necro12:骨とけものと家族たち(後編)
【前編より】
◇◇◇
通された果物屋の2階は狭く、窓からは小さく切り取られた通りが見えた。夕暮れを過ぎ、暗闇が立ち上ってゆく中で、肉肥田商店街のアーケードが落とす日陰は既に夜に薄れて消えていた。店主たちはその中を鼠のように駆け回り、店頭に並んだ商品と、盗みを働こうとした不届き者の死体を片付けている。四肢を切り取り、上顎にフックを刺し、吊るす。店頭に鈴なりぶら下がった死体は、殺された当人たちが自分の肉体を買い戻すための目印になるに違いない。
「おら、やるよ。ご苦労さん」
ギジンの視界に、太く短い手がぬっと割り込んだ。リンゴに似た青黒い果実が握られている。驚いて振り返ると、果物屋の店主が口をへの字にひん曲げて立っていた。その後ろでは、ヒューとヤマネが何の遠慮もなく果実を齧っている。
「頂けませんよ。貴重品でしょう」
「場所代にしては、デカすぎる額をもらったからな。黙って受け取れよ」
店主はそう言って、果実を乱暴に押し付けた。水気を含んだ重みがどっしりと掌に乗る。歯を立てると、果肉はだらしなく潰れ、皮だけが歯に貼りついた。額を絞られるようなえぐみの中に、ほんの少し甘さの気配がある。お世辞にもうまくはない。だが、人肉に由来しないオーガニックな植物の歯ごたえと風味は、それだけでありがたい。
「……ひとつ、伺っていいですか?」
ああん? と店主が声を張り上げた。怒らせたか。だが、声色に反して立ち去る様子はなかった。ギジンはその反応を肯定と捉えて、話を続けた。
「ハマチさんは、〈死なずのネクロ〉と親交があるそうですね」
「親交ォ!?」
今度こそ怒らせたらしい。みるみる顔が赤くなり、眉の角度が釣りあがる。
「兄ちゃん、ふざけたことぬかすなよ。誰があんな色ボケと『親交』なんざ。奴のくだらねぇ喧嘩で、何度店をぶっ潰されたか知ってるか?」
「彼はどういう人物なのですか」
「『彼』だなんてご立派なもんじゃねえよ。クズだクズ。他人を全員底抜けの馬鹿だと見下していやがる。生きすぎて度を越した馬鹿はたくさん見てきたが、ネクロ以上は見たことねぇよ。あのボケは、自分がこの街で一番正しくて、一番偉いと思い込んでやがるんだ」
「つまり、プライドが高い」
だから〈死なずのネクロ〉は裏切者を許さないのではないか。プライドを傷つけた者への罰として、自らの肉と魂に永遠に捕えるのではないか。ギジンはそう仮説を立てた。しかし、店主は首を横に振った。
「あいつは裏切った女にキレてるわけじゃねえよ。むしろ逆だ」
「逆、とは」
「自分を裏切る女がタイプなんだよ。惚れてるから、自分の腹の中に閉じ込めて逃さないようにしてるんだ。それが『愛』なんだと。気色の悪い変態だよ」
それは。
「それは、つまり」
ギジンは、息を飲み、齧りかけの果実を取り落とした。鎖骨に触れる。母の檻を揺らがすほどの暴力。臓腐市のもう1つの牢獄。似て非なるものを比べることを考えていた。未だに擦り切れず、罰であり続ける檻と。だが〈死なずのネクロ〉の檻がそうでないのなら。罰を越えたものであるのなら。それはもう、似て非なるものではなく、似ているものだ。母と。そこに閉じ込められている自分たちと。理由も、苦しみも擦り切れて消え、そこには家族という意味のない言葉だけが……骨だけが残されている。それが何なのか、ギジンはわからなかった。ずっとずっとわからなかった。〈死なずのネクロ〉は、わかっているのか。
呆然としていたギジンの意識を引き戻したのは、肩をゆする掌だった。ぼんやりと見上げると、トカゲを思わせる細い瞳孔と目が合った。顔の下半分を覆う骨格は鰐の口吻を思わせる。その牙と骨の隙間から赤い舌が見え隠れし、唇についた果汁を舐めとっている。
「出動だ、ギジン」
凶悪な面相に似合わない、優し気な声色でヒューは言った。
「〈死なずのネクロ〉が網にかかった」
◇◇◇
右腕の皮膚を覆った蕁麻疹ほどの膨らみは、すぐに豆粒大の大きさに変わり、やがて〈蠅〉がその頭を出した。骨でできた〈蠅〉たちは、ギジンの血と脂を脚で拭い落とし本来の乳白色を取り戻す。工芸細工を思わせる薄翅が一斉に駆動し、飛び立つ。ギジンはそれを確認した後、目を閉じた。目蓋の内側にある、もう1枚の薄皮を降ろすイメージ。〈蠅〉の視界が、脊椎を通じて像を結ぶ。
黒々と荒れ狂う肉の渦がまず目に入った。叫び、喚き、地団太を踏み、とてもヒトと呼べる代物ではない。〈死なずのネクロ〉。暴力そのものが形を成したその乱暴者は、兄弟たちの腕を引きちぎり、腹を裂き、それでも決定打とならないことに苛立っているようだった。女米木の先行隊は既に全滅したらしく、トライと名乗ったあの3人組も通りの染みになっている。ただ、ヒパティという巨体の男は見当たらない。
ヤマネが、右の大振りを液体のようなしなやかさで躱し、ネクロを爪でひっかいた。爪とは名ばかりの、巨大な大鉈。縦6枚にスライスされたネクロの巨体に、ユマクの骨節舌が巻きつき行動を制限する。ユマクは肥大した首の筋肉に青筋を立て、ネクロを地面から引っこ抜くと、近くの店舗の外壁に叩きつけた。腕と腹を回復しながらサンとテンノウジが駆けだし、追撃する。
「どうだ?」
自分と同じ、待機組のヒューの声。戦闘が行われている通り、それに面する魚屋の屋上でギジンとヒューは息をひそめていた。ネクロと交戦しているのは、ヤマネ、サン、ユマク、テンノウジの4人。ギジンとヒューは戦況を〈蠅〉で伺い、最適なタイミングで不意打ちをかける手はずになっている。
「優勢ですね。自分たちの出番はないかもしれません」
「……うーん、油断はできないが、まあ、一応、予想通りではある」
骨の牙をカチカチと打ち合わせ、ヒューは眉をしかめた。
「女米木が言うには〈死なずのネクロ〉は化け戻りらしいが……。実際は13人の分の屍材を積んだ起き上がりみたいなもんだ。それは確かに脅威だが、数字の上では俺たちに劣る」
起き上がりは回復・蘇生が可能な代わりに、過度な改造で肉体の性能を高めることはできない。黄泉帰りはその逆で、傷は治らないが肉体にメスを入れられる。2種の不死者がそれぞれに持つジレンマ。ギジンたちはそれを無視できた。全員が黄泉帰りであり、本来千切られた腕も裂かれた腹も回復することはない。だが魂レベルで接合された母の骨が、その持ち主の起き上がりとしての力を伝播させ、傷を治してしまう。
「削り合いになれば、肉体性能で上回る俺たちに分がある。まあ、それはただの計算上の話で、実際は……いや……」
ヒューは口ごもった。『実際、ギジンは一度ネクロに負けている』と、口にしかけて留まったのだろう。凶暴な爬虫類を思わせる外見に反し、この兄が非常に優しい性格であることをギジンは知っている。
「……今回は頭数も揃ってる。想定外があるなら……他人を取り込む能力、か? でも、それだって対象となるのは奴を裏切った不死者だけだ。俺たちは当てはまらない。なら、注意しなきゃいけないことは1つだな」
「《ネクロのナイフ》、ですね」
〈死なずのネクロ〉が、自らの肉体と取り込んだ女たちの肉体を混ぜて作る骨製の得物。原理不明の動力によって回転する小型のチェンソ―。それは、物理実体でありながら『何でも切れる』という異常な特性を持つのだと噂されていた。ただし、街をきっての荒くれ相手にその信ぴょう性を検証した記録は言うまでもなく残っていない。
「ギジンは、ネクロとのやりあったことがあるんだよな」
「ええ。ただあの時はネクロはナイフを使わなかった」
「切れると、思うか」
ギジンは目を閉じている。〈蠅〉の視界もここにない。それでも、ギジンには、ヒューが自分の顔面を覆う骨格に手を添えている姿が見えた気がした。優し気な面立ちを崩し、兄を暴力の世界に縛りつけている攻撃的な爬虫類の口吻。その問いかけが戦力分析の一環であることはわかっている。ネクロが母の骨を断てるなら、回復・蘇生という自分たちの強みは失われることになる。だが、ギジンにはその問いを冷静に受け止めることができなかった。それは発したヒューも同じに違いなかった。
「わかりません。わかりませんが。確かに過去一度も母さんの骨が壊れたことはなかった。物理実体でありながら、異常な特性を帯びているのはこちらも同じです。切れるはずがない」
視界の中では戦闘が続いている。強烈なアッパーで打ち上げられたサンが、地面に叩きつけられて血液をぶちまける。脚部に被さった骨の檻には傷1つなく、その「無傷」が草木を枯らす呪いじみてサンの体を這い上がってゆく。攻撃の隙を突き、テンノウジが尻を振る。魚の尾びれ状の骨格は刀のように磨き上げられており、ネクロの首を一文字に切りさく。噴き出した血の勢いのためか、ネクロがその巨体を一瞬よろめかせる。
「母が自分たちを許すはずがない。逃してくれるわけが。ですが、ネクロならばあるいはと、どうしても頭によぎるんです。少なくとも、あの時、自分は本気でそう思いました」
ネクロの右腕にユマクの骨節舌が絡みつく。ヤマネとテンノウジが伸びた骨の舌を掴み、綱引きに加勢する。改造を施された兄弟たちの膂力は、常人13人分のネクロを計算上では凌駕する。しかし、ユマクたちは徐々にネクロに引き寄せられてゆく。ネクロの真っ黒なシルエットは力みによって膨れ、異様な熱で輪郭を揺らめかせている。劣勢を破ったのは、起き上がったサンの一撃だった。エミューの脚部を思わせる骨格から放たれた蹴りは、ネクロの首を楊枝のようにへし折り、その巨体を地面に転がした。
「ネクロの力は母と同根であるように思えるんです。他者への異常な執着。自分は、母が自分たちに向けるそれが何なのか、ずっとわからなかった。子を殺された怒りや憎しみなんて、そんな生易しいものじゃない。その先にある何かです。それをネクロが知っているなら」
ネクロは未だに閉じていない喉元の傷口から、反吐を吐くように血を零した。よろけながら立ち上がろうとするも、再度ユマクに舌を引かれ、地面に引き倒される。喉が切れているため、けだものめいた叫びの呼気だけが放たれる。追撃をかけるためにヤマネがネクロに歩み寄る。ネクロの動きがピタリと止まる。その右手が、喉の傷口に深々と刺しこまれている。腕の筋肉が、何かを握りしめるように伸縮する。鞘に収まった何かを。
「それなら、ネクロのナイフは」
風切り音。攻撃をしかけるべく、骨の爪を構えていたヤマネの前でネクロの右手が空を切った。ピ、ピ、ピ、と喉元から引き抜かれた血が、扇状に地面に散る。右手の先のシルエットが変わっている。刃面が月光を反射している。ネクロのナイフは。
「もしかしたら、母さんの骨を」
ヤマネの腕を覆う骨に、水平に線が走った。骨はそれを境に分かれ、前腕を滑り落ちて、地面に転がり、乾いた音を立てた。
「あ」
「どうした」
「切られた。ヤマネ姉さんの。爪が。2つに」
牙が噛み合い軋む音、そして床を蹴る音が横で鳴った。音の正体は、直後に通りを映す〈蠅〉の視界に飛び込んできた。ヒューだった。先ほどギジンに見せていた優し気な気配など最早なく、正気のない爬虫類の目をして、ネクロに向けて突進していた。ネクロはユマクの骨節舌をナイフで切り落として自由になると、その切っ先をヒューの顔面に叩きつけた。激しい衝突音がギジンのいる屋根の上にまで届く。鰐に似た牙が、口吻が、左右真っ二つに分かれて地面に落ちる。久しぶりに見たヒューの素顔は、頭頂から胸部まで唐竹割りにされていた。
停まっていた時間が動き出し、テンノウジとサンがのろのろとネクロに歩み寄る。ヤマネとユマクは、地面に突っ伏し、切り落とされた母の骨をじっと眺めている。表情を失ったヤマネの唇から、血の筋が垂れている。あえぐように開かれた口の中に、噛み潰された舌が見える。それはせわしなく動いている。ヤマネは何かを呟いているようだった。同じ言葉を。繰り返し、繰り返し。声は屋上まで届かず、それが何かは聞こえなかった。球状の何かが飛来し、ヤマネにぶつかった。切り落とされたテンノウジの首だった。
ギジンは、そこで目を開けた。〈蠅〉とのリンクが途絶え、視界が戻る。すすけた屋上。ふらつきながら立ち上がり、縁による。目視で通りを見下ろす。ヒューとユマクが死んでいた。サンとテンノウジも死んでいた。全員が母の骨を切断され、死体になっていた。ギジンをそれを確認すると、飛び降りた。
ネクロがこちらを振り向いた。その足元で倒れていたヤマネもこちらをぼんやりと見た。姉は、回復しない腕の切断面を持ち上げ、ふらふらと振り回すと、破顔した。潰れた舌で、何事をかを喋った。
「いじん、見え、母さんは、ああしを」
最後まで喋り終わる前に、ネクロはヤマネの顔面を踏みつぶした。汚物をなすり落とすように地面に執拗に擦りつけた。一連の暴力を終えた後、ネクロは心底うんざりした様子で唾を吐き捨てると、ギジンに向き直った。黒々としたその熱の塊は、ヒトの形をしているだけでヒトではなかった。敵意も悪意も殺意も超えた、暴力の化身。それは〈死なずのネクロ〉という名前のついた、仕組みそのものだった。
「加勢か。クソが。グンジがどこにいるか教えろ」
鉄鍋が煮えるような声だった。こちらを睨むネクロの瞳に、人間らしい情動は一切浮かんでいなかった。理解のできない理屈に基づき組み上げられた歯車が、狂った歯を噛み合わせて回り続けるさまをギジンは幻視した。自分も殺される。それはわかった。
「もういい」
腹部に衝撃が走った。ナイフが自分の胴を貫いていた。チェーンソー。回転する歯によって、内臓がずたずたに引き裂かれる。ギジンを内側から捕える檻も。肋骨も、脊椎も。貫かれ、壊されていた。鎖骨が折れる。頭蓋骨がきぃきぃと鳴き、視界が回る。母の笑顔が見える。あの時、突き落とした、背を押した、掌の感触。
「……ネクロ。どうして、お前は、裏切者を閉じ込めて」
「どうしてだと?」
ネクロは軽蔑し切った眼でこちらを見た。それはけだものに向ける視線だった。当たり前のことをわからない馬鹿を蔑む眼だった。その通りだ、とギジンは思う。自分たちは動物だ。永劫の時間を過ごしても、母の気持ちがわからなかった。だが、檻に入れられる理由があるのなら。それで納得できるなら。
「頼む、教えてくれ。ネクロ、頼む。どうしてだ」
腹の刺し傷から、どくどくと血が流れだしてゆく。壊れてしまった母の骨の回復は、薄れてゆく意識に追いつかない。自我の栓が抜けたような脱力の中で、怪物に縋りつき、問いかける。ネクロは応じない。代わりに長い独り言を始めた。
「……どうした、タマムシ。あ? こいつは白菊邸の兵隊だと。女米木じゃねのかよ。知ってるぜ。飼い殺しの黄泉帰りだろ。前にサザンカからに聞いた。友達? シラギクとかいう奴か? おい、本当かタマムシ。付き合う相手は選べよ。本当ならくだらねえごっこ遊びだな。軟弱な自我が寄り集まって、家族ぶってるのか。反吐が出るぜ……」
肉の内に閉じ込めた女たちと言葉を交わしているのだ、とギジンは少し遅れて気がついた。ネクロの瞳の焦点は呆け、既に自分を見ていない。くだらないごっこ遊び。その通りだ。本物の親子は自分たちが引き裂いた。自分たちが母の子供を殺した。だから自分たちは、閉じ込められている。それの意味は何だ。教えて欲しい。
「……全くだぜ、アイサ。親子愛だなんて紛い物だ。生物の構造に引っ張られてだらだら生き腐れてるだけのクズだぜ。死んでもまだ錯覚していやがる。俺とお前たち、裏切りと愛だけに魂を刻む価値がある……」
「どうしてだ。ネクロ。どうして……」
「うるせえな」
ネクロの焦点が戻った。胸倉から引きずり上げられ、顔面を殴打された。後頭部を壁に叩きつけられた。鼻を千切り取られ、突っ込まれた指で脳みそをほじくられた。引き倒されて、腰を踏みつけられた。腹にかかとが突き刺さり、口と肛門から液体が噴き出したのがわかった。叩き潰され、切り刻まれ、すり潰され、踏みにじられる。あの時よりも手ひどく破壊されながら、ギジンは、どうして、と尋ね続けていた。ネクロがそれに答えを返すことは1度もなかった。
◇◇◇
校外学習。学生服。登山だった。休憩時間に、自分の班だけが場を黙って離れた。音頭をとったのはヒューだ。竹内の双子の弟。ヒューが後輩だというのは記憶違いだ。同学年だが、年下だった。ヒューは、祐二は今の優し気な表情とはかけ離れた品のない笑顔で、地面に這いつくばる1人の頭を踏んでいた。山根と天王寺も横で同じ笑顔を浮かべている。峰岸も今のように舌が長くない。サンの性別が変わっているのも記憶違いだ。それは峰岸の、ユマクの方だった。峰岸はスカートをはいていた。
頭を踏みつけられている1人。それを見て全員がへらへら笑っている。教室の外でもこれか。ろくでもない連中と同じ班になったと思った。だが、興味はなかった。付き合えと言われたから付き合っただけだ。どちらかというと、顔を泥まみれにしながらも追従笑いをやめないその1人の方が不愉快だった。不愉快だったから、崖に向けて押したのだ。殺意はなかった。虫を反射的にはらったのと同じだ。うっとおしいから、押しのけた。藪に逆さまにつきたった、学生服のズボン。
◇◇◇
……ズボン?
「そうだ」
ギジンは目を覚まし、飛び起きた。通りは血の海だった。サンが、ユマクが、ヤマネが、テンノウジが、ヒューが死んでいる。泥と肉片にまみれべったりと潰れた学生服。ズボンとスカート。突き落としたのは自分だ。そして、それは母の息子だった。ようやく思い出せた。ようやく……。
そして、ギジンは呆然と立ちすくんだ。辺りはまだ暗い。夜のままだ。ネクロは既におらず、女米木の増員も姿はない。狩りは成功したのか、失敗したのか。自分だけが蘇ったのは、骨を肉からはがされなかったからだ。鎖骨に触れる。ひびはない。元通りに治ってしまった。生きている。生き返った。サンは、ユマクは、ヤマネは、テンノウジは、ヒューは死んでいる。骨を引きはがされ、檻の外で。
気づけば、兄弟たちの死体を拾い上げていた。5人分の死体はとても持ち切れず、腸を腰にくくり、髪を口いっぱいにくわえた。肉片を学生服に包み、背中にかついだ。改造の施された自分の肉体であっても、ずっしりとした重みを感じた。こんなものを持って市バスは乗れない。歩くしかない。最初の1歩目で、何かを蹴とばした。からん、と乾いた音がした。真っ二つに割れたヒューの口吻、骨格だった。ギジンはそれを拾い上げようとし、やめた。
◇◇◇
ギジンは歩き続けていた。肉肥田町と白菊邸は遠く離れている。一晩で歩ける距離ではない。しかし、夜が明けた記憶がギジンにはなかった。そもそも、今が昼か夜かもわからなかった。自分はおかしくなってしまったのかもしれないとギジンは考え、不死の生の中でその実感すらもルーチンになってしまっていることに気がついて笑った。睡眠も食事も呼吸も全ては意味もない習慣だった。それならば、昼も夜もない。潰れた頭部から垂れ下がったヤマネの眼球が、歩調に合わせてふらふら揺れる。その数をただ数えて、自分の爪先だけを見つめながら、歩いた。
◇◇◇
陶器にはない湿りを含む硬い音。それを聞いて、ギジンはようやく足を止め、顔を上げた。よく知った食堂の、入口に自分が立っていることにギジンは気がついた。変わりのないメニューを見て、今が朝であることをギジンは理解した。皿は骨でできていた。ナイフも、フォークも、テーブルも。乳白色の朝日が窓の桟で遮られ、配膳された朝食を格子状に区切っていた。そして、その前に兄弟たちがいた。
上顎と下顎に被さる骨の口吻をあぐあぐと動かし、肉をみっともなく飲み込むヒューがいた。両腕を覆う巨大な骨の爪を器用に操り、不格好に皿を持ち上げるヤマネがいた。下半身に装着された骨の尾びれが邪魔でテンノウジは椅子に座ることができない。サンは鳥の骨格が被さった脚をだらしなく伸ばし、ユマクは蛇腹のような骨の鞭を肉汁で汚していた。
全身の力が抜けて、背負っていた死体が床に落ちた。黄泉帰りは、死ねば別の肉体に取り憑く。自分が持って帰ったものは、抜け殻に過ぎない。当然わかっていた。わかっていたとも。全てが元通りになるだけだと。檻が壊れ、死ぬことができても、自分たちはまた檻の中に蘇る。自分たちは家族で、帰る場所はこの家しかない。
「おかえりなさい、ギジン」
母の声。
「心配したわよ。危ない仕事を任せてしまって、悪かったわ」
緩やかに掘られた湖底の砂紋のように、真っ白な皺が顔から首へ流れ、衣服との境目を溶け合わせている。永遠も半ばを過ぎ、白濁に呆けたヒトとしての輪郭の中で、瞳と髪だけが溌剌と黒い。その黒以外に母の流れを遮るものはない。
「最善の結果ではなかったけれど、グンジが囚われるのは防げたわ。あなたががんばってくれたおかげね」
無骨な檻に囚われ、見苦しくあわあわと肉を追う子供たちと違い、母だけが優雅に。母だけが。
「母さん」
「なに?」
「母さんの、息子を殺したのは俺です」
骨の食器の触れ合う音が止み、食卓は完全な無音になった。
「もう、俺たちを逃してくれませんか」
母の、シラギクの、白く凍り付いた表情の奥で、一瞬、感情が千切れるのをギジンは見た。だが、それは一瞬のことだった。全ては真っ白に漂白され、後には悪戯っぽい笑顔だけが残された。母が子どもに対して笑いかける時、それは大体が暗い喜びに根差したものだった。だから、ギジンは、その先の言葉は、もうわかっていた。
「おかしなことを言うわね。わたしの子供は、あなたたちだけよ」
【necro12:骨とけものと家族たち】終わり
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