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「やってみる」時は「出来る力」がたまった時

前回「自転車に乗れなくても生きていけるけれど」という記事を書いたときに、一箇所ひっかかっているところがあった。

運動が苦手なうちの2番目の子、ニンタが小学校にあがり、でんぐりがえしに挑戦することになった部分。

そして、3人で競うようにでんぐりがえしをすること数日、とうとうニンタも補助なしでまっすぐにでんぐりがえしを成功させた。一番喜んだのはいっちゃんで、「おかあさん、なんでもっと喜ばないの!」と言われたが、なぜだか、私は4人目の寝返りを見届けた人のように、しみじみとした嬉しさだけしかなかった。

もちろん同時進行で学校での特訓があってのこと。まさかニンタが前転できるようになるとは思わなかったので、喜びや驚きというより、感慨深いというような感じだったのかもしれない。

まず、文章そのものがだいぶおかしい。「まさかできるようになるとは思っていなかった→のに、感慨深いだけで驚きナシ」って、おかしい。あと、「もちろん同時進行で」の「もちろん」って、手柄は自分にあるわけではない、と言いたい気持ちはわかるけど、前後をつなげる言葉として、おかしなことになっている。

なぜ、この部分はふわふわしているのか。何度か読み返してみて、わかった。そもそも、でんぐりがえしを成功した瞬間も、振り返って文章を書いているその瞬間も、自分の気持ちが全くわかっていなかったからだ。わかっていないことが書ける訳がない。わかっていない状態で、なんとなく文章の体を整えようとしてごまかして書いたので、こんな惨状になってしまった。

もう一つ言えば、この文章は、持病のためにずっと発達が遅いニンタのリハビリのことを、一歳半から小学校一年の現在にわたるまで振り返って書いているので、文章全体も長いし、思い出しながら時系列で書くので少し苦労した。私の能力を超えていたので、こういうほころびがあるんだろう、とも思う。

前置きが長くなったけれど、「ニンタがでんぐりがえしが出来るようになったとき、なぜ驚きがなく、感慨深いだけだったのか」への答えは一応見つかった。

学校の連絡帳に「前転(でんぐりがえし)に挑戦しています」と書いてあったとき、「いやいや、それは無理でしょう」と思ったのは本当だ。でも学校でやっている以上、家でもやるか、と軽い気持ちでやってみた時。思い返してみれば、その時に私の気持ちに変化があった。

「学校でマット運動やってるんだって?お布団でやってみる?」と声をかけると、ニンタは、学校で習った前転の姿勢で布団に頭をつけ、ぐいぐいと力をいれた。勢いも足りないし、足の力も足りないので、全く出来そうにない。でも、今になって思えば、私はその時に180度気持ちが変わり、「これは出来るな」という確信を得ていたのだ。

それは、今までのニンタをずっと見てきた、親としての経験からだと思う。ニンタが新しい事に挑戦するときには、まず「こわい」「つらい」「興味がない」「意味がわからない」「失敗したくない」というハードルがあって、「やってみる」にたどり着くまでが果てしなく長い。知的な遅れによって理解できないこともあるのだろうし、自分の筋力が頼りにならないものだということは、ニンタ自身が体で感じている。そのハンデがあるにも関わらず「やってみる」ということは「出来そうだ」とニンタが感じているということだ。

でも、それはまだ私の潜在意識のレベルというか、その時点では、私は何かを予言できるほど言語化することができなかった。

そして、ニンタがその後でんぐりがえしを成功させても驚きがなかった理由を探して、記憶をたどり、やっとその「確信」の瞬間を思い出すことができた。

「やってみる」ということは「出来る気がする」ということ。

そのことが言語化出来た時、それは私にものすごく勇気をくれた。これからの子育てもそうだし、自分の人生もそうかもしれない。こどもが「やってみたい」と言った時には止めなくて良くなるし、自分が「やってみたい」と思った時にはどれだけ自信がなくても進む勇気になる。

新しい事に挑戦するとき、それがこどもの事であっても、自分の事であっても、成功する確信がある、ということは、ほぼない。

でも、挑戦したいと思うからには、何かの芽があるのだ。芽がなければ体は動かない。結果的にダメでもなんでも、芽があるなら、とりあえず水をやってみてもいいのではないか。世の中のあらゆる挑戦に対して、芽がない、ちっとも体が動かない事柄の方が、よっぽど多いのだから。

自分の出来損ないのふわふわした文章を繰り返し読んでいたら、思わぬ結論にたどり着いた。プロならともかく、私のように思う事を思うままに書いているだけの文章には、自分の気持ちがそのまま出るんだな、とも思った。それを世に出しているなんて恐ろしい、と思うし、世に出しているからこそ、こんなに自分自身に突き刺さってくる体験ができる。

だから怖くてもやめられない。怖いし益になるし中毒性がある。ただの日記をただ書くだけのことに、これだけ絡め取られている自分には、才能とかそういうものとは関係なく、興味なのかこだわりなのか救いなのか、これもまた何か小さな芽があるのかもしれない。







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