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【2018忍殺再読】「ガイオン・エクリプス」

コヨミ・ウサギの犯人論

 名探偵は――事件の関係者が抱えている悩みや苦悩など考える必要はないのだ。名探偵とは謎を解いて事件を解決する為にしか機能しない存在だ。他人の心の中を土足で踏み躙っても――名探偵は事件を解決すればそれでいいのだ。それでこそ名探偵なんだ。
 でも俺は――そんな名探偵なんて望んではいなかったんだ。

(『記憶の果て』、浦賀和宏、講談社ノベルス)

 ガンドー探偵局物語のエピローグにしてプロローグ。『ニンジャスレイヤー』の各所にバラまかれた断片たちが組み合わさり、ライヘンバッハに沈んだ探偵を蘇らせる「空き家」の魔術が完成をみる。単体で読めるエピソードとして設計されているものの、実績解除条件の難易度の高さは忍殺の数あるお話の中でもトップクラスなのではないでしょうか。主題がそもそも第二部から引き継がれ多くのエピソードに跨いで描かれたタカギ・ガンドーの探偵論の総決算ですし、プロローグとなるエピソードは書籍限定収録の「ザ・ブラック・ハイク・マーダー」、さらにはプラスのゆるふわコミック「NINJA SLAYER-SAN」まで拾ってくるというマニアック!ディープ!マニアック!

 「ザ・ブラック・ハイク・マーダー」の内容をかなり忘れていたので、この機会に読み返したんですが、コヨミ・ウサギ、いいですね。探偵ガンドー+シキベの対となる犯人がザイバツ、探偵ガンドーの対となる犯人がデスドレイン、そして探偵シキベの対となる犯人が彼女なんですよね。それは生と死であり、秩序と混沌であり、創作と破壊であり、連続と断絶であり、自己肯定と自己否定であり、そして探偵と犯人であるわけです。シキベ・タカコ、さらに彼女と別レイヤー越しに重なりあう存在であるユンコ・スズキ……機械化前後で変わらぬ自己を保ち、その不変性に輝きを持つ彼女たちと異なり、ウサギは機械化により望む自己に変わることができた存在です。女性でありながら男性として育てられ、途中でその梯子を外された彼女にとって、ユンコの「私はカワイイがゆえに私」という理屈がどれほど残酷なことか。また、望むべき己に「裏返った」彼女にとって、推理/執筆で文脈を繋げることで世界の連続性を保つ探偵がどれほど憎いことか。望まぬ生前の己へと至る手がかりを世界ごとひっくり返す……「真相を隠す」のではなく、「真相に至る推理が可能な秩序だった世界を破壊する」というスケールのでかすぎるトリックは、本格推理小説殺しともいえる探偵物語の総決算に相応しいものだと思います。

タカギ・ガンドーの探偵論

 探偵になるために私は生まれてきた。三十三になる今でも、そう信じている。私が天啓のようにそれを悟ったのは、十五の齢、まだ生まれ故郷の海辺近くの中学校に通っている頃だ。私はひとりの男と出会った。男は、腐った海藻の臭いがする図書館の片隅で、ひっそりと私を待っていた。その男の名は、マーロウ。フィリップ・マーロウだ。

(『ハードボイルド・エッグ』、荻原浩、双葉文庫)

 タカギ・ガンドーという探偵について。愛嬌あるオッサンでありながら独特の「薄暗さ」が垣間見えるというキャラクターとしての魅力はここでは一端脇に置くとして……個人的に最も好きなのが、彼がどこまでも「カートゥーンの探偵」の模倣であるというところです。ニンジャ化という可能性の拡大により「カートゥーンの探偵」そのもの……そういう形をした虚構の怪物になりながら、現実の探偵・クルゼの教えにより、それが本当はごっこ遊びであることを自覚している、自覚していながらもそういう形として活躍し続ける探偵。「トチノキが遊ぶニンジャトイ」の具現化でありながら、遊ぶトチノキに向けられたフジキドの視点も知っている大人の男。反発しあう現実と虚構を己の中に両立させた探偵と『探偵』が重なり合った「探偵」は、泥臭さとヒロイック、冷徹さと稚気を合わせもつ、まさにフジキドの相棒に相応しい男なのです。

 が、ここで終わらせないところが忍殺の凄まじいところでありまして……カートゥーンの探偵の模倣であるガンドーをモデルにして、シキベがさらにパルプ小説を書いてるんですよね。名探偵にはその活躍を物語化する筆記者が必要不可欠ですが、そのモデル自体が元々「物語化された名探偵の模倣」であるという構図はめちゃくちゃおもしろい。しかもそのパルプ小説はリブートにおいてガンドーをニンジャ(モノホンのカートゥーンの探偵)に変え、さらにそのガンドーの活躍を夢物語として鑑賞している……これは、これはもう……フィヒヒーッ!ガンドー↔シキベ間で無限相互循環される探偵のミーム! わかりますかこの関係性のおぞましいまでの精神的接触が! 誰しもが孤独なカラテ者であり世界との対峙者であるカラテとカラテがぶつかり合うこの世界で共有された文脈・物語を持つということは……エロい!グロテスクなまでにエロい!心の王国に二人の住民が暮らしているという事実の凄まじき至尊と歪をあなた方はもっと直視すべきだ!

 ……互いの間をパスされるうちに「探偵」というおとぎばなしは、無駄をそがれ矛盾をそがれ、徐々に徐々に輪郭を露わにしてゆきます。無限に続くかと思われた回り続けるミームの交換は、日蝕と共に一度完結を、完成をみるのです。ガンドーという「探偵」を観察・創作し続けた存在が、己自身を探偵として観察・創作することによって。シキベ・タカコという探偵、あるいは作家によって。

シキベ・タカコの探偵論、あるいは作家論

「三郎ー、おめえなーリアルなもん書けやー」「ちっ、いつまでも推理小説なんてしょうもないもん書いてんなや」「クイズと答えは小説じゃねえぞ」「こーんな段取り芝居、見透けすぎてて下らん過ぎる。アホか三郎。こんな暇つぶし、書いて生きる意味がねえげや。おめえ生きてる意味失うわや、こんなもんばっか書いてたら」

(『暗闇の中で子供』、舞城王太郎、講談社ノベルス)

 推理小説とはなんでしょう? 論理的推測と心理的観察によって真実に辿り着く物語です。犯人のトリックを名探偵が暴きたてその正体を見破る小説です。謎=不条理を客体化することにより登場人物が納得を獲得する物語です。作者と読者の間で交わされた「約束」を前提に繰り広げられる遊戯です。天帝に捧げられた供物です。一匹の類人猿が最初の一人を殺したその瞬間から、その密室の中では何度も同じことが繰り返されました。何度も何度も繰り返されました。全てのことをやり尽しても繰り返されました。密室から出ようとあがくことも密室を否定することも密室を開くことも密室など初めからなかったと気が付くことも、かつて見た密室という幻の残響に思いをはせることも、そしてそれすらも忘れることもその密室の中ではやり尽され、埋め尽くされ、飽きるほどに、誰にも見向きもされないほどに、何度も何度も繰り返されました。狂気にも似た執着と熱情をもって「探偵」と「推理」と「真実」は伝播し、改変され、ジャンルすらも越え、そして、今、シキベ・タカコという最新型が、クローズド・ルームに向かい合うのです。

 シキベは思案した。この幸福な閉ざされた空間。選べたかもしれない未来。手にできたかもしれない未来。容易に予測可能な世界。

(「ガイオン・エクリプス」、ブラッドレー・ボンド&フィリップ・N・モーゼス、ダイハードテイルズ)

 「ここまで読めば読者にも推理が可能である」ということは、「ここまでの経験から探偵に推理が可能である」ということであり、つまり、推理小説の世界では真実に至る情報が全て手に入るということです。そこにあるもの全てが必然性を持ち、意味を獲得することが約束された甘い密室。人間の処理能力で真実に至ることができるほど、情報量が少なく、構造が単純な閉鎖空間。一つの視点から見た光景が絶対の真実として世界に認められ許容されるおとぎの国。幸福な閉ざされた、容易に予測可能な世界。しかし、ニンジャスレイヤーという小説は推理小説ではないのです。探偵シキベ・タカコは、探偵であるがゆえにその密室の中で遊びながらも、しかし、推理小説ではないパルプ小説の書き手として、そして、カートゥーンの模倣でありながら現実を知る探偵ガンドーの弟子として、その密室を打ち破り、外に飛び出してゆくのです。推理ではなくカラテが真実を確定させる情報に溢れた世界へと。

「ちょっと推理でも聞いてくれねえか。俺もたまには推理するんだ。たいてい、事後だけどな」

(「ザ・ブラック・ハイク・マーダー」、ブラッドレー・ボンド&フィリップ・N・モーゼス、ダイハードテイルズ)

 ネオサイタマという開かれた世界の中で、探偵はどのようにして真実に辿り着けばよいのでしょう。あらゆるジャンルが混合され、数え切れぬほどの視点にが交錯する混沌の都市において、推理小説のアプローチ(情報収集の後の論理的推測と心理的観察)により真実に到達することが不可能であることは、アルゴスという史上最高の名探偵が証明してくれました。ケオスは探偵にどこまでも厳しく、目の前にある全てのモノはあらゆる意味と解釈をはらんでおり、いかようにも姿を変え得ます。「作者と読者の約束」という不変のルールを前提とした虚構は、あらゆるものが変容しうるサイバーパンクを前に頭を垂れるほかにないのか? 

 否。全てに解釈と意味づけの余地があるのなら、望むべき真実から必要な解釈と意味づけを逆算し、手がかりを創造してしまえばよい。カラテが真実を確定させ、コトダマが物理世界を揺るがすこの世界だからこそ可能な反則技であり、作家にして探偵であるシキベ・タカコだからこそ可能なアプローチがそれです。モータルの魂の集積……ケオスそのものである黒い水から、ガンドーの蘇りという「彼女が望んだ真実」を推理/創作によって引き上げるということです。今ここにある自分、己が望む現実に向けて、これまでの全てに意味があると解釈するということです(ゆえに、トリロジーの最期にそれをやったフジキドも探偵なんですよね)。そして、開かれた世界で行われた推理からは、当然、無数の「別の真実」が取りこぼされており、それは黒鳥居から出現したサツガイや、この「ガイオン・エクリプス」がシキベ・タカコの一人称で統一されていなかったことからも伺えます。

 かくして、ガンドー探偵局の物語は作家探偵シキベ・タカコにより、推理小説の密室から脱し、それでもなお探偵であり続けました。しかし、本当にそれは密室の外なのでしょうか。ニンジャスレイヤーは、推理小説ではないのでしょうか? 一匹の類人猿が最初の一人を殺したその瞬間から、狂気にも似た執着と熱情をもって繰り返され続けた密室遊戯は、あらゆることをやり尽し終え、そして今もまだなお「やり尽くし終えること」を続けています。密室を脱することすらも、この密室でははるか昔から何度も繰り返されているのです。ニンジャスレイヤーという小説は推理小説という一ジャンルを内包している。しかし、密室を囲う六面の壁は、密室の外側をも囲んでいる。ゆえに密室を内包するニンジャスレイヤーは密室の中にある。望む真実を前提におき、必要な情報を拾い上げ、都合よく事後解釈しましょう。それは、創作であり、推理であり、そして少し読んだ小説の感想を書くという行為にも似ています。ニンジャスレイヤーは、推理小説である。それが、この推理が導き出した真実であり、私のガイオン・エクリプスにおける解決編なのです。

お爺さんはゆっくりと首を横にふった。
それから、指を一本立てる。そして、大きな円の中に立ったままで、
「ここが外だ」と言った。


(『笑わない数学者』、森博嗣、講談社ノベルス)
■note版で再読
■12月16日