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どうでもいい話を聞かされたら、相手に好かれている。のかも。

今から、どうでもいい話をする。

ある日突然、からだに湿疹が出た。かゆいなあ、もうイヤー、と思ったけれど、暑いから仕方ないか。と、放っておいたら、次の日には全身に広がり、顔にも出てしまって、ああ、これは病院に行かないといけないヤツか…と諦めて皮膚科に行った。

皮膚科では「じんましんですね。原因は、だいたいの場合はわからないんですよ」と言われ、じんましんのパンフレットを渡された。そして、幸いなことに、処方された飲み薬と軟膏で、1日で治った。

これだけの話。人に話すほどでもない、どうでもいい話。

でも、もし私が1人暮らしだったら、こういうのがつらくて、ツイッターとかでつぶやいて、「大丈夫!?」と、友達が言ってくれるのを待つかもしれない。

で、私の家族はと言うと、一番上の子、いっちゃんに、まずは「病院行かなきゃだめだよ!」と言われ、治ったときには「よかったね!」と言われた。ありがたい。

夫には、顔にじんましんが出たときに「わっ」と言われ、次の日きれいに治っていたので「おっ」と言われた。まあ、そんなもんだろう。

とにかく、言うほどのことでもない出来事に反応してもらえるというのは、同居ならではのありがたさだし、過去、独身時代でも、私は仕事に行って「じんましんヤダ。ぴえん」と言える同僚がいたので、そういう意味でも救われていた。(当時ぴえんなんて言葉はなかったが)。

しかしまた、私には信じられないことなのだが、これを誰にも話さずに終了する人がいる。かまってちゃんになりたくないとか、じんましんは皮膚科以外で話題にしても治らない、とか、ガチの正論で誰にも言わない。

すごすぎる。

私など、家族に反応してもらえただけでは飽きたらず、「じんましんなんて、何かストレスでもあったかな。いや、無理にストレス探しをする方がストレスか。しかし、すぐに治ったたいしたことない病気に、あれこれ興味を持ってしまってる私が興味深い」などと思って、こうしてnoteに書いているほどなのに。

体調不良だけじゃなくて。仕事の愚痴とか。生きる意味とか。怖い夢を見た後とか。やる気がでないなー、とか。

オチもないし、役にも立たないし、相談事でもないし、面白くもない。でも、誰かに言いたくて、「大丈夫?」とか「大変だったね」と言ってほしい話。こういう話が世の中にあふれていて、でもそれを口にしたり文章にしたりしても、誰のエネルギーにもならなくて、小さな迷惑になるだけだなんて、そんなこと考えたら、もう怖くて誰にも言えない。

そして、そのどうでもいい話を聞く側も、義理で仕方なく「大丈夫?」とか言っているのも、やはり、心が疲れてもたない気がする。

それでも、毎日毎日、どうでもいい話は世界中で繰り返されている。滅ばない。

実は、そういう、どうでもいい話のやりとりをしている人は、無意識に愛の交換をしているんじゃないだろうか。

「(私はあなたのことが大好きで心を許しているので、こんなどうでもいい話をしてしまうんですが)昨日飲みすぎて、久々に二日酔い!」
「(え、そんななんでもない会話してくれるなんて、私達って仲がいいよね)大丈夫~?」

みたいな。嫌みではないです。本当に。

だから、私はどうでもいい話をしてくれる相手が、けっこう好きだ。中身のない会話が好きだ。だって、中身のない会話は、嫌いな人とはしないから。お互い好きあってこそできる妙技。

「人に話しても解決しないことは話さない」というタイプの人に、一生理解してもらえないような気がする。私は、そういう心が自立した人は、心底尊敬しているし、来世はそういう人になりたい。

でも、今の私は。「熱が出た~」「落ち込んだ~」とか言いたいし、逆にそういう話を聞いて「大丈夫?」「わかるわかる~!」とも言いたい。言って愛を確かめあいたい。

こういう井戸端会議的なことは、非生産的と言われてバッサリ斬られてしまいそうなので、私なりに「どうでもいい話」の弁護をしてみた。

おしゃべりには老化防止の効果があるとか、ストレス解消になるとか、他にも意義を研究したものを見た気もする。

それもそうだと思うけど、愛の交換だと思うと、話すのも話されるのも嬉しくなってこないですか。

私が専業主婦、ということと、このご時世もあって、最近あまり人と会わない生活をしているので、どうでもいい話っていうのは、けっこう高度なコミュニケーションなんだよな、と改めて思ったのでした。

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