揺るぎない個はどこにあり


何も考えないということは選択は一つということで、たくさん考えるということは選択肢が無数に見えるということだ。

それら選択肢のそれぞれの表裏があり、豊かさと貧しさがあり、救いと犠牲があり、プラスとマイナスがあるということに気づくということだ。

敏感すぎる私はそのマイナスに責任を持てる自分では無い事と、おこがましいという事を痛感してしまい何も選べなくなった。

選べないということは進めないということで、動けないということ。
このままではいけないと幾度となく思ってきた。
何も悲しいことが起きない代わりに何も嬉しいことが起きないことに何度も気づいてきた。
進むということは選ぶということで、選ぶということは生きるということだ。
選ぶためにはーーー生きるためには何が必要なのか。
そうしてぐるぐる夜の散歩に出掛けてはこの世界で迷子になっていく。
その繰り返しの中でふと考える事がある。
いまの自分に少しわかった答え。
選び生きること、そのために必要なことは自分にとって「大切なもの」を見つけることなのかもしれない。
大切なものを見つけることで、人は選択をし、生きる事ができる。
大切なものの為に、働く。
大切なものの為に、努力する。
大切なものの為に、目を瞑る。
会社の存続のために、社員をクビにする。
自国のために、戦争中は他国を殺す。
皆の飢えを凌ぐために盗みを働く。

一面で見ればそれはヒーローの様に映る。誰が責められようか。
しかしその一面では責められずとも、確かに不利益を被る人達は必ず存在する。

しかしそれが間違いでは無くなるのは、それぞれに「大切なこと」があるからだ。
自覚せずにその一面のヒーローを見れる人間は幸せだ。
しかし私はそんな世界を自覚して、捨てなければいけないものにはっきりと気づきながら、それでもきっと進まなくてはいけないんだ。
選ぶということは、そういうことだ。
だからこそ私達はご飯を食べるときに「いただきます」と言うのだろう。
自分たちが「生き延びるため」といい「大切なこと」のために死なせてしまった生き物に対して、償いと感謝をするのだろう。
わかった上で、ちゃんとごめんなさいと言いありがとうと言うのだろう。

そう思った私はけれども、何も力がないのに犠牲に敏感になり今日も進めない。
目的地に向かって歩けば目を背けたくなる事に目を背け、道を曲がり、引き返す。
立ち止まり、立ち止まる。
しかし立ち止まる中で少しわかった進むということ。
まだ進み方、生き方はわからないけれど、
私にとっての「大切なこと」は、やはり家族です。

そう気づいた私は、おそらくこれで一歩目。

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