもあるし、いつも過剰なアピールをしているわけではない。
というわけで、無能スキーマはあるけど、そのおかげで仕事をがんばってこれたし、正当に会社に役立っているとも思う。しかし、マイナスの面もやはりある。チャレンジができないことだ。
無能がバレる
チャレンジには失敗が付きもので、失敗は無能を意味する。僕の世界では一度でも失敗をしたら無能とみなされて見捨てられる。そういう恐怖に支配されている。
だからできる仕事しかしてこなかった。チャレンジするにしても人からの指示で、失敗しても自分が責任を追わなくてもいい場合ばかり。
それが嫌なわけではない。仕事が全てじゃないんだから、とりあえずやることはやって給料もらって、猫と二人で暮らしていく。それも悪くないだろう。今のままでも困らない。
僕は仕事にすべてを注ぎたいわけでも、自己実現したいわけでもないから、ある程度の安全が確保された仕事についているのは賢明だと思う。
じゃあ何が辛いのか、それは僕が現実とのズレをわかっていること。
現実とのズレ
一度くらいチャレンジに失敗しても、僕のすべてが無能とは思われないし、見捨てられもしない。同時に無理やりな有能アピールしたって、評価が上がるわけではない。
僕はわかっている。自分が必死になっていることは現実的でないことを。幻を相手に格闘していることを。それをわかっていてもやめられないことが辛い。
最近ずっと一緒に働いてきた同僚が産休に入った。彼女とは3つの業務の立ち上げに関わった。積極性があって、失敗しながらも道を切り開いていく彼女を、僕は尊敬している。
失敗を避けることに一生懸命になっている姿のほうが、評価を下げる。わかっているのに、目先の保身をしている自分が嫌になる。本当はチャレンジがしたい。自分から飛び込んでいきたい。
霧はスキーマが刺激された時に湧いてくる。だから冷静な視野を持てるときもある。現実とズレている自分の姿も認識している。
前に進みたいのに、その場でくるくる回ってるだけ。それが嫌だ、僕は納得がしたい。
無能の原点
回避を続けてそれなりの場所に収まるんじゃなくて、ダメでも納得したい。幻想と戦っていても現実が薄まっていくだけ。濃いカルピスが僕は好きだ。
霧が晴れて時間も経ち、一喜一憂を抜けてこんな風に考えられるようになってきた。
僕の無能は学生時代に作られた。
クラスでただ一人掛け算ができず同情され、プリントを持ち帰ることができずに怒られ、みんなと同じ行動を取ることができずに呼び出された。
今の会社は児童発達も手掛けているので、このエピソードを話しても「発達傾向あったんだね」で済む。無能とは思われない。この環境を選んだのは素直にすごいと思う。でもここから先は賢さだけでは進めない。
けもの道
賢い選択のもと心理的安全性を確保しながら、自己効力感を高めることができた。そして辞めてもやっていける自信がついてきた。
今度は賢い選択ではなく、賢さを使っていきたい。
賢い選択とは舗装された道を選ぶこと。足元が確かな、スキーマへの刺激が少ない安全な道。
対して賢さを使うとは、状況をけもの道を切り開くナイフにすること。
思い描いているゴールは納得して働くこと。手段として異動も転職もフリーになることも考えている。どれも道は険しいだろう、これまでと同じことをするつもりはないが、いきなり飛び込むのも怖い。安全地帯から離れることはスキーマを刺激する。
そこに賢さを使おう。現在会社でWEBライティングのコンサルを雇っている
。僕は上司と話して、そのコンサルに副業の相談をする許可をもらった。まずは自分の実力とノウハウを教えてもらって、副業で試してみるつもりだ。
体調の不安もあるので、動画を作り毎週投稿するという試みをしている。フルタイムの仕事をしながら、別のタスクを課すことで負荷を測っている。それはWEBマーケのノウハウの実践という側面もある。
こうやって僕にとっての、けもの道を進んでいくため、安全な場面で試行錯誤を行っている。
書いていて本当に僕は不安が強いなと感じた。先の同僚ならもっとガンガン進んでいくだろう。やっぱり羨ましいね。
今まではそこで止まっていた。自分にはできないと。そうじゃなく、せっかく身につけた賢さだ、留まるためじゃなく進むために利用する。
この身一つで、けもの道に突っ込むことができたらかっこいいだろう。でも不安も怖さもすぐには消えない。だったら使えるものは使っていきたい。
人間には足が二本しかないから、猫のようには歩けない。だから手にした道具も使っていこう。
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