おくるひ
今日の服はブラックのスラックスに同色のスーツベスト、そしてどこで買ったかも定かでないややほつれた黒のタイ。シャツだけは、一応手持ちで一番良い白のブロードだ。
「今日はもう出るよ。通勤ラッシュにもまれるほどガッツ無いから」
眠たげな目をする母にそう声を掛けて革靴に足を通した。もう、毛を払う為にブラシ掛けをする必要はなかった。
深夜零時過ぎ、彼女は眠りについた。陸で溺れる様に声無く息を引き取った彼女の苦痛を、太く逆立った尾が物語っていた。
長生きできぬと宣告された身ではあったが、病に伏せるまでは随分とお転婆なものだった。ちょうど、一年程だった。
とにかく僕は、車内で平静を保つ事に苦心させられる事となった。普段と違い、労せず座席に落ち着けてしまったのも良くなかったのかもしれない。
僕は言外に嘆き、呻き、憤っていた。彼女は病院が嫌いだった。
家族は病院を嫌う彼女の負担を慮って、彼女の生命を病に手渡した。在るべき自然の姿だ。咎められようはずもない。
だが僕は、彼女の苦痛を和らげられるであろう方策を探し、事実いくつかの良いと思われる手段に見込みをつけていた。
だが、切り出せなかった。「猫の気持ちは人には分からぬ」と建前をかざし、家族との意見の衝突を避けた。
悲哀と不甲斐無さ、喪失感と苦悩が僕を満たし、胎動している。
そして何より僕を叩きのめすのは、そんな負の感情全てを自己の糧にし、文才を高めようとする自己の半身だ。
その底無しへと誘う渦に、僕は心を囚われている。
最寄へ到達しても、出勤までは十二分に時間がある。無理にでも朝食を取らねば、不眠の体は業務に持ちこたえられまい。
カフェで、ツナのサンドイッチと、温かいアッサムを注文した。
ティーバッグからにじみ出て、沈殿した赤らんだ黒。
上澄みの琥珀、フレッシュの白。
全てを混ぜ合わせた時の、亜麻色。
カップの彩は、全てが彼女だった。
幼少より猫舌だった僕は、ちびちびとミルクティーを啜りながらツナサンドを片付けていく。
彼女はとりわけ、肉より牛乳より魚を好んでいたか。
トーストの乾きがむしろ在り難かった。湿りがあっては、それが涙腺に及びそうな気がして。だが皿の上を平らげ煙草に火を点すと、その渇きも苦痛になった。
半分以上残していたミルクティーに口をつけると、いつの間にやら生温くなっていた。数瞬迷い、急いで全てを飲み干す。底は少し渋かった。砂糖を普段の倍、入れたというのに。
早朝、瞳を閉ざす為に触れた小さな体は、頬張ったトーストのように冷めて固かった。また味わうのは御免だった。
「もっと、重いやつ買っときゃよかった」
味だけは気に入っているラークの煙に音を混ぜる。まだ二口ほどは吸えただろうが、灰皿で揉み消した。
作業場へと向かう道すがら、コンビニでピースを買った。時間つぶしも兼ねて、隅田川の河川敷に足を向ける。
灰皿の近くには、数人のサラリーマンとジョギング上がりと思われる初老の男。磯臭い河の上には、警戒船が漂っている。
ロングピースに火を点ける。思った通り、全く以って好みじゃない。けれどともかく、僕は日常の所作に見出せる意義とか意味とか、そういうものに今は特に飢えていた。
悪戦しながらピースを灰に変えた。今日の内は少なくとも、これに頼る事になるだろう。
少しだけ余力ができたのかそれとも、脂に浸された脳が誤作動を起こしたか。僕はふと思い立ってロディアを取り出した。
お世辞にも美麗とは言い難い筆跡を、ゆっくりと万年筆がのたくって創り出す。
「愛しい君へ、君の家族より」
そして切り離した紙片に、オイルライターをかざした。
灰は風に吹かれ、土留色の河へ。そして海へ。
煙と煤は、昇って鈍色の空に溶ける。
朝の一服を嗜む彼らの目には、僕の姿は奇怪奇人その類と映ったに違いない。だが、それでいいのだ。そこに僕が居た事を、脳裏の片隅にでも留めてくれれば僕の勝ちなのだ。
覚えておいてほしい。免罪の為と知りながらも、弔いに足掻いた青年が居た事を。自己の欲求に抗えず、文を綴る事でしか叫べない惨めな男が居る事を。
そして、彼女が生きていた事を。
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