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最近読んだアレやコレ(2023.12.27)

 先日、久しぶりに友人と遊ぶ機会があり、自宅に招いたのですが、酒を入れるなりあっという間に眠くなり、1時間も経たず友人共々うつらうつら寝てしまい、双方朝の4時半に起きるという、ジジイの宅飲みとでもいうべき有様になりました。職業上、仕事の上での飲酒機会は多いのですが、肩の力が抜けたプライベートな場でアルコールを摂るのは、よくよく考えてみると久しぶりのことでした。逆噴射先生にCORONAを頂いたのが最後だった気がする……。日常のフローチャートの中に「酒を飲む」という分岐がほとんど存在していません。ちなみに、ジュースもほとんど飲むことがありません。甘い飲み物に魅力を感じません。牛乳の方が好きです。コーヒーも砂糖は入れず、牛乳をたっぷり入れて飲む。

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放課後/東野圭吾

 教師を生業をする前島に、教育者としての熱はなく、学生に対する興味もない。希薄な人間関係……しかし、確かに、何者かが明確な殺意を彼に向けていた。不吉な予兆はやがて実を結び、事件が起きる。しかし、被害者となったのは前島ではなく、生徒指導を務める別の教師だった。学園推理長編。

 冷淡で埃っぽい肌触りは、学園ものらしい浮ついた熱を全く放っておらず、その異彩さが強く印象を残します。何よりも優れているのは、やはりラストシーンでしょう。作中世界で何も事態が収まっていないにも関わらず、推理が披露され、解決が示された時点で、首を落とすように幕が降りる。それは「物語が語るべきものは、推理小説の型式で全て語りうる」というフォーマットに対する狂信の現れであり、「それを今、語り終えたのだ」という事実の明示です。他者との結びつきを断とうとも、人間関係は呪いのように絡みついて剥がれない。それは、既に帰りのチャイムが鳴り終わり、学校とは最早無関係であるはずの時間が、学校との紐づけを依然残した「放課後」という名称で呼ばれることと似ています。女子高という舞台設定も、恐らくその語彙を当てはめるための凹凸に過ぎません。生徒たちから「マシン」と称される主人公・前島は、教師という職業にも、自分をそう呼ぶ彼女たちにも興味を持っていない。訳知り顔で語られる女子高生評も、実のところ彼の誤謬を浮き彫りにするピースでしかない。学園ものとして異彩であるという冒頭の感想は実は誤まっており、本作はそもそもが「学校」ではなく「放課後」を描く小説なのだと思います。傑作でした。


線は、僕を描く/砥上裕將

 両親を亡くしてしばらく、青山霜介の世界は真っ白だった。復調の機会は、大学生活と共に訪れた。友人の1人に頼まれたとある展覧会の設営。そこで出会ったのは、墨で描かれた「真っ赤な」薔薇と、謎めいた1人の老人。2つの出会いは、霜介を水墨画家への道に誘ってゆくこととなる。

 標(しるし)も導(しるべ)もない「白紙」の上に「線を描く」ことは、その行動者の背後に連なった、時間と空間の積み重ねの発露である。ゆえに、行動がもたらす結果=「描いた線」は、まぎれもなく「僕」に等しい。そのため、意思に基づき、アートとして線を描くには、自己をとりまく背景を、識り、知り、理解(し)り、その内にある自己を見つける必要がある……。「水墨画」という題材に対して前のめりな熱量を見せつつも、それを「線を描く」という行動にまで解体し、俯瞰するカメラの位置をどこまでも高く釣り上げてゆく本作は、青春アート小説の輪郭とはアンマッチな主軸を建立しています。すなわち、世界全土を電子ネットワークが覆いつくし、彼我の境界が薄らいだ社会の中で、果たして何が自己を定義するのかというあの問答を。……嗚呼、近未来でなくとも、極彩色のネオンを用いずとも、テックやネットワークを使わなくとも、モノクロの墨の濃淡と筆だけでサイバーパンクは書けるものなのか。思考と知覚を研ぎ澄ませつつも、常に次へ次へと「行動」が描かれ続けるのも、非常にポジティブで気持ちがよく、スポ根です。とてもおもしろかった。続編も読みます。


菩提樹荘の殺人/有栖川有栖

 逃走中の通り魔犯は、17歳の少年であり、名も顔も報道されていない。ただ、「美しい」という噂だけが広まり、不謹慎な耳目も集めつつある。最中、遠く離れた大阪で類似の殺人事件が発生するが……「アポロンのナイフ」。他3編収録の〈作家アリス〉シリーズ短編集。

 短編集ではあるのですが、各話の彩色が同じカラーパレットを用いて行われており、1冊としてのまとまりに格があります。衝動に任せて起きた事態に対して、ごく普通の犯人たちが反射的にとった隠蔽工作は、ゴミを部屋の隅に掃き寄せたように場当たり的で、探偵が推理をしなくともいずれは自壊しただろうと予感させられます。パズルとしてはその難易度の低さ自体がコンセプトであり、小説としては「脆さ」を描くことが主題であり……と頭でっかちな言語化を試みるのもよいですが、あとがきで作者本人が述べる「本書に収録した四編には、〈若さ〉という共通のモチーフがある。」に対し、黙って拍手を返すしかないというのが正直なところです。これは「さすが、作者本人の解題は的を射ている」という話ではなく……むしろ私は本作収録の四編を〈若さ〉とまとめることに肯けないのですが……肯けないからこそ、〈若さ〉というモチーフからこれら四編が生まれうる有栖川有栖作品の飛びぬけた叙情性にはのけぞってしまいます。モチーフが明確化したのが「探偵、青の時代」で火村の大学時代を書いたところ、というのも凄い話では。常人ならばこのモチーフがまず先にあり、それに則って短編集を締めるために、火村の大学時代の話を書くと思います。


地雷グリコ/青崎有吾

 学校生活の揉め事は、実は全てルールとゲームで解決できる。「地雷グリコ」「坊主衰弱」「自由律ジャンケン」……学内外の修羅場に臨み、それら奇妙な遊びに挑むのは、なぜか勝負事に滅法強い1人の女子高生。青春を賭けた学生たちの奇計・戦略・騙し合い。5ゲーム収録の連作短編集。

 ゲーム名は口にするだけでワクワクさせられ、ルールは一読すればその奥行きの広さがわかり、進行は常に心地よいスリルを伴う。読み合いは必ず読者の半歩先を行き、ラストスパートでは盲点・飛躍・逆転の三拍子を揃え、そしてカタルシスが待ち受ける。「ゲームもの・ギャンブルもの」とでも言うべきこのジャンルで、我々が想像する理想。ここにあるのは、何も引かず何も欠けない、その理想「そのもの」です。机上の遊戯である推理小説を、盤上の遊戯であるゲームに落とし込む挑戦は、マリアージュと呼ぶには凶暴すぎる成果を上げています。中でも白眉はラスト2編でしょう。推理小説作家の技術と魂をゲームの形に鋳造したかのような「フォールーム・ポーカー」には極厚特濃のロジックの応酬があり、プレイヤー2人がゲーム進行中の全ターン奇策を打ちあい続ける「だるまさんがかぞえた」には奇想を奇想のまま理屈の内に落とし込むトリックの美学があります。何もかもを擦り切り一杯爆発寸前まで詰め込んだエンターテイメントの宝箱にして、背徳感すら覚えるほどにハイカロリーなミステリの脂身。話数を重ねるごとに凄い勢いでリアリティが削れ落ち、最終的に世界観がコロコロコミックみたいになるのも超最高。おもしろかったし、おもしろすぎた。絶対読んだ方がいい。


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