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海と父と私と子ども

私の父は造船会社に勤務していた。
父の勤める会社は、石油を運ぶタンカーや海上保安庁の船や観光船などを作っていた。

父の勤める会社の造船所の近くに行くと、作りかけの大きな船があるのがよく見えた。

子ども心に、あんなに大きいものを作っているなんてすごいと素直に感心していたのをよく覚えている。

転勤が何度かあり転居をしたが、父が造船会社に勤務しているということで、子どものころ住んでいたのはどこも海の近い町であった。

私にとって海とはいつも身近な存在だった。

その中でも特に私が生まれてから6年ほど住んでいた清水の町の海のことをよく覚えている。

父は無口で小さな子どもと上手く遊ぶという発想がなかった。

父としては子どもの面倒を見るという、自分なりの精一杯の手段として、子どもの私を海に連れて行くということをよくしていた。

海に連れて行って、父は私に何をするわけではないが、私は砂浜を走り回って楽しんでいたような思い出がある。

私にとっての海の原体験は、静かな清水の海と、走りにくいけど幼稚園の園庭より面白い砂浜と、私を見守っている父の姿である。

時がたち、私も父親となった。
そこで感じるのは、毎週私を自転車に乗せて海まで連れて行くのは大変だっただろうな、ということである。

昭和50年代の当時は電動アシスト自転車はまだない。
港町に住んでいるとはいえ、自宅から海までは自転車で15分ほどかかっていたはずである。

私は毎日、保育園のお迎えに自転車で行っている。

電動アシスト自転車を使用していて快適なのであるが、もしこれが普通の自転車であると考えるとぞっとするのである。

子どもとはいえ自転車の自分の座席の前や後ろに乗せるとかなりの重く、圧倒的に漕ぎにくい。

電気の力なくして私は子どもを自転車に乗せる自信がない。

それを普通にやってくれて毎週海に連れて行ってくれていた父は、父親としての役割を果たそうとしてくれていたのかなと思う。

幼稚園の年長組になった頃も、自転車に乗せて海に連れて行ってくれていたので相当重かったはずである。

海に連れて行って何をするわけではないが不器用な父ながら、子どもの私が喜ぶと思い、父の脚力を使って私を海まで運んでくれた。

父も私も照れくさいのでその頃の海についての思い出を話したことはない。

ましてや私は感謝の気持ちなど表明したことなどない。

でも二人の思い出として、きっとお互いにずっと覚えているのは「海」という大きな共通項があるからだと思っている。

私は今、海のない県に住んでいる。
そして海や船にまったく関係のない仕事をしている。

私の子どもたちは海に行ったことがない。

私の海のない県から海はどれくらいかかるだろうか。

我が家の電動アシスト自転車の充電を満タンにして、それを漕いで私の子どもを海まで連れて行けば、いつの日かの私の父の気持ちがわかるのかなとふと思った。

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