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読書ノート:『生きるための経済学ー〈選択の自由〉からの脱却-』


『生きるための経済学 -〈選択の自由〉からの脱却 -』
著:安冨歩、出版者:NHKブックス、発行年:2008年

本書が目指すもの

 この本は、現在の市場理論が抱えている多くの矛盾について語られている。それは、「西欧的ステレオタイプの自由」と『論語』を比較することで明らかにされていく。
 著者は、「西欧的ステレオタイプの自由」を目指す市場理論に代わる「普遍的な経済学」を立証し、それを実現させることで、私たちは心からの「自由」が手に入れられると述べている。また、このことが、現代社会の諸問題を解決する手立てになるとも述べている。

西欧的ステレオタイプの自由

 「西欧的ステレオタイプの自由」は、アダム・スミスの提示した「選択の自由」に起因する。それは、選択できる選択肢を全て与えられている状態のことだが、果たして人間は精密機器ではないので正しく選択できるものでもなく、そもそも意思決定というのは意識的な選択ばかりではない。無意識的な選択についても全ての責任が自分にあるとしたら私たちはどうするだろう。「そんなつもりはなかったのに…」と言いわけするに違いない。これが自己欺瞞の種になる。何でもかんでも責任を負わされる、いわゆる自己責任で埋め尽くされる世界は、脅迫的で恐ろしいものだ。それで、心の安らぎを求めたくて、神や神のような存在に服従してしまう。
 つまり、「選択の自由」を根拠にもつ「西欧的ステレオタイプの自由」は、自由とは名ばかりで、現実には大変息苦しい不自由な状況を作り出している。

論語の「道」は一本道

 ここで著者は、「選択の自由」を論語でいう「道」と比較する。
 論語の「道」の概念には分岐点がない。道は、自分のあり方によって自分の前に伸びていく。ただひたすらに「自分らしさ」を追求していくことで道は開けるのだ。
 この考えは、これまで捉われていた「選択肢を広げるために、高学歴を目指す、高収入を目指す、安定した共同体へ帰属する」という呪縛から、私たちを解き放ってくれる。私も、そのように言われて育ってきたし、そのように感じ、そのように子どもたちに言ってしまってきた。

罰の意味

 同じようにして、西欧における「罰」と論語でいうところの「罰」を比較する。
 西欧における罰は、倫理的な負債、つまり自分自身の罪を清算するものだが、論語においての罰には、「みせしめ」という罪人及び社会へのフィードバックがある。これは、未来の悪行を抑制する効果をもたらす。
 孔子は、世の中を「徳」と「礼」で統治すべきと考えた。そうやって、皆が自分に恥じないように振る舞うことで秩序が保たれるというのだ。重要なのは「罪」ではなくて「恥」というわけだ。よって、道を間違えたなら、自分の不徳を恥じ、行いを改めればよい。非常に実用的だ。西欧のように罪を犯した自分を自分自身で追い詰めるようなことは起こらない。これでは、自己嫌悪に苦しめられ神に許しを請いたくなっても無理はない。この最悪な環境が、規範を守ることに徹するような人格を作ってしまう。これが権威主義の正体だという。
 私たちの生きる社会では、どこもかしこも、大小様々なハラスメントが蔓延している。この点は、誰でも自分の経験からなんとなく納得できることだろう。

ハラスメントは連鎖する

 恐ろしいのは、ハラスメントが連鎖するという点だ。西欧的な「罪」の概念によって生み出された自己嫌悪は、それを隠そうとする心理を作り出す。この自己欺瞞からハラスメントは発動される。ハラスメントはそれを受けた者の人格を否定する行為なので、被害者は失った自我と引き換えに、より弱い立場の者にハラスメントをし穴埋めしようとする。ようするに、自己欺瞞を隠そうと他者に対し支配的になる行為がハラスメントであり、それが連鎖していく構造が自然と成り立っている。
 この点についても、かなり説得力がある。というより、私たちは、このことを既に勘付いている。しかし、明言することを避けている。

現代社会の抱える諸問題

 学校におけるいじめの問題、児童虐待の問題、ドメスティックバイオレンスの問題、大人同士でのいじめやパワハラの問題、社会の病みの原因の根本にこの構造があるといわれ、もう首がもげそうになるくらいに大きく頷いてしまった。現代社会の抱えるほとんどの問題が「選択の自由」のもたらした近代システムの呪縛によって生み出されたというのも、それらと照らして考えれば納得がいく。これら諸問題は、自我を失った者同士が生み出す協同現象の暴走なのだ。この暴走を止めるしか、解決は図れない。
 なるほど、経済システムと現代社会の抱える諸問題は全て繋がっているというわけだ。

まとめ-求めるべき自由とは-

 では、どうすればこのシステムから逃れられるのだろう。どうすれば、本当の意味での自由を手に入れられるのだろう。
 著者は、「創発性を発揮できるような自由」を求めるべきという。創発性とは、自分を愛し、他者と自分の違いを認識し、お互いを大切にする姿勢がある状況でのみ発揮される。
 ただ少し困難と感じてしまう。創発性というのは、分析することも合理的に計算することもできない。創発性は、創発性があると信じて進むことでしか発揮できないという。信じて進むという自信をどうやったら持つことができるのだろう。この点がおそらく、「選択の自由」が私たちに履かせた自己嫌悪と自己欺瞞という足枷の仕業なのだろう。私たちは、そんなものは「ま・ぼ・ろ・し〜」とばかりに自分の心から一掃して、自分を愛し、自分の感覚を信じて生きようとしなければならないのだと思う。このことを論語では「仁」と言うらしい。
 本書の最後に記された「我 仁を欲せば、斬ちに仁至る(自らが仁たらんと思えばただちに仁に到達する)」という言葉は、私にとても勇気をくれた。要は、「仁」を欲し、自分を愛そうと、自分の感覚を信じようと、努めることが大事なのだろう。

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