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大切なものとのきょり

ワンコが死んだ。といっても実家で飼っていた犬で、一年ほど会えていなかったのだけど、親から連絡が来てその死を知った。犬であれ、人であれ、命ある大切なものであることは変わりなく、それは家族の死と言っても良いものだろう。
ぼくはこの犬に対しては少々複雑な思いを抱いていた。というのもその前の飼い犬が死んでから、新しい命を迎え入れることに対しては慎重になっており、いつか失われることを先に考えてしまいどうしてもどこか可愛がりきれないところがあった。
もっとも、それはぼく個人の感想であって、他の家族の人間にとっては、特に世話をしている家族にとっては、そんなことは言えないような近い距離で長年にわたり世話をしてきていて、ぼくなんかよりもずっと愛情を注いでいたから、その死はとても大きい意味を持っているように思う。だから、その連絡を聞いた時、なかなかなんと言葉にしていいのかわからなかった。

この死を聞いて、ぼくはぼんやりとまちを歩きながら、ぼくにはどうやら、失われることを先に考えてしまい、愛情を注ぎきれない、そういった欠落があるような気がしてきた。いつからかぼくはこの欠落感を自分の予防線として、無意識のうちに装備していたことに気がついた。
この鎧は自分を過度に感情に揺さぶられないためには役立つのだが、同時にどこかもの寂しい、一歩踏み込めないという物足りなさにも繋がっているように思う。極端に言ってしまえば、自分の大切なものを失う経験をするくらいなら、先に自分がいなくなってしまった方が良いようにさえ感じることがある。つまり、ぼくには大切なものを失うことに耐えることができるような強さがないのだ。

では、失うことを恐れるあまりに、自分を先になくしてしまうとしたらどうなるのか。少なからず、悲しむ人はいるのかもしれない。こんなことを考えて、もしかしたら悲しむかもしれないひとが、ひょっとしたらいるのかもしれない、ということに思いを馳せて何とか生きているような気がする。だから、そんな可能性をできるだけ増やさないように、人とは親しくしたくない、とすらおもう。
ぼくはちょうど来週あたり実家に、とおもっていて、そのワンコの死に目にギリギリ会えなかったのだが、この距離を置くという予防行為が、最後の最後、ぼくとワンコを死に目に引き合わせてくれなかったのかもしれない。
そうやって、失わないように、と賢そうにやっていることが、本当はとても大事なことを遠ざけているのだ、ということにぼくはずっと気づいていたのかもしれない。

ぼくは強く生きていけるのだろうか。ぼんやりと歩いていると、一輪の薔薇がぼくの目に入った。そのはち切れそうな真っ赤な色は、なぜか、ワンコが生前走り回っていた命の強さを思い出させた。

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