見出し画像

舞鶴での細川藤孝講演会レポ

2019年9月28日京都府舞鶴市で開催された、『明倫館歴史教室2019』講演会&パネルディスカッションのレポ。
過去にX(Twitter)でつぶやいていたものを加筆修正しています。


この講演会、2020年大河ドラマ『麒麟がくる』を目前に控えた時期の開催であることに加え、珍しく京都での開催だったんですよね…!!!

熊本で細川家の研究されてる研究員の方が、京都府内で細川家の講演するのってあまりないことなんです。
なので現地で聞けてとてもありがたかった…



藤孝は10年ごとに主君が変わっている


藤孝は10年ごとに主君が変わっているという指摘がとても鋭いなと思いました。
「10年」という期間に着目すると、短すぎず長すぎず、家風やノウハウや知識を蓄えるのに最適な期間なんじゃないかと思います。
ただ主君が変わるだけじゃなくて、知識やノウハウのアップデートも兼ねたのかもしれません。

とはいっても意図的なものではないと思いますが。
でも細川藤孝のすごいところって、
主君を変えざるを得ない情勢でどこにつけばいいかををきちんと読み取り、
最適な教養と付き合い方を身につけて
それを一通りこなせちゃうってところなんですよね。

それが藤孝の根っからの気質というか。
時流と自分の強みが1番効果を発揮する身の振り方をしてる人だよなあ…と痛感しました。やはり頭が良い!!!


朽木谷を振り返る


藤孝の行動の根底は、朽木谷での生活が影響しているのでは?と思います。
当時、藤孝はお寺の油を盗んでまで文学の学びにいそしんでいました。
その時文芸に没頭したのは、これからの自分の身の振りのためではなかったのでは?と個人的に考えています。
どちらかというと、何度京を追われても衰えない幕府を支えるためにできる最大限の努力だったのかもしれない…と思います。

結局は永禄の変が起こって、義昭も見限って織田方に付くんですが。

でも、藤孝にとって朽木谷での選択と行動は結局のちのちの人生の糧になると思うんですよね~~~!!!
その点でいうと他人も自分もすごーーく客観的に、冷静に判断できる人だよなあ………

レジュメに「豊臣政権の文化的営為を演出する役回り。秀吉の精神的上昇志向の奉仕。」という1文があったんですがこれは朽木谷における藤孝と義輝にも言える事だと思います。好き。


本能寺の変のあと


有名な光秀の「御父子もとゆい〜」の書状、あれもなんでひとつの手紙で「忠興」「与一郎」って呼び方ブレてるんですかね。そんなに髻切ったのに対して動揺してたのかな。

細川家に嫁いだ時の玉ちゃんについても、当時出世頭の娘という印象が大きかったんだろうなとしみじみ感じました。

その後の落差考えるとつらい。
玉ちゃんの元々の勝気な気性はイケイケどんどんだった実家の追い風も少なからず含んでたと思います。

パネルディスカッションでめっちゃツボったのがあって。
多分兼見が藤孝さんに誘われて天橋立とか観光してる時の頃だと思うんだけど、藤孝さん10月12日に兼見に「15日丹後戻るから一緒に来て〜」って言ってるの無茶振りすぎて草でした

兼見が「行く覚悟なし」って記してるのも草なんだけど。
翌日もまた誘ってるらしくって従兄弟可愛すぎかよ…
14日に大急ぎで荷造りして結局藤孝さんと丹後に行く兼見、めちゃくちゃ優しいなってなりました
しかも2週間滞在するっていう

※出典は兼見卿記です

2週間の滞在を3日前に伝えて相手の返事など関係なく準備進めてる藤孝さん、完全に忠興と血がつながってるよなあ…
そして絶対小さい頃兼見を子分みたいに引き連れてイタズラしてたと思う



おまけ写真


この講演会と連動してたのか、当時舞鶴駅にはこんなパネルがどん!!!!!と展示されていました。

細川藤孝だけでこのボリュームだぜ??最高じゃん…



これ見てやっぱ早急に細川家大河やるべきだよね…!?!?って思いました。
細川藤孝が大河ドラマの主人公になるまで死ねない。
NHKさん、よろしく!!!!!!!!

この記事が参加している募集

日本史がすき

基本的に記事は無料です。おせんべいが好きなのでおせんべい代にします。