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2020年に読んだ小説ベスト5

 読んで字の如しの記事です。1月ももう中旬なのに……去年の話をなぜ……? 本当は正月あたりにやっておくべきなんでしょうけれど、年末年始と1月上旬は労働でそれどころではなかったのでこんなことになりました。許さない。テキスト媒体作品について、2020年は51冊の書籍とニンジャスレイヤー連載分を読みました。私は同タイトルでも分冊されていれば別に数えるので、作品数で言えばもう少し少ないです。週に1冊程度は読みたいよねという気持ちでしたが、おおむね達成されたと言えるでしょう。書籍も忍殺もいずれも個々の感想は書いているので、以下のリンクよりご参照願います。忍殺はまだ書き終わってませんけど。ちなみに、一部、感想を書いてない作品もあるため、数えても51冊にはなりません。

 あと、漫画についても小説以上に色々読んでいるのですが、2018年は『ハイキュー!!』が1番おもしろく、2019年も『ハイキュー!!』が1番おもしろく、2020年も『ハイキュー!!』が1番おもしろかったため、ただのハイキュー!!の話ばかりしている人になってしまうことを危惧し、本記事の漫画版を挙げるつもりはありません。

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セント・メリーのリボン/稲見一良

 2020年のベスト。これより下の4作は順不同ですが、この小説に限っては文句なし・ぶっちぎりの1番です。「おもしろい」「完成度が高い」「好き」という種々の肯定的な尺度、そう言った比較のための定規を持ち出す気すらも起こらない代物であり、ただ純粋に、自分にとっての「1番の小説」……それが短編集『セント・メリーのリボン』でした。

 ひと昔前の作品であるため、収録作に通底する価値観・哲学は前時代的なものであり、肯けない部分も多々あるのですが、そう言った点は特に問題にならないように思います。猟犬、銃、狩り、食事……。宝石のような物語が、世界一かっこいい言葉で綴られている。ただそれだけです。そしてただそれだけのものが、作為の継ぎ目を一切感じさせない、「最初からこういう自然物であった」と思わせる滑らかな手触りで仕上げられています。すばらしいものが、ただ、すばらしくある。それは「小説」という表現手法における1つの到達点であり、ある種の神がかりすら感じさせられました。

 どのページを開き、どの台詞を読んでも、言葉と物語が一切の瑕疵なく接続され、完成しているただならなさ。機械的なつくりを感じさせないその様は、言ってみるならば美しい曲線を持った木製細工であり、それが象るのは、草食動物がぐっと背を伸ばしたときの肉と骨の強靭さです。具体性のない感想ですが、具体性を持って語る気が起きない作品なので仕方がありません。『セント・メリーのリボン』という稀有な体験を、言葉に変換してしまうのは、あまりにももったいないと私は思います。


エラリー・クイーンの冒険/エラリー・クイーン・中村有希

 ロジック・ミステリの帝王、エラリー・クイーンの第一短編集。クイーンはこれまで初期の長編作品しか読んだことがなく、そのロジックについても、「微細な部品を組み上げながら、海底へと潜航してゆく」という印象を持っていました。言わば、容量の大きすぎる画像データであり、それを一手一手納得を伴って飲み込ませてしまう痛快さ、あるいは、その迷宮内を引きずり回され疲労困憊する心地よさに魅力を感じていました。

 しかし、短編でのクイーンは、私に全く違う顔を見せてくれました。この短編集に並ぶのは、どこまでもシンプルに磨き抜かれた、達人のワンストロークです。容量が大きすぎるどころか、一次元。太さを持たない概念上の直線を思わせる、鋭すぎる推理小説がこの短編集には並びます。推理小説は言葉による謎解き小説であり、ゆえに、その読書体験も読者の中で言葉をこねくり回すものになりがちですが(少なくとも私は)、本作に限っては、あまりにも速く・鋭すぎるため、そう言った時間的余裕は全く生じません。それはさながら辻斬りに行き遭って、何も気づかないままにばっさと切り捨てられるような体験でした。

 ちなみに、続編の『エラリー・クイーンの新冒険』も2020年に読んでいるのですが、負けず劣らずの傑作であり、おすすめです。個人的な好みで言えば『新冒険』の方が上かもしれません。『新冒険』では、『冒険』にあった速さ・鋭さをあえて鈍らせ、冗長性を持たせることで、小説としての「楽しさ」が愉快に突き詰められています。クイーンの小説って、古典の癖してキャラやセンスに全く古臭さがなく、エンタメとしてもむちゃくちゃおもしろいんですよね。


ニンジャスレイヤーAOM/ダイハードテイルズ

 『ニンジャスレイヤー』は世界一おもしろいエンターテイメント小説なので、2020年も、当然、世界一おもしろかったです。有料マガジンで種々公開されていた掌編・短編・外伝などもすばらしかったのですが、今年のハイライトは、やはり本編第3シーズンであるネザーキョウ編であり、「忍殺は最新話が1番おもしろい」が洒落でもなんでもなくマジなんだということを魂に焼きつけられることになりました。熱に浮かされたように、夜通し連載を追ったあの日々よ……。

 シーズン3の魅力を概説するならば、明智光秀の支配するカナダという舞台設定に象徴される通り、「忍殺初読時の再体験」になると思います。「ニンジャ」「カラテ」「ネオサイタマ」を大真面目に読むようになってしまった我々の前に、再び大きく広げられた「明智光秀」「カラテ」「インターネット」の大ぶろしきは、さながら地平線の向こうまで続くごちそうの山のよう。無数の飛躍と奇想を織り交ぜながら、再度、物語をゆっくりと追い、語り、わからないものへの理解を深めてゆく実況体験は、『ニンジャスレイヤー』という小説を初めて読み進め、次第に火がついてゆくあの体験を、再び蘇らせるものであり……しかし、過去の劣悪なコピーアンドペーストでは決してない、全く新しいものでもありました。

 そして、それらの魅力の全てが集約されたのが、忍殺屈指の名ヴィラン・明智光秀ことタイクーンだったと思います。「彼は一体どういった人物なのか?」「彼の邪悪の正体は何か?」という謎は、シーズン3を貫く強力な縦軸であり、この1年間、私はそのことを延々考え続ける破目になりました(twitterを見返したら、マジでずっとタイクーンのことをしゃべっていて怖かった)。暴君と共にめぐる、色鮮やかなカラテとコトダマの旅は、私にとって、2020年の何よりも大切な思い出です。


図書館の魔女/高田大介

 今年の夏は、『図書館の魔女』の夏でした。長めの休暇をがっつり使って、長い長いファンタジ小説を読むという体験は、夏休みという概念にかぶりつき、口いっぱいに頬張るような、大きな幸福を伴うものでした。「無数の国家の陰謀が渦巻く交易地・海峡地域」、「史上最古の図書館に暮らす『高い塔の魔女』」、「三つの首を持つと噂される不老の宦官宰相」……想像力を刺激される無数のキーワードは、決して幻ではなく、確かな実体験を伴って、私の前に物語を紡いでいってくれました。

 『図書館の魔女』という小説の凄さは、小説内で書かれていることに対し、常に有言実行していることだと思っています。「凄い」と語られているものが、現実、「凄く」、「美しい」と語られているものが、現実、「美しい」。テキスト作品でありながら、レトリックやテクニックでそれらを演出するのではなく、納得に足る実物を常に創造してみせているのです。本作には、『策謀の都に図書館を守る口のきけぬ魔女。たったひとつの武器は手話。』というクソかっちょいいキャッチコピーがあるのですが、この小説の中では、実際に、一切の誇張なく、手話だけを武器にして少女が大国と渡りあう様が、確かな説得力をもって描かれています。それが「言葉と書物」を題材にとったがゆえの誠意なのかはわかりませんが……誤魔化しを含まないことで、本作が「言葉と書物のおはなし」として確かな力を持つに至っているのは間違いのない事実です。

 妥協なく、言葉によって組み上げられた架空世界は、物質的な分量をはるかに凌駕する「物語の太さ」とでも言うべき魅力を、この小説に与えています。作者が創ったのではなく、「海峡地域」が実際に本の向こう側に存在し、作者を通じてそれを覗き見ているというような錯覚をもたらせます。それは、言葉と書物の力を信じ、学び・語れ・読み・記せと力強く少年少女の背を押すこの物語において、何よりもまっすぐな実践であり、言葉と書物が宿す力の証明なのだと思います。


大絶滅恐竜タイムウォーズ/草野原々

 2020年の私的ベストSF。章題には挙げませんでしたが、前作『大進化どうぶつデスゲーム』と合わせて読むべき作品でしょう。「生と進化」をデスゲームとして語り「百合」という形で意味をもたせた前作を踏まえて展開される、「死と絶滅」の物語……ではない、物語であってはならない、物語を殺さんとするSFが本作です。とにかく、商業媒体で、小説というメディアを用いて、自分の書いた小説に対して、この殺戮行為をやってみせたということにまず驚きます。これは「エンタメ」ではありません。ここに1巡目の「おもしろさ」はありません。物語として綴られるに足る「理由」を喪失し、しかし「小説」として記されてしまった本作は、自身を食い破るようにして、どこまでもSF性を暴走させ、読者の領域まで際限なく戦火(ウォーズ)を拡大させてゆく……。

 読めば読むほどに薄ぺっらく、意味をなくしてゆくこのテキストは、あるい意味で先に紹介した『図書館の魔女』の真逆と言えるかもしれません。そして、今や長大なサーガとなり、意味の大迷宮となった(なってしまった)『ニンジャスレイヤー』では絶対に描き得ないSFと言えるかもしれません。

 作中で幾度となく繰り返される「キャラの内面を想像して、共感して感情移入しましょう」という文章の、なんと空々しく、挑発的で、悲壮なことでしょう。ふざけているのでしょうか? ふざけているのでしょう。無意味が怖くてギャグはできません。テキストを重ねれば重ねるほどにこの小説はバラバラに解きほぐれ、ただの露悪趣味とSF与太話を寄せ集めた紙屑に近づいてゆくのです。しかし、それこそが、望むところだということ。物語ではない絶滅だということ。「全てに意味がある」という呪縛から逃れ、紙くずになるべく虚構が身をよじり絶叫する。「物語が物語でなくなる物語」という言葉遊びから外れるために、キャラが、文章が、設定が、作者が、読者が、おはなしの全てを否定し、台無しにするために、地獄の如き戦いを繰り広げてゆく。救いがたいほど後ろ向きで、どうしようもなくひねくれていて、だからこそ強烈に胸を打つ、メタ小説の傑作です。


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ヴェロニカの鍵/飛鳥部勝則

 6作目。つまり、次点です。私は、2019年から飛鳥部勝則読書祭りを個人的に開催しており、長編全13冊を順々に読んでいっています。飛鳥部作品は「本格推理小説への執着と憧憬」「不必要な推理小説的要素を小説に入れてしまう呪縛」という、おそろしくマニアックな題材を取り扱ったミステリであり、その題材は作品を重ねるごとに段階を踏んだ発展を遂げてゆきます。つまり、刊行順に読むのが非常に楽しいんですね。『ヴェロニカの鍵』は6作目の長編であり、段階としては上述の呪縛を自覚・言語化したさらに後、それを必然性をもって推理小説に組み込めないか?というフェーズの作品となっています。

 本作は、絵の題材「女・ヴェロニカ」を喪失し、挫折した絵描きの物語です。飛鳥部文学特有の靄のかかったような描写を通して描かれる絵描きの懊悩は、読み手である我々に対しても生々しく迫り、その煙を巻いたような語りは推理小説としての主幹も覆い隠してしまいます。通常の推理小説であれば、その靄を晴らしてゆくわけですが……飛鳥部ミステリは例によってひねくれた立ち位置をとっており……その靄をより濃くし、迷妄の果てに景色をにじませてゆくことで、「挫折した絵描き」「本格推理の幽霊」「過ぎ去りし青春」を重ねあわせてゆくことになります。その3つは主観という幻想の中でイコールで結ばれ、ゆえに、解決においても、「謎が解け」=「幽霊が祓われ」=「青春が終わる」の3点がイコールとして扱われることとなります。重なり合うカタルシスは、3重の共感を通じて読者に届き、得も言われぬ複雑な感情を呼び起こすことになるのです。


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