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細川家考察つぶやきまとめ②

過去にX(Twitter)でつぶやいていた細川家についての考察。



兼見卿記の細川家

『兼見卿記』の天正19年の所だけ何故かメモってるんですけど、そこだけ見ても興元は2月と6月に吉田家のメンズたちと蹴鞠してるので、蹴鞠はうまかったと、うまかったと思いたい…

兼見卿記に書かれてる吉田家と細川家、吉田さんちで夕ご飯たべてたり馬あげてたりするので本当に家族ぐるみで仲良しだったんだと思う
大坂の陣の前とかも、忠興が忠利へ細川家の武具は「吉田のいや(伊也)」んとこに預けとき〜とか言ってたりするし、兼見さん本能寺の前も光秀の馬だったか預かってるので仲良しさが伝わる そして忠興と伊也ちゃんの絡みカワイイ


興元の茶会記録関係

興元が茶会に参加した記録、多分天王寺屋会記くらいしかなくて推しの一挙一動が知りたい限界オタクとしては非常に気になるところです。
忠利の持ってた茶釜を欲しがってて忠興にpgrされてるのでやってるはずなんだよな そうだよねハム太郎!そうなのだ!100%無いとは言いきれないのだ!

むしろあの圧倒的な文化度が半端ない細川家中と親戚の中で茶の湯やってない方がすごいと思う その期待を胸に後で読みたい茶会記リストアップします 佐竹さんの1回しか参加してない大名ズにいるかもしれんしな


活版印刷のどちりなきりしたん

活版印刷でのどちりなきりしたんとかこんてんつすむん地は出版が1592年より後(97とか1600とか)だったはず…と記憶しているので、活版印刷でそれらが普及する以前の信仰生活を伺う上でもとても面白いものかも。 出版年間違えてたらごめんやで


綿考輯録のガラシャ

綿考輯録にも江戸期の国内の書物にも(明智軍記を除き)、ひとっことも玉ちゃんの容貌や見目を書いたものが無いんですよね。
なのにいきなり明治辺りぐらいから出てきて今では当たり前のようになっている。
彼女自身が美人かそうでないかはこの際どうでも良くて、数いる戦国時代の女性、キリシタンの女性の中で何故玉ちゃんは美人として描かれるのか。ドラマティックな死が薄幸を連想させ、佳人薄命に行き着いたのか、キリスト教という教えが彼女を美人にしたのか。それが大事なきがする。

個人的には明治時代にキリスト教の信仰が許されるようになって宣教師がまた来日するじゃないですか。
その時に宣教活動として色々啓蒙劇やら芝居やらもあって。
そのときの宣教素材(と言ったら言葉悪いけど)としてピッタリだったのが細川ガラシャという人だったのではないかなあと。

元から本朝列女伝などで烈女として紹介されていたので知名度はそこそこあって、かつ生き様は当時の貞節を守る女性として時代の流れにも合致し、「貞節」であるイメージは宣教師達の求めていたキリシタンのそれとも合致していた。
両方にマッチしていたからこそ、人々の理想としてふさわしい人とするために美人になったのかなーと個人的には思います。徳富蘇峰のことも考えるとまた違うのかなあとは思いますけれど。

明治時代の雑誌などにはとにかくテンプレのように何度も何度も婦人の鑑として出てきます。
武家的な女性であろうがキリスト教であろうが「女性の鑑」としてメッチャ出てくる。それが細川ガラシャを美人にした理由かなーと思います


細川ガラシャと百合の花

余談ですが、個人的にいつ玉ちゃんのイメージに百合が追加されたのかと、他に美化されたキリシタン女性はいるのかが気になります。 玉ちゃんは戦国時代の美人としてよく名が上がるけど京極マリアとか毛利マセンシアはそうでもないやん。知名度とはまた違う要因がな…ありそうじゃないです…?
玉ちゃんのイメージとして百合が追加されてるのもね〜やっぱこうキリスト教の美化のイメージと相通じたり他の要因との関係とかもありそうだよねえ。 だって江と功名が辻は当たり前のように自害の時百合が近くにあるけど、黄金の日日ん時なんもないんやで。不思議じゃない?


黒田長政と興元

そういえば長政と興元って、嫁の名前が同じ「糸」で、どっちもキリシタンですね。共通点!という程でも無いかもしれないけど気づいてあ〜となった。そりゃ興元の出奔の手助けするわな(?)


細川興元の出奔

興元が出奔したのって、忠興達が豊前入国してからはじめて幽斎さんが豊前訪れた時だったかな? 島津からも使者か義弘が訪れてたはずなので、そういう祝賀の時に出奔するというのは中々破天荒な気もする
初陣から関ヶ原まで、ずっと片腕として戦場を駆けて来て、でも石高はほとんど昔から変わってなくて、更には自分の甥より年下の弟の方が待遇上っていうのは不満も募ると思う
個人的には『風の如く水の如く』で忠興から刺客差し向けられてしょんもりする興元(鍔にクルス入ってる)が好みです


出奔後の細川興元

松井さんのおじさんが興元の出奔について書状残してて、そこに「京や堺辺りで徘徊してる」っていうのがまさに不審者ってかんじでいつもジワジワくる
多分京や堺をうろちょろしてた時は教会にお世話になってたのかなーとか思う

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