夢日記 八百比丘尼

 八百比丘尼。人魚の肉を喰べて不老不死となった尼が、とある寺にいるらしい。特に信心深いわけでもなく、ただ趣味を寺社仏閣巡りとしているだけの私がその話を人伝いに聞いて新幹線のチケットを取るまで、多くの時間は要しなかった。新幹線の中で、その寺は有名な観光地にあるものだからついでに様々なものを見て回ろうとスマートフォンで周辺情報を調べることにした。

 寺は波の荒い海辺の崖上にあり、寺の敷地内に足を踏み入れると一層磯が香った。どうやらちょうど八百比丘尼による説教が始まるらしく私と同じような観光客がぞろぞろと講堂へ集まって行った。
 講堂の中は広く、五百人はゆうに収容できそうなスペースだったが、椅子はやや広めに等間隔を空けて設置されており、二百席程しか無いようだった。時勢に合わせて、というよりも元からそういった造りのようだ。それでも我々が全員着席するには充分で、数席余っていた。
 全員が着席すると壇上に一人の尼が現れた。八百比丘尼だ。顔以外は全て尼装束で覆われ背格好は分からなかったが、息を呑むほど美しい顔立ちに私はしばしば見惚れてしまった。私以外の人々も皆同じであるように思う。
「こんにちは。本日はようこそ我々のためにお集まりくださいました。皆様のお目当ての八百比丘尼でございます。」
 「おお……」という感嘆の声が誰かから漏れた。私だったかもしれない。八百比丘尼による話は続く。顔も美しければ声も美しく、説教を聞いているはずが歌声を聴いているようだった。まるで御伽噺に出てくる人魚のようだ。その肉を喰ったというなら、人魚の性質が不老不死以外にも反映されるのかもしれない。そう思ったところで、私は意識を手放した。

 強烈な磯の匂いの中で目を覚ました。気が付くと四方を岩壁に囲まれており、私が寝ていた岩場を海水が取り囲んでいる。私の他にも何人もの人間が同様に寝ていたり項垂れていたり喚いていたりしている。ここは一体……。全員を把握している訳では無いが、どうやらあの講堂で八百比丘尼の説教を受けていた観光客たちが全員ここに集められているようだった。ふと上を見上げると遥か手の届かない天井に小さな穴が空いており、そこから陽の光が差し込んでいた。光は徐々にその裾を広げ、我々のいる小島とそれを囲む水面を明るく神秘的に照らしている。私は周囲を見回し、この小島が講堂と同じような広さであることに気付いた。だからなんだという話だが。
 視界の端で水面が不自然に揺れた。四方を囲まれているとはいえ潮の満ち干きはあるらしく水面は波打っていたが、それとは違う揺らぎだ。魚が居るのだろうかと覗き込もうとした瞬間、それは顔を出した。人の、顔だ。
「!?」
 私は声にならない叫びを上げ岩場へ尻もちをついた。それは、すいすいと容易く水を掻き分けて岸へ上がった。徐々に姿を現したそれを、我々は驚愕の眼で見つめた。人魚だ。上半身は人間で下半身は魚の生物。まさか実在したとは。八百比丘尼が存在するなら確かに人魚の存在も無くてはならないが、まさか、まさか。
 人魚は一匹ではなく複数いて、それぞれ何か荷物を抱えていた。海水に濡れた包みを開けるとそれは重箱で、中には食糧が入っていた。異様な状況に私は空腹など感じなかったが、何名かは手を伸ばして食べていた。「助かった。」と泣いて喜んでいた。人々の中には人魚に怒鳴りつけるようにここはどこなのか、出口はどこなのか訊く者もおり、人魚たちは顔を見合わせてにこにこと微笑み海の中へ消えていった。結局我々は何故ここにいるのか、ここはどこなのか、いつになったら帰ることができるのかなどの問いの答えは自身で見つけるほかなかった。

 あれからどのくらいの時間が経っただろう。一日のようにも、一週間のようにも、一ヶ月のようにも感じられた。人魚たちは定期的に食糧を届けにやってくる。それ以外はたまに姿を見せるくらいで多くは見かけることは叶わない。
 私はふと、ここは生簀のようだと気付いた。捕まえた魚を入れておく、ちいさな海。捕まえた人間を入れておく、ちいさな陸。この気付きは酷く恐ろしく考えすぎであれと願ったが、どうやら正解らしい。そうか。私はやっと八百比丘尼は、人魚を喰べた人間ではなく人間を喰べた人魚だったのだと気付いた。そして我々はもう二度と、己の足で自由に歩き回ることもできないことにも気付いた。気付いた、と言うよりかはとっくに分かっていたことをようやく飲み込んだ、という表現の方が合っている気がする。
 今日、人魚たちが我々を海中に招いた。私の涙は、海に混ざって彼らの糧となるだろう。

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