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細川興元の家族

細川興元は細川藤孝の次男、細川忠興の弟。
関ヶ原の戦いののち、現在の栃木県茂木町になる場所に茂木藩を立藩します。

今回は細川興元について、縁戚関係などをメモしています。

情報があんまりなくて、ひとつひとつ自分で史料探して照合したものです。あやふやなところが多いですが、なにかひとつでも参考になれば幸いです。


細川興元の家族について


◆正室:いと(沼田清延娘)

名前の出典がどこからなのか不明ですが、『肥後細川藩・拾遺』『戦国の幽齋とガラシャ、そして廃嫡後の細川忠隆』に「いと」とあるのでそのまま記載します。
いとの父・清延は麝香と兄弟なので、従姉妹にあたります。
ちなみに同じ家老である松井康之の室も麝香さんの兄弟の娘さん。
なかなかつながりが深いですね。
義理の姉・ガラシャの死を知ったあと、自分も城で死んでやる!!!っていきんでたのを、家臣の説得で田辺へ籠城します。
興元が出奔したあとはすぐ京都の幽斎のところにいったのかな?
1604年(興元が京都に来た翌年)には嫡男が生まれています。


◆継室:加屋(慈光院/誓光院 高橋紹運娘、立花宗茂養女)

正室のいとが亡くなったあと、継室として迎えられたみたいです。(多分1610年以降)。
その前は立花家の家臣・立花親家(織部助とも)の室だったそう。
親家は出兵時に亡くなってるみたいです。
いとに比べるといまいち史料が少ない。
いくつか家系図のHPみたところ「慈光院」と記載されてるのですが、『戦国細川一族』には「誓光院」とあります…どっちが正しいの…
おなじく寛永14年に実家で亡くなった、と記載されてるので興元没後は立花に帰っちゃったのかもしれません。
が、茂木には菩提寺があるので分骨されているのかも。


◆長男:興昌

興元の長男。京都生まれ。
母は正室のいと。
幼名は勝千代なのですが、忠興の書状には「鶴千代」(原文は雨かんむりに鶴)とあります。
谷田部細川2代目なんですけども、興元が藩主として活動したのはとっても短い期間だったので、実質治世の基礎とかつくった初代藩主としての役割は興昌かなと思います。
忠興の書状見る限りなかなか世間知らずな感じがしますがどういう人だったのかしら。


◆長女:鶴(高辻遂長室)

興元の長女。母は正室のいと。
忠興・忠利の書状には「玄番(興昌)あね」「玄番妹」と書いてあってねーちゃんなのか妹なのかはっきりしません。
姉って書いてあるのが一個多かったので勝手に姉ってことにしときます。
高辻遂長の室ってウィキペディアや寛政重修諸には書いてありますが、たぶん継室か側室のどちらかだと思います。
彼女の縁談決めは忠興が奔走して取り決めたのですが、最初に出た婚姻相手候補が佐久間勝年というお方で、勝年と同じ年頃なら1594年前後生まれかな?と勝手に思っています。

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