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霧が晴れて見えたもの

それはきれいな景色だけじゃなかった、と実感する出来事があった。

霧というのは自動思考のことで、僕は歪んだスキーマを原因とした歪んだ自動思考によって、現実をまっすぐ見ることができなかった。
最近スキーマ療法に取り組むことでその霧が晴れて、物事をクリアに見れるようになってきた。ということを書いてきた。

霧が晴れたのを良いこととして書いてきたが、今日自分の嫌なところも認識してちょっとへこんでいる。

僕は在宅勤務で同僚とはビデオ会議でやり取りをしている。今日も会議をしていたが、そこで自分が過剰にアピールしたがっていたことに気がついた。

僕のスキーマは「無能」と「見捨てられ」がメインである。文章にすると「無能だとバレたら見捨てられる」となる。それが僕の恐怖の源。だから逆に自分が有能だと示したいという欲がある。

その欲が会議の中でも出てきていたことを認識した。例えばこれまでは会議で誰かが発表しているときに本筋と関係のない、ちょっとした表現の間違いがあったときに、意気揚々とそれを指摘していた。今日もしようとしたところで「あ、これ自動思考だ」と気づいて口をつぐんだ。

そして会議後にどういうことだろうと考えて、僕は「有能アピール」がしたかったんだと思い当たった。無能で見捨てられるなら、有能であれば受け入れられるになる。もともと無能も見捨てられるも思い込みなので、意味はないんだけどね。

そのことに気づいてから、今までも重箱の隅を突くような指摘をたくさんしてきたなと自己嫌悪に陥った。しかも会議では障害のある人向けのサービスについて話すことが多く、また僕は障害当事者なので「こういった表現は障害のある人にはしないほうが良いと思います」なんて、主語を大きくして指摘していた。ずるい立ち回りだ。

まっとうな意見が言える時にはちゃんとした発言をしてきたつもりだが、何も言うことが見つからない場合、そうやって無理矢理にでも存在をアピールしたかったんだと思う。

自分のことを被害者のように書くこともあったけど、やなこともたくさんしてきたんだろうなあ。きっと他のスキーマが刺激されるときにも同様だったはずだ。申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

霧が晴れたからって、素敵な景色が待っているわけではない。クリアになった分見たくないものも見えてくるだろう。それも受け止めよう。
僕はスキーマ療法を続けていく。大事なのは見えた景色じゃなくて、自分がどこに進んでいくかだ。進んでいけば、景色は変わる。

そう思うのも大事だけど、まずはへこんでおこう。それから自分のためだけの指摘を減らして、会議の目的に沿ってだまっている選択もしていきたい。申し訳ない気持ちは言動に変換していこう。
それも視界が開けたからできること。改めることは改めながら進んでいきたい。

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