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水曜日の夜、片倉佳史さんと汕頭麵について対談しました。

 台北市内、艋舺(Báng-kah)=萬華(華語)の南側に位置する南機場(Lâm-ki-tiûnn 台語 / Nanjichang 華語)や青年公園などの周辺には汕頭麵(soànn-thâu-mī)または汕頭意麵(soànn-thâu-ì-mī)と呼ばれる麵料理を売る食堂や屋台が何軒もあります。

 このエリアで見かける汕頭麵または汕頭意麵は平べったく、少し幅広い形状が特色である一般的な意麵とは違って、不規則な湾曲(ちぢれ)のある細麵です。沙茶(sa-te サァテェ=沙茶醬とも呼ばれる汕頭人が台湾に伝えた調味ソース)やモヤシ、豚のそぼろ肉などが加えられる麵料理です。沙茶が加えられることから汕頭沙茶意麵(soànn-thâu-sa-te-ì-mī)と呼ぶ店もありますが、沙茶を使わない店もあります。台南では汕頭沙茶意麵という名称を使っている店が多いようです。

汕頭沙茶意麵(soànn-thâu-sa-te-ì-mī)
汕頭沙茶意麵(soànn-thâu-sa-te-ì-mī)を売る店
汕頭麵(soànn-thâu-mī)
汕頭麵(soànn-thâu-mī)を売る店
汕頭麵(soànn-thâu-mī)
汕頭麵(soànn-thâu-mī)を売る店
汕頭麵(soànn-thâu-mī)を売る店

 また台南では鹽水意麵(kiâm-chúi-ì-mī)と呼ばれる意麵や保存しやすくするために油で揚げて成形したものも有名です。麵に卵が多く含まれているので油で揚げると膨らみ、サクサクの食感になります。そして汁を吸いやすいので、このタイプの意麵は汁のある料理に適しています。揚げた意麵を使った代表的な料理に台南名物である田うなぎ入りの甘酸っぱい餡かけの鱔魚意麵(siān-hî-ì-mī)があります。揚げた意麵を鍋燒意麵と呼ぶ店もあります。

 台南の鹽水意麵は福州人と関わりがあり、また汕頭麵や汕頭意麵は汕頭人と関わりがあるのでは?という説や話題をネット上でよく目にします。1860年代には中国福建省で魚麵を作っていた人が台南の鹽水へ来て、家鴨の卵を混ぜた意麵を作って売っていたという話や1920年代に台湾へ移住した福州人が家鴨の卵を混ぜた意麵を作って販売していたという話、1940年代始め頃には台北でも意麵が食べられていたという記録が残っているとか、1950年代に台南で汕頭からの移住者が鶏の卵を混ぜた汕頭意麵を売る店を開いていたという話などをネット上で見たことがあります。

調理される前の汕頭麵(生麺)
調理される前の乾燥された鹽水意麵(kiâm-chúi-ì-mī)

 そして、意麵の語源についてもネット上で様々な説を見かけます。よく目にする説は台湾のオランダ時代の後、台湾を統治した鄭成功の炊事兵であった福州人が台南の鹽水(kiâm-chúi)で作った麵が鹽水意麵(kiâm-chúi-ì-mī)や福州意麵(hok- chiu-ì-mī)という名称になったという説、麵生地の塊を作る際に家鴨の卵を加えるので生地は硬めになり、力を込めて捏ねる度に「イー ! イー !」という声を出すので意麵と言われるようになったという説、家鴨や鶏の卵を加えた生地から作る麵の色が「僧が読経や説法の時などに手に持つ道具である如意( にょい )」の形状に似ているために意麵と名付けられたという説、今で言うところのインスタント麵の一種が意麵のルーツであり、清朝乾隆年の有名な書家であり、揚州の知府(ちふ=地方行政区画である「府」の長官)の地位にあった伊秉綬(いへいじゅ 1754 年生まれ)の家で雇っていたシェフによって作られたので伊府麵と名付けられ、後に略称の伊麵から意麵に変わってしまったという説、またこのインスタント麵のような意麵は汕頭からの移住者によって台湾で販売されていたので、汕頭麵(soànn-thâu-mī)とも呼ばれるようになったという説などです。

 この地域に汕頭麵を売る店が集中しているのは戦後中国から渡ってきた人や台湾の中南部から移住してきた人が多いという事情と関係があるのかもしれないと気になっていたので、数件の店主に話を聞いてみましたが、あまりそういうこととは関係がないようでした。皆さんは「誰かが汕頭麵を売ってみたら成功して、それを見て、色々な人たちが真似してやっているだけだと思う。自分もその口だし、自分は戦後中国から来たわけでもないし、その子孫でもない。また、南部出身者でもないし...」と話してくれた り、「主人のお父さんの後を継いで売っているけれど、お父さんは汕頭出身ではなく、戦後、福建省から移住してきた人で、若い頃、台湾南部で汕頭麵の製麺技術を学んだ人だった」とか、「自分は台湾中部出身だけど、以前初めて汕頭麵を食べた時にとても気に入り、 自分でも作りたくなって、汕頭麵を売る屋台を始めた...」などの話をしてくれました。 結局、今現在汕頭麵を売る人たちは直接汕頭とは関係がないようです。

 汕頭麵が食べられる地域、南機場(Lâm-ki-tiûnn)や青年公園の周辺は第二次大戦後に中国から移住してきた軍人や公務員が多く住む地域なので、主にこれらの人たちやその家族が住む住宅街やアパート、団地が多く、台北市内の他の地域とはかなり雰囲気が違う、独特の景観を味わえる地域です。南機場は観光夜市が有名ですが、朝早くから訪れて、朝食か昼食をとってから、 周辺の日中の景観を楽しむことをお勧めしたいです。

 南機場や青年公園周辺一帯は脇を新店溪 (Sin-tiàm-khe) が流れる低い沼地のような地域だったので、清朝時代は加蚋仔(ka-la'h-á)と呼ばれていました。この台湾語地名の語源は平地原住民族のケタガラン族の言葉で、沼地の意味だそうです。 日本統治時代には練兵場や軍用飛行場が作られたことで、「南飛行場」と呼ばれていました。戦後はゴルフ練習場や中華民国軍の軍用地などになり、眷村と呼ばれる軍人が生活するための軍人村が作られました。そして、中華民国軍は内戦で中国共産軍に負け、1949年に中国から撤退してきた大勢の軍人たちが南機場周辺地域に勝手に住居を建てて住み始めました。1950〜1960年の間に軍部は軍人とその家族を収容するための住宅も建設しました。また中南部から移住してきた台湾人たちも軍人村や川のそばに勝手に住居を作り、住み始めました。1959年の台風の被害にあった中南部の住民の多くもこの地に来て、住み始めました。1962 年当時の南機場は台湾最大の違法建築集落だったようです。

 1962年に発生した二つの台風で川の脇にあり、窪地だった南機場一帯の地域は大きな被害にあいました。当時のアメリカ国際合作總署駐華安全分署 (Mutual Security Mission to China)の役人が災害地を視察し、アメリカ側の提案と金銭的な援助もあって、軍用地に新しい集合住宅を作る計画が始まりました。そして、1964年に第1期計画の「南機場公寓」またの名称を「忠勤社區」というアパートが完成し、その後、1968年に第2期計画のアパート「忠恕社區」が完成、1972年に第3期計画のアパート「忠勤社區」が完成したそうです。

南機場公寓
南機場公寓
南機場公寓
南機場公寓
南機場公寓
南機場公寓
南機場公寓
南機場公寓
南機場周辺の國宅(国民住宅)
元々眷村(空南三村)=軍人村だった所も後に國宅(国民住宅)が建設された。
南機場周辺の國宅(国民住宅)

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