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『まとめ』歴史を変えた6つの飲み物〜紅茶編〜

ビール、ワイン、蒸留酒、コーヒー、茶、コーラから見る世界史

紅茶と言えばイギリス、というイメージは皆さんと相違はないと思う。女性に人気のアウタヌーンティーもイギリスの文化で、その際にはやはり紅茶が好まれる。
 ただイギリスでは栽培されてない紅茶の道のりを見て行こうと思います。。。それでは。

お茶は中国から

 そもそもお茶は「カメリアシネンシス」と言う椿科の常緑樹なのはご存知でしたか?原産地はインドと中国の国境上にあたるヒマラヤ東部の山林地帯とされています。
 中国では古くから味と共に薬用効果も相まって親しまれています。もちろん我が国日本でも独自の道を遂げ「茶道」となって一つの文化となっています。

お茶がヨーロッパに伝わる


 
16世紀、中国との交易の際に船乗りが個人的に持ち帰ったりと少し入り始める。商用としては1601年のオランダ船の少量の積荷が最初でした。
 ヨーロッパに伝わった時期はコーヒーとほぼ同じ時期でした。
ただ最初は茶が大変高額だったので影響力はコーヒーのそれと比較になりませんでした。
 また当初は中国人が好きな緑茶が入ってきていたが、それが紅茶に変わる。理由は幾つかあるが、紅茶の方が傷みにくかったのと、中国側が海外に送るのに緑茶は勿体無いと考えていたのもあるとも言われています。

紅茶と砂糖が出会う

 
紅茶にとって追い風だったのが、ちょうど東南アジアとの貿易で「砂糖」の入手が以前に比べて容易になったこと。さらに植民地で砂糖を作る様になり供給が増えたのです。
 そのままでは飲むには苦い紅茶に砂糖を入れる飲み方が流行りました。さらに風味を増し、温度を下げる目的で牛乳を入れて飲む様になりました。
この様にして紅茶は受け入れられてきたのです。

王室での大流行


 
1662年チャールズ2世とポルトガル王ジョン4世の娘、キャサリン・オブ・ブラガンサが結婚。この際にキャサリンが持参金として持って来たものの中に茶箱もあった。彼女はかなりのお茶好きで、お茶を飲む習慣をイギリス王室に持ち込んだのです。
この習慣が貴族達の間で大流行するのです。

東インド会社と共に

 イギリスの東インド会社は勢力を増していくと、お茶の可能性も見越して重点をおく様になります。徐々に安定的に、量も供給出来る様になり価格は下がっていきます。18世紀初めに中国に交易地を築いて直接輸入をする様になり、価格が下がり大衆の手に渡るまでになりました。

トワイニングは最初はコーヒー屋だった


 
今や紅茶のブランドで名前がすぐ挙がってくるメーカーとなった「トワイニング」
創業者のトーマス・トワイニングは元々コーヒーハウスを経営していました。ただコーヒーハウスは男性しか利用できませんでした。そこでコーヒーハウスの隣に茶を専門に売る店を開いたのです。この店のターゲットは女性でした。
 コーヒーハウスで茶を売っていたのですが女性は入れないし、使用人に買いに行かせるのも大金を預けることになる為に躊躇われた。
 なのでトワイニングの店では女性が自らお茶を買えるし、その場で飲むことも出来た。自宅用に茶葉を買って帰る事も出来たのです。

産業革命を支えた飲み物

 貧しい人たちにも段々と手の届く飲み物となって、ついには生活必需品となってきました。それは価格が下がったことはもちろん、少量の茶葉でもお湯を注げば飲めるし、2番・3番と何度も淹れることで万人が口に出来る様になっていったのです。
 19世紀のスコットランド人が「我々の商業体系および財政制度は大変整っているため、世界の東端から来た茶と、西インド諸島から来た砂糖で、ビールよりも安い飲み物ができる」と評してるのです。
 
 18世紀から始まる産業革命は働き方を変えていきます。工場で働くと言うことは、それまでの農作業と違い、決まった時間に出勤し、さらに効率よく機械を動かしていくことが求められたのです。
 ここにお茶が完全に符合するのです。工場主は従業員の休憩のために「ティーブレイク(お茶休憩)」を認めた。さらにそれまでは日常ビールを飲んでいたが、それでは頭が回らなくなる。それがお茶のカフェインは頭を冴えさせる働きがある上、眠気も防ぐのでうってつけだったのです。
 またお茶には抗菌成分が含まれてるので、充分に沸いてない湯で淹れたとしても、水を媒介とする病気の蔓延を防ぐ効果があります。それにより人が都市に密集しても病気の発生のリスクが減ったのです。

アメリカの独立とアヘン/ 二つの戦争



 イギリスから渡っていったアメリカの入植者たち。当然の事ながら統治するのはイギリスです。また入植者から議会への代表はいなかったので、入植者の意見が反映されていなかったのです。
 そしてイギリスの他に元々住んでた先住民や、フランスやスペインなど他国もこの地に入植していました。その中でも特にフランスと争いが起こります。
 フレンチ・インディアン戦争が起こり、イギリスは勝利したものの多額の資金が必要になりました。他にも戦争をたくさんしていたので政府にお金がありませんでした。
 なのでロンドン政府がアメリカ入植地に税を課していきます。いろんな理由をつけて税法を作り、出版物、砂糖、最終的に1773年のお茶への課税、茶法の成立が独立戦争の引き金を引きます。


 
また中国、当時は清と呼ばれていた時代。イギリスはお茶を清から輸入しているが、清はイギリスから輸入するものは少なかった。なのでイギリス側は貿易赤字が大きくなっていく。
 そこでインドで取れるアヘンを清へ送る。〜アヘンはケシの未熟果の乳液から出来る強力な麻薬〜
 このアヘンの強力な毒性により1729年に清は法律で使用を禁じるが、密かに交易は続けられた。この状況で東インド会社とイギリス政府は結託して、この密輸を組織化し大々的に広げていきます。これにはイギリスは清が保有している銀が狙いだったのですが、この話はいずれ。
 一方、清はこの状況に危機感を抱き皇帝は林則徐に対処させるべく派遣。林則徐が強硬手段を講じるのだが、これがイギリス政府を怒らせる結果となりアヘン戦争に繋がっていくのです。

 この様に2つの歴史的な戦争に関係したお茶
2つの戦争の後の歴史を見るとお茶が担った役割をお茶自身も驚いているでしょうね。。。
 アメリカではボストン茶会事件の10年後も依然としてコーヒーよりも人気のある飲み物でした。コーヒーが流行り出すのは1832年にコーヒーに対する輸入関税が撤廃されてからだそう。

まとめ


 お茶という飲み物は日本人にとってすごく馴染みがあり普段は意識せずに飲んでます。しかし歴史を少し辿るだけでも大きな役割を担ったことを知りました。
イギリスが発展していく中で王室、貴族から庶民まで身分問わず関わって来た飲み物だったので、今日の紅茶=イギリスというイメージも納得です。
 またアジアでの関わりという別角度でも調べていこうと思うので、その際はまた記事にしますのでよろしくお願いします。

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