【第7章】奈落の底、掃溜の山 (5/23)【途絶】
【微酔】←
「……やられた!」
『淫魔』は、自分の部屋の中央に設置された天蓋付きのベッドのうえに腰かけながら、ウェーブロングの髪をかきむしる。
「罠にしたって、あんまりにも陰湿だわ……!」
『淫魔』は、いらだちながら立ち上がり、まぶたを閉じる。意識を集中して、心の中からアサイラに語りかける。
(CQ、CQ……アサイラ……聞こえている? 応答するのだわ!!)
いつまで待っても、なんど繰り返しても、返事はない。
アサイラと『淫魔』は、通常、精神感応の状態にある。その気になれば、いつ、どこにいても、次元世界<パラダイム>をまたいで念話による通信が可能……のはずだった。
「あー、もう……どうすりゃいいのよう!!」
髪をかきむしりながら、『淫魔』は部屋のなかをぐるぐると歩き回る。アサイラと通信が成立しなけれれば、呼び戻すどころか、生死の確認すらできない。
「グリン、グリン……まずは落ちつくのだわ、私ッ!」
『淫魔』は立ち止まり、自分自身を叱咤する。自分のしたこと、できること、そして、起こり得ることを、整理しようと試みる。
『淫魔』は、異なる次元世界<パラダイム>同士を行き来するための『扉』を作り出すことができる。いつも、アサイラを送り出すために使っている。
次元世界<パラダイム>間の移動は、決して安全なものではない。移動の途中で『穴』に落ちてしまい、目的地に到着できないことがある。
よしんば目的地に到着しても、そこが外部からの観測を拒絶する性質も次元世界<パラダイム>の可能性もある。
「今回は……その両方だわ」
『淫魔』は、そう結論づける。
もちろん、転移事故を避けるために『淫魔』はいつも慎重を期して『扉』を作る。事前の移動先の観測も、欠かさない。
そのうえで、事故や偶然にしては、今回の事態は出来過ぎている。
「やってくれるのだわ……セフィロト社!」
『淫魔』は、かつかつとハイヒールの音を響かせながら、部屋の螺旋階段を登っていく。その先には、『淫魔』の自慢でもある『天文室』が広がっている。
頭上は、ガラス張りのドーム状天井。その向こう側で瞬いている星々が、数多に存在する次元世界<パラダイム>たちだ。
天文室の中央には、これまた『淫魔』ご自慢の『天球儀』が設置されている。
魔法文字<マギグラム>が刻まれたいくつものリングが組み合わさって、その中央に望遠鏡が取り付けられている。
異なる次元世界<パラダイム>を観測するために不可欠な道具であり、転移のための『扉』を作るためにも必要となる。
「セフィロト社……ダミーアドレス……まんまとだまされたのだわ!」
次元世界<パラダイム>の転移や観測には、その世界が存在する座標情報──アドレスが必要となる。
『淫魔』とアサイラは、そのアドレスを、異世界間巨大企業セフィロト社から強奪した社員証に刻印された情報から得ている。
今回の一見は、セフィロト社の反撃だ。利用したアドレスに、なんらかの悪意ある細工が施されていたのだろう。原理的には、十分にあり得る。
「ああ、もう……ッ! なんだって、こんな面倒くさいことを!!」
『淫魔』は天球儀のかたわらに立つと、自身が身につけるゴシックロリータドレスの大きく開いた胸元、そこからのぞく豊満な乳房の谷間から、そろばんを取り出す。
「私、算数とか数学とか苦手だわ……できないわけじゃないけど!」
細くしなやかな指が、そろばんの珠を素早い速度ではじいていく。アサイラを転移させたアドレスの誤謬を検算し、正しい情報に補正する。
計算結果を導き出すと、天球儀に刻まれた魔法文字<マギグラム>を書き直し、望遠鏡を覗きこむ。
「見えた! これが、転移先の次元世界<パラダイム>……」
接眼レンズの向こう側には、一面、灰色の光景が広がっている。
『淫魔』はピントを調整し、それが下まで見通すことのできない、厚く渦巻く雲であることを確認する。
「うぬぬ……やっかいな次元世界<パラダイム>だわ」
やはり、世界自体が観測を拒絶している。雲の下に焦点をあわせられない。
「雲の切れ目でも、あればいいんだけど……」
『淫魔』は、座標を微調整しつつ、根気よく次元世界<パラダイム>の観測を続ける。
「あった……これだわ!」
額に汗を浮かべた『淫魔』が、歓声を上げる。ぽっかりと切り取ったような、雲の穴を見つけたのだ。
円筒状の巨大シェルター、内部に広がる無機質なビル街。セフィロト社の小拠点。『淫魔』がアサイラを転送しようとした、本来の目的地の光景が見える。
「なるほど、同一次元世界<パラダイム>の座標偽装! 気づかないわけだわ……」
『淫魔』は、いま見ている世界のどこかに、アサイラがいると結論づける。
「これは、直接、私が転移してアサイラを回収するしかないのだわ」
『淫魔』は、修正したアドレスをもとに『扉』を作りだそうと、虚空に手をかざす。そこで、ぴたりと動きを止める。
「私は、なんで、ここまで必死になっているんだろう……」
『淫魔』は、自問自答する。もともと、アサイラとの協力関係は、いきずりのきまぐれによるものだった。
アサイラに関わって巻きこまれた面倒ごとも、少なくない。ここでアサイラを見捨てても、『淫魔』にとっての不利益はほとんどなかった。
→【潜入】
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