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連載小説|不器用たちのやさしい風〔Part1〕

※Part1~14でひとつの物語になります※

 こんなところに、桜の木があったんだ。
 駐車場からアパートまでの帰り道、落ちてきた花びらに誘われ、頭上を見上げた達也は、その美しさに息をのんだ。
 昨年は、そもそも花が開いたことにも気付かなかった。花たちは、彼がうつむいている間に咲き、いつの間にか、足元に散っていたから。
 満開を迎えた一本桜の向こうで、糸のように細い三日月が、空にしがみついて輝いている。避けられない新月へと、少しずつ欠けていく下弦の月。
 リュウの心の中に、俺の存在は、どれくらい残っているのだろう。あの月ほどには光っているのか、それとも、もう完全に消えてしまったのか。
 行先のない、その問いを呟く代わりに、達也はため息をひとつ、音を立てて吐き出した。

◇◆◇

 上下とも、つるんとした白いポリエステルの衛生服を着て、同じ素材の帽子で髪を隠す。喉元のマジックテープを止めると、露出しているのは顔だけになった。
 さらにマスクと、青いメラミン樹脂の手袋を着けるので、他人から見える達也のパーツは、完全に目だけになる。
「あーあ、また一週間の始まりだな」
 同じ衛生服を着た、同月入社の松尾が、重たい口調で達也に話しかけてくる。
「うちの工場も、もっと自動化を進めりゃいいんだよ。レトルト作るのに、何人かけてんだって話」
「でもさ、松尾。あんまり自動化されると、俺たちの仕事がなくなるぞ」
「まあ、そうなんだけどさ」
 達也の言葉に、松尾は肩をすくめながら、大袈裟なため息をつく。マスクが動いたのは、口をとがらせたせいだろうか。
 達也と松尾が、レトルト食品の工場で働き始めてから、そろそろ十ヶ月になる。大手メーカーの子会社の、更にその下請工場。ミートソースだったり、麻婆豆腐の素だったり、日毎に違う製品の匂いが、いつも工場の外まで漂う。
「なあ、森本」
 工場の入口にでき始めた、朝礼待ちの列に並びながら、松尾が達也を苗字で呼ぶ。
「ん?」
「俺、ゴールデンウィークに、婚活パーティー行くんだけどさ、おまえもどう?」
「婚活パーティー?」
 俺には、世界でいちばん、関係のない話だな。そう思いながら、達也は短く、遠慮しとくよとだけ答えた。
「じゃ、無理には誘わないけどさ。でも、俺等ももう四十過ぎてるし、自然恋愛はなかなか難しいぞ」
「結婚願望ないんだよ、俺。生涯独身万々歳」
「言い切るよなあ。まあ、老後に淋しくなったら、しょうがないから、俺が遊んでやるよ」
 気軽に話せる間柄の松尾だが、達也自身のことについては、ほとんど話していない。口にしたのは、一人暮らしだということと、近くに妹一家が暮らしていることぐらいだ。
 俺、会えなくなった恋人を忘れられないんだよ。
 そう告げても、松尾は驚かないかもしれない。
 けれど・・・その恋人が、同性だということまで話したら、どうだろうか。
 スピーカーからチャイムの音が流れたのを合図に、がやがやと漂っていた、いくつものお喋りが一斉に黙り込んだ。工場長が現れ、今日もまた、退屈な朝礼と業務が始まる。

〔Part2へ続く〕


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