人を嫌うことに慣れてきたころ
スキーマ療法を進めていく中で、戸惑っていることがある。それは人を嫌う回数が増えたことだ。
スキーマをほどいていき、自動思考に邪魔されることが少なくなるにつれ、自分の価値観がわかってきた。それは物事を判断する基準が明確になってきたことを意味する。
自分の基準が明確になれば、嫌いな人が増えることもある。なるほど想定できたことではある。
しかしどの本にも書いていなかったのと、自分の善性を高く見積もり過ぎていたせいか、僕はこの状況に混乱してしまった。嫌いになった人の中には会社の上司もいる。それを今回書いていこう。
僕は会社のことを書くときに、特定できないようにフェイクを混ぜている。今回のように負の感情を書くときは少しそれが多めになる。文章の意味は変わらないようにするので、多少不自然な箇所があっても流してもらえたらうれしいです。
嫌いになった人
僕がいて、その上にサブマネージャーがいて、さらにその上にマネージャーがいる。今回嫌いになったのはそのマネージャーだ。
数ヶ月前に就任したばかりで、その時から良い印象は持っていなかったが、この前チャットでのやりとりで明確に嫌いになった。
メンションというものがある。文頭に「@名前」とつけることで、グループチャットでも誰あての発言なのかを示すことができる機能だ。
マネージャと僕を含めた5人のグループチャットがある。マネージャーは管理者として全部のグループチャットにはとりあえず入っているだけで、実際その時まで発言は一度もなかった。
ある日僕と他の人が会話していた内容に対し、僕を除いた全員に@をつけてマネージャーが割り込んできて、そのまま僕以外の人で会話が進行していった。わざとやっているとしか思えなくて苛ついた。
「俺を飛ばして話してんじゃねえよ」というのがその時の気持ちだ。そしてマネージャーに対して「こいつ嫌いだ」と明確に認識した。同時にこれまでと違った自分の感情に驚きを覚えた。
偉い人に無視される、それは無能を意味する。僕の中ではね。
そしてそのことは「無能だから見捨てられる」という、僕の中核的なスキーマを大いに刺激する。だからこれまでなら同様なことをされた場合「僕がなにかミスをした」「無視されるなんて恥だ」といった自動思考が浮かんで自分を責めることに注力していたはずだ。
今回は違った。信頼関係ができてもいないのに、横入りすることにムカついた。そして信頼関係を築こうとしない態度も以前からイヤだった。
以前にその人が部全体に向けて話をするときに、ある部署には具体的に触れて、別の部署には触れないということがあった。触れたほうが自然な場面でである。
わざと差をつけてがんばりを促すとかいう戦略かもしれない。が僕はそれを尊重がないと感じて、良くない印象を積み重ねていった。
そういうことが何度かあってからチャットでの出来事につながる。結果として僕は人を尊重しない言動をする人、それも信頼関係を築こうともしない人が嫌いだ、ということが理解できた。またそれとともに「今」嫌いなんだと思うことで、すんなり受け入れられたのだとも思う。
「今」
そう「今」嫌いならそれでいい。なにも未来永劫嫌いでい続けるわけではない。意見を変えてもいい。そう思えたのも基準が明確になったから。
嫌う基準が明確だから、それが解消されれば嫌いじゃなくなる。シンプルだ。これってきっと「普通」のことなんだろう、でも僕にとってはりんごが落ちたような衝撃だった。
僕は見捨てられスキーマによって、好きや嫌いを過剰に重いものとして受け止めていたようだ。それも最近になってわかってきた。
マネージャーは僕と優先順位が違うだけで、このあと対話していくつもりかもしれない。あるいは僕から働きかけていくこともできる。実際にサブマネには「直接話す機会がほしい」と何度か伝えている。
もちろん「嫌い」とは言わずに「よりよく仕事をしていくために」というような理由をつけている。場を乱したいわけじゃない、それは僕にもメリットがない。
といってもこの「メリット」自体がこれまでとは変わっている。これまでの僕はスキーマに影響されて「見捨てられないこと」を一番のメリットとしていた。そのために無意識化で自分を曲げることもしてきた。
例えばコミュニティからはじき出されないよう、自分の感情をごまかすことも多かった。支配的な位置の人を嫌いになりそうなときに、見捨てられスキーマが発動し、自動思考の霧で素直な感情を覆い隠していた。
そこまでしてもコミュニティにいることを目的としていた。それは依存と言えるだろう。
僕は依存についてこれまで触れてこなかった。小さなコミュニティならまだしも、会社に依存というのも変だなという気がしていたのと、見捨てられ不安の中に依存も含まれているから、依存だけ独立して取り上げようと思わなかった。
しかしこれからは依存についても検討する必要があるだろう。これについては違う人の例があるので次回に書こうと思う。一つほどいたらまた一つ毛玉が出てくる。根気よく書いていくつもりだ。読んでくれている方がいてくれて本当にありがたい。
目的
話を戻そう。じゃあ現在なにを目的としているかというと、それは「僕が生きやすくなること」だ。そのために素直でいたいと思っている。
ただしそれは心の中でのことで、素直な感情をそのまま出せば生きやすくなるわけではないだろう。嫌いという感情をどう表出させていくかはまだ思案している。
今回曖昧にしていた「嫌い」の基準が明確になった。明確になったらもう目がそらせない。そしてこの基準に従えば、現在交流ある中にも嫌いな人が出てくる。その人たちの顔が浮かんできて気が滅入っている。
利害だけの関係ならまだいい、その中には好きだと思っている人もいる。これが一番抵抗がある。
といっても基準だけで好き嫌いが決まるわけではない。「自己中心的も突き抜ければ面白い」とか「才能は好きだけど性格は嫌い」なんてこともよくある。
僕は人を嫌うことを重く受け止めすぎていると感じる。0か100で、しかも永続するもののように思ってきた。
もっと部分的でも、変化してもいいものなのだろう。「今この人のここが嫌いなだけ」という感覚もぼんやりつかめてきた。もう少しかかるけど、悩む価値はあると思ってる。
スキーマの箱
自分自身を探り、スキーマを見つけ、それを受け止めてきた。そのおかげで視界が開けて新しい情報が一気に入ってきている。封印していた箱を開けたかのように。
箱を開けたことで飛び出してきたものの中には、人を嫌いになることも含まれている。もっと良いものが出てくると思っていたので、僕はその流れに戸惑い、動けないでいる。パンドラもこんな気持ちだったのだろうか。
人を嫌いになることに慣れてきたころ、箱は空になっているだろう。それが僕にとっての希望だ。何かに依らず自分で考えていけるようになる。
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