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映画「ドライブ・マイ・カー」深く孤を愛するためにこそ語る

顔を向かい合わせて言葉を交わすとき、そこには話しているわたしと聞いているあなたがいる。わたしの発した言葉にあなたは、うんうんと相槌をうつ。溶け合っているように思えてくる、わたしの言葉はきちんとあなたの中に流れ込んでいる、と。
わたしもあなたの言葉にうなづく。あなたと同じように心が動いたと思ってうなづく。その時わたしは、あなたに近づくことができた、と感じている。
それなのにわたしたちは、互いの背中のどこが痒いのか同じように感じることができない。そして、分からないという、のっぺりと滑らかで厚く固い壁を前に、深く深く、わたしとあなたは別の存在なのだと知る。乗り越えることのできない、交わらない個であり“孤“であることを目の前に突きつけられる。

本作品のテーマの一つは孤独であると思う。個、と言い換えた方がより主観的なニュアンスを排除できるような気もしているが、その主観的なニュアンスも含めて、孤独という言葉をここでは選びたいと思う。

作品では、日常的な会話を通じて、役を通じて、身体的な交わりや、衝動と社会の交わりを通じて、孤独という我々が持つ避けられない性質が提示される。
「わたしはあなたではない。」その事実は親密で良好な関係であればあるほど、好意的な仕方で忘れられることがある。でもわたしたちは本来孤独な存在だ。わたしの眼差しは、わたし以外の視点から在ることはできないし、他者の肉体を得て世界を生きることはできない。
そのことは、時に観客であるわたしたちに対しても直接的に、絶対的な他者として語りかける演出によって現れる。

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孤独を語る時、時勢を見過ごすことのできない時代に我々は生きている。
食事に行ったり旅行に行ったり、親密な関係が何の気無しに続く日常にあった、何気ない相槌や、それとなく向き合う顔と顔の間には生じなかった人間の性(さが)に、気づかざるを得なくなった。
誰とも話さず静かに電車に乗る時、包まれているはずの街の音に不思議なくらいに心が馴染まないのは、なぜなのだろうか。時に一人きりで部屋にいるよりも、静かに雑踏の中にたたずむ方が一層深い孤独を感じるのはなぜなのだろうか。

人と相対することは、絶対的な他者の存在を自覚させられることによって、そうした孤独が眼前に差し出されることだ。
我々は本来孤独だ。しかし、差し出された孤独を見つめ、受け取り、異なるものは異なるままに解釈することができる。だから我々を隔てる滑らかで厚い壁は、断絶を意味するものではない。そこには解釈の可能性があり、真摯に向き合うことで融合できる地平がある。孤独を引き受けることは、そんな豊かさを得ることでもある。

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作品を通して、私たちが個であり孤であることの表現に言語が使用されていることも印象的だった。
言語という道具を得て我々は、意味を共有することができるようになったが、言葉を交わしても私たちは孤独な存在であることに変わりはない。
相手から意味を受け取ったと思っているのに心がざらつく時、わたしは発されるその言葉が何を語ろうとしているか、そこまで聞き取ることができているかと疑わしく思うことがある。
「何を聞くのか」それは単に鼓膜を震わす単語の意味を理解する、ということにとどまらない。

家福はテキストとの向き合い方に個性のある演出家だ。
そして彼の演出のもとで役者たちが演劇を作ってゆく過程の中で、言葉と役者は真実に近づいてゆく。作品の中で家福が表現するこだわりの一つ一つによって、我々観客はもう一つのテーマとも言える「真実」について問われる。

「真実はどこに宿るか。」険しい道のりが想像に難くない問いであると同時に、希望に満ちた問いだと思う。

言葉はあなたの中で生まれ、わたしに伝わり、わたしとあなたの間の空間を形作る。それは言葉ではない言語的な何かで表されることもあるだろう、その関わり合いのどこに真実を見つけるか、ということは、孤独な人々の信頼の物語なのではないか、とも感じた。

同じにはなれない孤独なひとりとひとり、という他者のまま、あなたの言葉を聞けることがどれだけわたしにとって豊かなことか。
あなたの視点で世界を見て、それがわたしに伝わることが、共に見ようと懸命に言葉を紡ぐことが、どれほど尊いことか。
それにわたしはいつも気づいていたいと思うし、何度でもその事実に感動したいと思う

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