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虚構日記「君とドライブ・マイ・カー」

ねえ君、実は君はわたしにとって大切な友人なんだよ。気付いてる?

わたしたちが初めて一緒に飲んだのは最寄りから二駅先のバーだった。バーにしては珍しくカウンター以外にもテーブルがあって、わたしたちは店の隅の4人テーブルに腰を下ろしていた。わたしたち以外にも友人がふたり座っていた。
奇妙な巡り合わせでわたしたちはそこで飲み合わせたわけだが、そこからさらに奇妙な色々があってわたしたちはふたりきりでよく飲むようになった。君とわたしはおそらく、表面上は似ていない。そもそも君とわたしは生物学的に性が異なるし。しかしわたしは、傲慢な発言を許していただけるなら、君のことは感情の源流を共有できる存在だと認識している。
感情の源流?
それすなわち、なにに喜ぶのか、なにに怒るのか、なにに悲しむのか、なにを楽しむのかというその「なに」であり、ある意味自身の公理である。それがかなり近しいと思う。擦り合わせたわけではないと思う。元々かなり似ていた。それが一緒に酒を交わしたり出かけたり議論していく中で、わたしたちの公理は融けあった。

そんなものだから、大学に入って一番仲良くなったのは君だ。
君もそうである必要はない。でもわたしにとってそれが事実だ。

2ヶ月前、君は言った。
久しぶりにあのバーに行きたい。
すぐさま同意した。わたしもいつかあのバーでまた飲みたいと思っていた。

2年ぶりに来たバーは改装済みだったが、テーブルの配置はあまり変化が見られなかった。好きなお席に、とバーテンダーが告げる。
カウンター席を選んだ。椅子とカウンターの高さがぎくしゃくしており、少し座りづらい。それでも、出会った頃を思い出しながら感傷を肴に飲むには十分すぎる環境だった。

毎度恒例の近況報告から始まり、会話内容はわたしが先日行った映画の試写会の話になった。濱口竜介監督の最新作を観てきたわたしは、どこが魅力的でどこが疑問だったかを丁寧に、熱弁した。
濱口監督の作品を好んでいるわたしは自然と『ドライブ・マイ・カー』の話もし始めた。
ふと、不安になった。
「ごめん、話しすぎている」
すると君はこう言ってくれた。
「いや、話させてるのは俺の方だし俺はあなたがそうやって話してくれるのを聞くのが好きだから、続けて」
ありがとう。礼を告げてからまた語り始めた。
ねえ君、実は君はわたしにとって大切な友人なんだよ。気付いてる?

『ドライブ・マイ・カー』は村上春樹原作の物語であるが、同じくらいチェーホフの『ワーニャ伯父さん』が重要な原作であること。作中の「もっと悲しむべきだった」という価値観への共感。美しいロケーション。そして、本当にこの映画こそ君に観てほしいんだという打ち明け話。
「てっきり、」
ラムベースの渋めのカクテルを片手に、君は言う。
「てっきり俺は、俺にはおすすめしてないものだと思っていた」
確かにわたしは誰彼かまわずおすすめの映画を紹介しているわけではない。ひとによって好みは違うし、押し付けたくもない。だからこそ、このひとは好きって思ってくれるかもしれないという確証があったとき初めてその映画の話を人前でするのである。その点でいえば『ドライブ・マイ・カー』が君の好みに合うんじゃないかとはずっと、なんなら出会ったときから感じていた。でも、すすめていなかった。

なぜか?
恐ろしかったのだ。この映画について、わからないと言われることが。

わたしの倫理とこの映画は、危険すぎるほど密接だ。それはもう、わたしと作品の境がわからなくなってしまうほどに。
もしこの映画について「よくわからなかった」なる感想を抱かれてしまったら、あるいは気を利かせて「難しかったけど面白かった」のような感想を伝えられてしまったら。わたしはわたしを保てなくなってしまう。だから、この映画は誰にも、それは信用している君にもすすめてこなかった。

それでも身体にとってアンバランスなこのバーカウンターは、わたしを欲深くさせた。
本当は大好きな映画を大好きなひとに観てほしい。そんな欲求に正直になるよう仕向けさせた。

わたしはあなたに観て欲しい。そう伝えた。
ふと、ここでアイディアが通りがかった。
もしよかったら、一緒に観る?

提案はこうだ。
『ドライブ・マイ・カー』を一度、君がひとりで観る。そして、二回目をわたしと家で観る。
わたしの副音声とささやかな解釈をお伝えしながら、お酒を飲みながら、一緒にわたしの大好きな映画を観ない?
君はこの話に乗ってくれた。そのときのわたしの喜びが君に伝わったらな!

そんな流れで、わたしと君は昨日、一緒に『ドライブ・マイ・カー』を観る運びになった。一部改編したところもあるけど、だいたいこんな感じだったよね。

約束の日、研究室での用事を済ませたわたしは夕方5時ごろに君の家を訪問した。
君はミネストローネを作って待っていてくれた。
すぐに映画の話を始める。前置きはいらない関係性の心地よさが頬をほころばす。君は読んでおいてとわたしが言っておいた『ワーニャ伯父さん』をしっかり文庫版を買って読んでいてくれていて、付箋まで貼っていてくれた。わたしはその時点でうるっときてしまいそうになった。まだ本編でもないのに。

そろそろ観ようか、と言い再生ボタンを押した。
約束通り解釈などを挟みながら映画を観る。ちょっと停止してもらっていい?とお互いに言いつつ、映画は走っては止まり、また走る。

映画に流れる「絶望の肯定」という要素。これはわたしがこの映画のなかで最も気に入っているエッセンスである。
君がどれくらいそれに共鳴してくれているかはわたしには覗き込みきれないけど、映画を観ている横顔が語りかけてきていたものがわたしにとっての真実と思いたい。

ラストシーンは部屋を真っ暗にして、静かに観た。
静謐な部屋は完全にわたしたちだけのものだった。

わたしは、君とこの映画を観れたことが本当に幸せだった。
君との思い出はたくさんあるけど、アルバムを作るのなら1枚目は昨日撮ったおいしいミネストローネの写真がいい。

ねえ君、また映画を一緒に観ようね。
わたしたちは恋人同士でもきょうだいでもないただの赤の他人同士だけど、映画を観ている時くらい、わたしたちだけになろうよ。


『ドライブ・マイ・カー』についての過去の記事はこちらから

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