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〔小説〕キセキ~at Cafe Yuko~・全文

※3回に分けた小説の全文掲載です※

◇◆◇

「まあ、お母さんに彼氏がいるのは、何となく知ってたけどさ」
 いつもより早口で言いながら、幹子は隣にいる私と、テーブルの向かい側に座った、健太郎の顔を順番に見る。
「でも、よりによって、何で三沢先生なの」
 そして、私ではなく、彼にその問いをぶつけた。
 Cafe Yuko。窓の大きなこのカフェは、健太郎と私にとって、大切な居場所だ。山小屋をイメージしたウッディな内装と、壁にかかったピンクの花束の水彩画が、店内の空気をやわらかく包んで、居心地の良さをかもし出している。
 空間にゆとりを持たせた店内には、4人がけのテーブルが3つと、カウンターに椅子が3脚。今夜は珍しく、私たちしかお客がいない。
「よりによって・・・そうだよな。幹子からはそう見えるよな」
 健太郎は、私の恋人としてでも、そして幹子の担任教師としてでもない、不思議な表情をしていた。浮かんでいるのは、困惑。きっと鏡を見たら、私も同じなんだろうな、そんなふうに思う。
「悪いことじゃないのはわかるよ。先生は独身だし、お母さんだって、あたしが3歳の時にお父さんが死んじゃって、その後ずっとひとりだもん。それはわかる」
「頭ではわかるけど、納得できない、ってことか?」
「違うよ先生、納得できないっていうか、ん・・・そういうことじゃなくて」
 健太郎から目を逸らし、幹子は両手で、水が入ったグラスを包み込む。伸ばしかけの髪が横顔を隠すせいで、娘の気持ちを察することはできなかった。

◇◆◇

 健太郎に初めて会ってから、もう少しで丸2年が経つ。高校二年生になった幹子のクラス担任として、彼が私たち保護者に、着任の挨拶をした時が最初だった。
 中肉中背の、どこにでもいそうな40代前半のおじさん。私はまず、同世代のくせに、そんな印象を抱いてしまったのだけれど。
「C組を担当させていただきます、三沢健太郎と申します」
 初めて聞いたその声が、びっくりするほど、深く透き通っていた。
 鼻にかかったり、かすれたりということがまったくない、まっすぐに届く声。それなのに、もっと聞いていたいと思うほど、耳にやわらかい、そんな声は初めてだった。
 それまで私は、娘を育てるのに精一杯で、男性に目を向ける余裕など、びた1秒ないような生き方をしてきた。だから、健太郎の声を初めて聞いたとき、心が揺れた自分自身に、正直、驚いていた。
「声が素敵な先生? いいじゃない、それって」
 そんなことをママ友に言えるはずもなく、初めて話を聞いてもらったのは、このCafe Yukoのオーナー、優子さんだった。
「声って重要だよね、絶対。真理ちゃんがどきどきするの、何となくわかるなあ」
 でも優子さん、どきどきって言っても、いい声って思った、それだけですよ。言い訳をしながらも、私は顔が熱くなるのを自覚していた。
「それでもいいじゃない、真理ちゃんはずっと、仕事に子育てに頑張ってきたんだから。やっと、周りを見る余裕ができてきた、ってことだと思うよ」
 優子さんはそう言うと、これはサービスねと、とても美味しい紅茶を淹れてくれた。
 けれど、その時は、彼女に話した以上の気持ちなど、まったく抱いていなかった。幹子の担任といっても、そんなに会う機会もないし、三者面談や保護者会以外では、個人的に話すことも、多分ない。
 きっと、幹子が卒業を迎えた時、そういえばこんなこと思ったっけ、と笑い話にするのだろう。そう予測してもいたのに。
 まさか、その卒業を控えた2年後の今、幹子に再婚の承諾を求めることになるなんて、想像したこともなかった・・・。

◇◆◇

「でもさ、先生とお母さんがつきあってるなんて噂、ぜんっぜん聞いたことないんだけど」
 グラスを両手に包んだまま、しばらく黙っていた幹子が、再び口を開き、私の物思いを引き戻した。
「だいたい、親の誰と誰が不倫してるとか、そんな話は、みんなにバレてるもん。でも、ふたりのことは、噂になる気配もなかったよ」
 一瞬、隣の私に目を向けてから、幹子はまた、促すように向かい側の健太郎を見る。娘なりに、母親ではなく、担任教師から話を聞こうと決めたのだろうか。
「それは、先生・・・いや、俺と真理さん、じゃなくて、お母さんは」
「普通に話していいよ、先生。俺って言っても、お母さんのこと、真理さんって呼んでも」
「ああ、じゃあ、そうだな。俺と真理さんは、外で、ふたりきりで会ったことがないんだ。いつも、ばらばらにこの店に来て、食事して、ばらばらに店を出る。そういうつきあい方をしてきたから、噂にならなかったんだろうな」
 とんとんとん。カウンターの奥の厨房から、包丁がまな板を奏でる音が、かすかに聞こえてくる。優子さんが食材を切っているのだろう。
「ここだけ? ふたりで遊びに行ったりとか、なかったの?」
 この問いだけは、私に向かって飛んできた。うん、このお店と学校以外で、先生に会ったことないの。そう答えると、幹子は不思議そうに首をひねる。
「わかんない。ただ、ここで一緒にごはん食べるだけの関係だよね? それって、つきあってるって言えるの?」
「それは、俺にもわからない。俺が真理さんに言ったのは、つきあってじゃなくて、結婚してください、だから」
「それって、お母さんに、つきあってもいないのにプロポーズしたってこと? 学校とこのお店でしか、会ったことないのに?」
 なにそれ。唇の動きだけでそうつけ加えて、幹子はまた、健太郎と私を交互に見る。
「先生とお母さんが初めて会ったのは、先生がうちのクラスの担任になった時だよね? 二年の春」
「ああ、そうだよ。俺が着任の挨拶した時」
「じゃ、初めて2人で、このお店に来たのは?」
「着任してから、3週間くらい後だったかな。俺が日曜に、たまたま見かけたこの店に入ったら、真理さんが来てたんだ。偶然にね」
 それ以前から、私はこのカフェが大好きで、何度か幹子を連れてきたこともある。健太郎が初めて、このお店に入ってきた時、私はカウンターで、ちょうど手が空いた優子さんとお喋りをしながら、ナポリタンのパスタを食べていた。
 あ、中田幹子ちゃんのお母さん。彼は、私の顔を見て、すぐにそう言った。最初は、最初の最初は、お互いに娘の担任と、生徒の保護者、それだけでしかなかったのだ。
「あたしには、わかんないよ」
 幹子は呟くように言い、水のグラスを小さく揺らす。
「先生のことは、あたし、嫌いじゃないよ。お母さんにも、あたしが就職したら、今度は自分の幸せを見つけてほしいと思ってる。でも」
 でも。その次の言葉を、健太郎と私は待った。
「はっきり言って、わかんないの。2年間も担任でいる先生が、今度はお父さんになりますよって言われても。だって先生は先生だし、それにあたし、お父さんっていうのがどんなものかも、知らないんだから」
 ・・・幹子。
 ごめんね、幹子。
 お父さんっていうのが、どんなものかも知らない。その言葉に、大袈裟でなく、胸のあたりがぎゅっと痛くなる。
 私は、幹子の気持ちをあまりにも無視して、自分だけが幸せになりたいと願っているなのだろうか。そう思うと、身体の芯がねじれるような気持ちだった。

◇◆◇

 私に対する健太郎の呼び方が「幹子ちゃんのお母さん」から「真理さん」に変わったのは、彼と3度目に食事をしたときだ。ふたりとも、優子さんが作った、絶品のオムライスに舌鼓を打っていた。
「わあ、ごめんなさい、馴れ馴れしかったですよね」
 テーブルを挟んで、向かい合った彼の顔が、笑ってしまうほど真っ赤だった。
 全然、そんなことないですよ、私はなんて呼べばいいですか? そう答えると、彼は赤い顔のまま、嬉しそうにきゅっと笑って。
「三沢でも健太郎でも、お好きなように」
 そして、思い切り照れた。
 名前で呼ぶのはさすがにハードルが高く、三沢さんと呼び始めたけれど、それをきっかけに、私たちの距離はどんどん近くなっていった。
 まず、お互いの昔話や好きな物について語ることが多くなった。そして、サッカー観戦と自転車という、共通の趣味をふたつ持っていることがわかると、あっという間に敬語が消えて。
 程なく、LINEの連絡先を交換すると、偶然頼みではなく、待ち合わせて店に行けるようになった。
 彼の声は耳触りがいい。そこから始まった思いが、彼と話していると楽しい、彼の向かい側は居心地が良い、というように、少しずつ色を変えて行く。
 けれどその一方、心のどこかで、もうひとりの私が、確かにブレーキを踏み続けていた。
 幹子の担任教師としての三沢先生。そして、ずっと娘と2人だけで生きてきた、母親としての私。前提を壊せば、きっと辛い結末になる。そう思っていた。
 ・・・否、違う。
 思おうと、していた。

◇◆◇

「お母さんが恋をしたのは、でも、あたしは嬉しい」
 黙り込んだ健太郎と私を救うように、幹子が、少しだけ声を大きくして言った。
「ね、先生。あたしが物心ついたときはもう、お母さん、毎日忙しかったの。仕事して、残業の日もあったけど、家事もして、あたしには絶対、泣き顔なんか見せなかったよ。片親だから何かできなかったとか、何か我慢したとか、そんな記憶もないの」
「幹子・・・」
 健太郎の声が、揺れる。
「あたしが高校になって、ずっとコンビニでバイトしてたのも、進学じゃなくて就職するって決めたのも、早く自立したかったからなの。お母さんは、あたしのバイト代は1円も受け取ったことないし、進学していいって言ってくれたんだよ」
 鼻の奥がきゅっと痛くなり、私は自分が泣き出しそうなことに気付いた。
「お母さんには、これからは、自分のために生きて欲しいと思ってる。でもね、でも、三沢先生をお父さんとして受け入れるって言うのは、どうしても想像つかないの。結婚したいって言われても、わかんないの」
 それ以上、誰も口を開くことができなかった。
 ママ、だいじょうぶ? 幹子が小さい頃、口癖のように言っていた声が、ふと頭に蘇る。これを言わせたくないから、私は頑張れてきたのに。
 ・・・どうしよう。これで良かったのだろうか。
 鼻の奥の痛みが強くなり、目の奥が熱くなってくる。もう限界、もう涙を抑えられない。そう思った時、カウンターの中から、優子さんの足音が聞こえてきた。そして、美味しそうな香りも。
「お取り込み中にごめんね、ごはんができちゃった」
 言いながら、彼女はカウンターとテーブルを二往復して、白い長方形の皿と、八角形の小皿を運んできた。3人分の、同じ料理。
「わ、すごいきれい!」
 それを見た幹子の声が、ぽんと弾む。
 長方形の皿には、山形に盛ったご飯と、色とりどりの野菜を使った炒め物、ピンクのソースをまとった海老とブロッコリーが、可愛らしく並んでいる。アクセントは、ヘタのついたプチトマト。小皿の上には、黄緑のレタスでおめかししたポテトサラダが、丸く乗せられていた。
「今日のごはんセットは、鶏肉とカシューナッツと野菜の炒め物に、エビマヨなの。小皿はね、いぶりがっこのポテトサラダ」
「いぶりがっこって、何?」
 幹子が私に、不思議そうに聞いてくる。大根を燻製してつけた漬物だよと答えると、びっくりしたような表情になった。

◇◆◇

 健太郎に出会って、1年が過ぎた昨年の春。3年生になった幹子の学年では、女性教師と生徒の父親の不倫問題が発覚して、ちょっとした騒ぎになっていた。
「既婚者同士のそういう関係だから、俺たちとは違うと思うけど」
 美味しいピラフをいただいたあと、コーヒーを飲みながら、健太郎はいつになく深刻な表情で、その話を始めた。
 Cafe Yukoでの、ささやかな逢瀬も1年。ざわついた状況に、健太郎は少しだけ警戒しているのだろうか。最初は、そう思った。
「そもそも、地元じゃなきゃ大丈夫だろうって、ふたりで旅に出たのがまずかったんだ。旅先でたまたま、他の父兄が見かけちゃったから」
 私たちは、ここでしか会ってないもんね。口ではそう返しながらも、本当は違うことを言いたかった。もし誰かが今、店に入ってきて、私たちの関係を訊いてきたら、なんて答えるの?
「日曜に一緒に食事をしてるって言っても、俺たちは独身だし、幹子のバイトが休みのときは、真理さん来ないから、やましいことは何もないんだけどな」
 けどな・・・けど、何だろう。
 健太郎が、大切な話をしようとしている。そんな気がした。
 渦中の女性教師が、何度も校長室で叱責されたり、一部の教師や生徒から、いじめに近い非難をされているという話は、幹子から聞いていた。相手の保護者の子供も、ずっと登校していないという。あの先生も、そのうち、学校に来れなくなっちゃうんじゃないかな。幹子のそんな言葉を、ふと思い出した。
 健太郎も、もしかしたら、誤解を招く可能性がある関係を、白いうちに切りたくなったのだろうか。
「この1年、日曜が来るのが楽しみだったよ。今週は、真理さんとCafe Yukoに行けるかな、なんて、子供みたいにはしゃいだりしてさ。まあ、人目も、幹子の気持ちもあるから、2人で他の所へ遊びに行こうとは、どうしても言い出せなかったけど」
 ああ、やっぱりそうか。
 そうなんだ。
 テーブルの下で、両手をぎゅっと握って、私は身構えた。もうこんなことはやめよう、そう言われても泣かないように。嫌だと困らせることのないように。
「でも俺、本当は真理さんと、太陽の下を一緒に歩いたり、自転車で走りたかったよ。何の警戒心も持たないでさ」
 お気に入りのネイルを塗った爪が食いこんで、手のひらが痛かった。その物理的な痛みに、心を少しだけ逃がして。
「だから、真理さん。はっきり言うけど」
 心臓が、ひとつ脈打った。初めて、健太郎の声を聞いた時のように。
 そして。
「俺と、結婚してください」
 ・・・?
 えっ???
 てっきり、もう会わないと言われると思っていた私は、その言葉の意味が、まったくわからなかった。結婚って、えっ、なんだっけ結婚って?
 思わず健太郎を見つめてしまうと、その顔は、耳まで真っ赤に染まっていた。
「あっ、いや、わかってるよ。結婚の前に、本当はまず、つきあってくださいって言うべきだってことは」
 慌てて顔の前で両手を振り、健太郎は照れながら話を続けた。
「でも、やっぱり真理さんは幹子のお母さんだし、俺は彼女の担任教師なわけだから、俺たちがつきあってる、なんて学校で噂になったら、幹子の居心地が悪くなると思ってさ」
 こんがらがった頭でも、それはわかる。だけど、だからと言って、いきなり結婚?
「だから、彼女の卒業を待って、つきあってくださいって言おうかとも考えたよ。でも、それじゃあと1年あるし・・・あと1年も待ったら、きっと結婚したくなるだろうと思ったんだ」
 だったら最初から、結婚してください、って言っちゃおうと思ったの? やっと頭が解れてきた私の問いに、やっぱり変かな、変だよな、と彼はぎこちなく笑う。その表情が、40代の男性には失礼だけれど、とても可愛らしかった。
 はい、よろしくお願いします。ほとんど反射的に、私がそう答えてしまったのは、その笑顔のせいだったのか、それとも、その願いが、私の中にもあったからなのか。それだけは、今でもわからない。
 けれど、私たちが結婚となれば、やはり幹子も平常心ではいられないだろう。そう考えて、彼女に話すのは卒業の1ヶ月前、婚姻届を出すのは卒業後と決めた。それまで1年、お互いの決意が変わらなかったら、本当に結婚しようと。
 そして、卒業を控えたこの2月、私たちはすべてが始まったCafe Yukoで、幹子に承諾を求めている。

◇◆◇

「いただきます」
 料理の写真を撮った幹子が、スマートフォンをバッグにしまうと、小さく手を合わせて言った。そう、今はまず、食べよう。
 鶏とカシューナッツの炒め物は、刻んだ3色のパプリカや茄子、きくらげ、玉ねぎが使われていて、見た目にも口の中でも、カラフルで楽しい。
「すっごく美味しいね!」
 幹子の声が、もう一度弾んだ。
「こんなに野菜を刻むの、大変だろうけど、美味しいよな」
 健太郎の声も、今日いちばん軽やかに響く。
「先生とお母さんも、こんな美味しいものを一緒に食べてたら、仲良くなるよね」
「まあ、確かにそれもあるかな。でも、それだけじゃないぞ」
「あたし、ふたりがどんな話してるのか、想像もつかないんだけど」
 美味しいものを食べ始めた2人は、自然な様子で、なめらかに話せている。
「いちばん多いのは、自転車とサッカーの話かな」
「えっ、先生も自転車乗るの?」
「乗るよ。こう見えても大会にも出たんだぞ、たまにだけど」
「想像つかない、でもお母さんも乗るから、確かに話は合うよね」
 お父さんっていうのが、どんなものかも知らない。先程の幹子の言葉と、目の前の光景が、ふっと頭の中で重なる。やさしい未来を想像してしまう私は、甘いのだろうか。
「わ、ポテトサラダもすごく美味しい」
「いぶりがっこがすごく合うよな」
「だよね、漬物っていうよりスパイスみたい。これ、丼で食べたくなるね」
 食事を始めたことで、幹子の雰囲気が明るくなり、健太郎が少しお喋りになった。美味しいものには、こんな力もあるのだなと、改めて思う。
 皿の右側に乗ったエビマヨも、淡いピンクのソースをまとった、海老の赤とブロッコリーの緑が、優子さん本人のように可愛らしい。けれど、幹子はどういうわけか、それには手をつけようとはせず、健太郎にこんなことを訊いた。
「先生、あたしのエビマヨ食べる?」
「え、何で?」
「あたし、エビマヨって苦手なの。前に食べたことあるんだけど、甘くて脂っこくて」
 健太郎は以前にも、優子さんのエビマヨを食べたことがあり、本当に美味しいと絶賛していた。きっともらうんだろうな、そう思ったのだけれど。
「でもさ、優子さんのは絶品だから、幹子も少し食べてみなよ。それでも口に合わなかったら、俺もらうから」
 彼は、まるで父親のようにそう答えた。
 思わず幹子の反応を見ると、彼女も同じことを感じたのか、一瞬ぴたりと動きを止めて。
 ・・・そして。
「じゃあ、先生、お母さん」
 そして、娘はとんでもないことを言い出した。
「このエビマヨが美味しかったら、あたし、先生とお母さんのこと、素直に祝福することにするね」

 聞き間違いじゃ、ないよね?
 あまりの驚きに、私は箸を落とすところだった。
「あのさ、幹子、こんな大事なこと、エビマヨで決めていいのか?」
 健太郎の顔が、急に赤くなってくる。それは、彼だって驚いただろう。突然、こんな爆弾のようなことを言われるなんて。
「だって、あと何ヶ月考えても、絶対、答えなんかわかんないもん」
 戸惑う私たちにはお構いなしで、幹子はさらりと答える。
「でしょ? 卒業しても、先生は先生だし、お母さんはお母さんだし。あたしが先生を大好きとか、大嫌いとかなら答えも出るけど、どっちでもないし」
 だからって、そんなに簡単に決めていいの? 私の問いも、娘はにっこり笑って受け流してしまった。
 いや、もしかしたら、簡単ではないのだろうか。ふと、そんな考えが下りてくる。
 幹子はきっと、嫌だとは言えないのだ。私の幸せを、手折らないために。けれど、クラス担任を父親として迎えるのも、おそらく抵抗があるのだろう。
 私たちはきっと、父親がどんなものかも知らない、という18歳の娘に、難しい選択を迫っている。エビマヨが美味しかったら、というアイディアは、簡単に聞こえるけれど、彼女にとっては絞り出した結論なのかもしれない。
「じゃあ、いただきます」
 幹子はそう言うと、海老をひとつ持ち上げた。
「どうぞ。絶品だよ」
 どうぞ。美味しいよ。
 重なった健太郎と私の声が、どちらも静かに響く。
 自信あるんだねと呟いてから、幹子はそっと、海老を口の中に置いた。そのまま、ゆっくりと噛みながら、私たちの顔を交互に見て。
「・・・うん! 確かに、絶品だね」
 そして、はっきりした声で言った。
「あたしが前に食べたエビマヨと、全然違うよ。脂っこくも、変に甘くもなくて、コクがあるのにすっきりしてる。これ、いくつでも食べられちゃうね」
「だろ? 絶品だよな」
「うん、認める。エビマヨ美味しいことも、あと・・・ふたりの、結婚も」
 不意に、幹子の声が揺れた。あっ、と思った次の瞬間、その瞳に涙があふれてくる。健太郎が慌てて、ポケットのハンカチを探す仕草を始めた。
「先生、お母さんのこと、甘やかしてあげてね」
 幹子はそれを気にもせず、自分のハンカチを取り出しながら、震える声で言葉を続ける。
「お母さん、ほんっとに今まで頑張ってきたの。仕事も、あたしのことも、家事も、いつ寝てるんだろうって思うくらい、頑張ってたの」
 今度は、私の目頭が熱くなってきた。
 幹子は、こんなふうに私を見ていたんだ。
「だから、これからは先生が、お母さんを楽しませてあげて。自転車も、これからは一緒に、いろんなところを走ってね」
 私が歩いてきた軌跡は、間違いじゃなかった。
 幹子が小さい頃は、大変と思う暇もないほど忙しかったり、寝不足でふらふらすることもあったけれど、一人娘はいつのまにか視野を広げ、こんなにやさしく育っていたのだから。
「約束するよ、絶対。だから、真理さんは俺に任せていいよ」
 視界が涙で霞んで、健太郎がどんな表情しているのか、見えなかった。けれど、きっと背中をまっすぐにして、真剣に幹子と話している。聞こえてくる声で、それがわかった。
 私は、幸せになろうとしている。
 幸せに、なっていいんだ。幹子がそう望んでくれているから。健太郎が娘に、約束してくれているから。
 これまでも、大変なことはあっても、私は不幸でも、寂しくもなかった。けれど、これからはきっと、もっと幸せになれる。
 素直に、そのことを喜ぼう。そう思った。
 私の軌跡の先にあった、この幸福を、素直に受け止めよう。受け止めて、これからは、それを無くさない努力をしよう。
 幹子のために。健太郎のために。
 そして、私自身のために。

◇◆◇

「私のエビマヨが、きっかけだったの?」
 後日、お店が空いている時間を狙って、私は1人でCafe Yukoに足を運んだ。
 食事中のカップルが、テーブル席に1組いるだけなので、私はいちばん奥のカウンター席と、優子さんを独り占めしている。大きなカップに淹れてもらった、コーヒーも一緒に。
 そうなんですよ、優子さんの神料理のおかげです。私の答えに、彼女は嬉しそうに笑いながら、首を横に振った。
「あのエビマヨのソースね、マヨネーズにケチャップじゃなくて、チリソースを混ぜてるの。すっきりしてるって言ってもらえたのは、そのせいかもね」
 なるほど、秘訣はチリソースだったのか。
「本当は幹子ちゃん、あのエビマヨがすごく不味くても、美味しいって言ったと思うよ」
 絶対に、それはない。幹子は結局、泣いたり笑ったりしながら、健太郎の海老までひとつもらって食べたのだから。その話をすると、もう親子みたいねと、優子さんはひとつ頷いて。
「でも、真理ちゃん幸せそう。良かった、いい結果になって。健太郎くん、真理ちゃんにプロポーズする前から、かなり悩んでたのよね」
 ・・・そう、なんですか?
「よく1人で来た時に、真理ちゃんが座ってるその椅子で、深刻な表情で考えたり、私に話したりしてたの」
 今まで見た健太郎の表情を、思い出してみる。いろいろな感情を見たけれど、深刻に悩んだ表情はなかったはずなのに。
「こんな仕事をしといて何だけど、俺は今まで、他人にどう思われるとか、どう見られるとかを気にしたことが、全然ない。でも、今回だけは、真理さんと俺のことを知ったら、幹子がどう思うのかがすごく怖いんです。健太郎くん、そう言ってた。今だから話せるんだけどね」
 そう、だったんだ。
 たとえではなく、胸のあたりが温かくなる。
「でも、本当に頑張らなきゃいけないのは、これからだよね。幹子ちゃんも、お父さんができるだけじゃなくて、初めて社会に出るんだから、悩んだり不安定になったりもするでしょ。真理ちゃん、まだまだ支えなきゃね」
 優子さんは話しながら、カウンターの下から、小さな長方形の箱を取りだした。ベージュの本体に、ピンクのガーベラ模様の蓋がついている、彼女のイメージそのままの箱。
「これ、私から幹子ちゃんにお祝い。ドライフルーツのパウンドケーキなんだけど、真理ちゃんも一緒に食べて」
 わあ、ドライフルーツのパウンドケーキ!
 優子さんが作るものは、スイーツも美味しいのだけれど、これは特に絶品なのだ。以前、ここでいただいた時、幹子が気に入って大絶賛していたのを、覚えていてくれたのかもしれない。
 ありがとうございます、遠慮なくいただきます。お礼を言う私も、きっと溶けそうな表情をしているのだろう。
 私たちのこと、これからもよろしくお願いします。自然に、こんな言葉が自分の口から転がり落ちた。私にとって、私たちにとって、Cafe Yukoは、幸せの出発点なのだから。
「こちらこそよろしくね。ふたりとも、私の大切な常連さんだもん。いつだって大歓迎」
 コーヒー、もう一杯淹れよっか、サービスしちゃう。そう言い足しながら、優子さんはまた、ふんわりと笑った。見ている私まで、やわらかい気持ちになるような笑顔。
 幹子にも、優子さんのような、あたたかい女性になって欲しい。そんな願いが、心の奥から込み上げてくる。
 そして、この願いは、そう遠くない将来、きっと実現するだろう。箱の蓋に咲いたガーベラを眺めながら、私はこっそりと、そんな確信をかみしめていた。

〈 了〉


※ This story is inspired by
Yuko's special dishes and KAN's song "キセキ".

※Special thanks to Yuko and Yumiko.

※この物語はフィクションであり、登場人物、場所等は、全て架空のものです。


※2021.9.3追記
 ミムコさん企画の「妄想レビュー」

ミムコさんの「妄想レビュー #4」にマッチングしてみます!


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