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どっちだっていい【小説】

 爺さんの脚は、婆さんより美脚なのであった。美、は褒め過ぎなので訂正するが、慎み深い品のようなものを醸し出している。若い男の中には、女装にふさわしい脚の持ち主がいるものだが、同い年の八十二歳に裏切られたような気がした。思いのほか歪んでいない。白いものが混じる脛毛を剃ってやったからだろうか。艶のあるストッキングに包まれているからだろうか。視線をゆっくりと上げていく。腿上までスカートをたくし上げてみせた両手の甲には、楕円形のしみと薄鼠色に盛り上がる静脈が地図を成している。前傾気味の貧相な胸。首皺から突き出た喉仏。わずかに毛が残る白髪頭まで辿り、目が合ったところで虎雄がポーズをとりなおした。
「どう?」
「ぜんぜんだめ。あと、かつらとか化粧とかだね」
 脚の衝撃は、言わなかった。
「百合子は、かつら持ってたのか」
「かつらっていうか。ちょっと待って」
 箪笥の引き出しからピンクの物体を取り出す。ぱさぱさと振って広げると、ボブカットのかつらになった。
「うわ。ポリエステルだから静電気が。捨てずにとっといて良かった」
 虎雄に被せて「生え際があった場所って、どのへん?」と前後に動かし、左右のバランスを整えてから後退って確認する。
「だめだ。まったくもって可愛くない」
「なんだよこれは。こんなの似合うのは若い娘だろ。きゃりーぱむぱむとかの」
「ほら、去年のシニア会。ハロウィンの時に。被らないほうがまだマシ……うぷっ」
 我慢しきれず噴き出すと、虎雄はかつらを外して百合子の頭に乗せた。
「似合わないのは、そっちも同じだ。ぜんぜん可愛くない」
「可愛いを狙える歳じゃないわよ。お互いにね」
「俺がやりたいのは」
「美しい? 無理だから」
「そういうんじゃない。可愛いくなりたいとか美しくなりたいとかじゃなくて。ただ、やってみたかっただけだ」
 百合子と虎雄は幼馴染だ。狭い路地を挟んだお向かい同士で、ふたりともここで生まれた。気づいた時には互いがいて、一緒に遊んで大きくなった。それぞれ伴侶を得たが、今は一人暮らし。虎雄の妻は五年前に逝き、百合子は嫁いで二年目に離婚して戻って来た。虎雄の兄弟や子ども、孫たちは時々姿を見せるが、百合子は一人っ子で子もいないので、様子見に来る親族はいない。ふたりは朝刊をとりに行く時間を六時に揃えていて、それとなく互いの無事を確認し合う。もともと六時は、百合子が出る時間であった。虎雄はもっと遅かったのだが、さりげなく百合子に合わせた。百合子はわかっていて、礼は言わない。

 きっかけは、今朝のおはようだった。
「ずいぶん切ったな。爺さんが出て来たと思った」
 昨日髪を切ったばかりの百合子は、むっとした。梅雨入り前にさっぱりしたかったのでいつもより短めにした。襟足をすっきりさせ、耳に毛先がかかる程度のショートカット。美容師さんから「頭の形がいいし、髪が多いのでショートカットがお似合い」と褒められたばかりなのだ。担当の美容師は出戻って来た時から同じで、毛質が硬く量が多い百合子に「このまま歳をとったら羨ましがられますよ」と言い続けてきた。確かに現在、歳の近い友人から羨ましがられている。女性でも歳をとると、髪が頼りなくなる人がいる。百合子の髪は若いころよりこしが弱くなったものの、まだ十分にある。白髪は染めているが。
「いきなり何よ。喧嘩売ってんの」
「短髪の婆さんがズボン履いてると、爺さんに見えることがあるよなって話だ」
 虎雄はにやにやしながら路地に出て、百合子のところまでやって来た。
「ほう。よく似合ってますなぁ」
「ふん。わざとらしい」
 それから、年齢による男女の見た目の話になった。歳をとると、確かにお爺さんだかお婆さんだか判断に迷う人がいる。スカートとか、波平ヘアとか、わかりやすいならともかく、素顔に短髪、地味なシャツにズボンと運動靴などで登場されると、どっち? の人は確かにいる。今朝の百合子は、グレーのTシャツに紺のズボンだった。
「幼児の性別も、どっち? があるわよね。どちらにもとれる服の子、昔より多くなったし。可愛らしい顔だから、女の子さん? って訊くと男の子だったりするもの。声も幼児だと男女の判断がしにくい。老人も歳とって声が低くなったりすると、男女差が……」
「年寄は子どもにかえるってことだ。出来たことが出来なくなったり。個人差が大きいから、一括りにするのは乱暴すぎるけれどな」
「そうよね」
 百合子と虎雄の幼少時アルバムには、同じ写真が何枚もある。ふたりの両親が、遊ぶ様子を焼き増し交換してきたからだ。分厚い表紙と裏表紙に挟まれたモノクロの思い出たち。虎雄の家の縁側で、並んでかけるふたり。百合子の手には、ブリキの自動車。虎雄の手には、お手玉。百合子の家の庭先。侍のポーズで枝をふりかざす百合子の後ろで、大きな布人形をおんぶする虎雄。いつもおもちゃを交換して遊んでいた。百合子は虎雄の怪獣メンコが、虎雄は百合子の花形おはじきが欲しかったのだ。ただそれだけ。年頃になると、人生の駒を進めるように結婚した。
「おもちゃを交換していたのは、親が与えてくれないシリーズで遊びたかったからだろうね。私も虎雄も今でいうトランスジェンダー的なもので悩んだことはないものね」
 虎雄はそれには答えずに、
「なあ。この歳になったら、俺も女装すればおばあさんに見えるかもしれないな」
 おどけたように言った。
「刺激的な退屈退治になるわね。昼過ぎにうちに来る? 変装さしてあげようか」
 半ば冗談で投げた言葉に、虎雄は奇妙な笑みをつくって頷いたのだった。

 痩せているといっても、百合子のウエストより太い。ファスナーが上がるのは途中までで、安全ピンでスカートを留め、オーバーサイズのシャツブラウスを着せた。
「目を閉じて、少し上向いて」
 昔使ったアイシャドーを瞼にのせてやり、
「薄く口を開いて」
 口紅をひき、
「唇をこすり合わせて。そうそう」
 などとやっていると、
「化粧するには顔をけっこう動かすんだな」
 嬉しそうにもじもじするので、もっとくねくねさせてやろうと、眉墨や頬紅などでお絵かきすることに専念した。
「なんか……ゲテモノ」
 仕上がった顔は、どぎつい代物であった。
「だめだ。まったくもって可愛くない。美しくもない」
「だから、なんでそれを言うんだっ」
 虎雄は百合子から離れて、姿見の前に移動した。
「あっ、まだ見ないで」
「……酷い。こんな……」
 歪めた顔が誰かに似ている、と百合子は思う。そうだ、ピカソの「泣く女」だとわかって、また笑いをこらえ、鼻をぶぶと鳴らす。
「よこせ」
 ティッシュの箱を虎雄がつかんで、化粧をこすって落とし出した。──と、化粧が剥げて薄くなるほど、妙に色っぽく変わりだした。男性の顔は女性より凹凸があるから、そんなに塗り込まなくて良かったかもしれない。
「虎子ちゃん。薄化粧のほうがキレイ」
「馬鹿にしてんのか」
「ごめん。私がやり過ぎちゃったみたい」
 素直な気持ちがこぼれた。かつらをつば広の帽子に替えると、虎雄はもっと魅力的になった。レースの手袋が入らなかったことを、虎雄はとても悔しがった。
 今日の虎雄は、次々に新発見を与えてくれる。虎雄を女装させることがこんなにわくわくするとは。もしかしたら、十八歳の虎雄や三十歳の虎雄を女装させていたら、すごく綺麗だったのかも知れない。──損した。もっと早く気づけば良かった。もう、遅い。お婆さんみたいなお爺さんになれても、麗しい女性に化けられる限界はとうに過ぎてしまった。もっと早くこの遊びをしていれば。
「もう一度、鏡を見てごらんよ」
 再度、姿見の前に立った虎雄は、小さな声で「もっと早く……」と呟いた。
「せっかくだから、散歩に行こうよ」
「バレないかな」
「大丈夫。こういうお婆さんって確かにいる。堂々と出て行けばバレないわよ虎子ちゃん。靴のサイズが合わないから、いつもの運動靴でいいわね。エレガント仕立てだけど、足元に気をつける年齢だから違和感はないと思うよ」
「虎子は、やめろ。虎は、やだ」
「じゃあ、何にする? 和子、幸子……」
「──夢子」
「え?」
「夢子がいい」
 家を出たふたりは、十五分ほど歩いた先の園芸ショップへ向かった。アーチをくぐって店内に入り、庭木、観葉植物、野菜の苗のコーナーを抜けて鉢植え花のコーナーで足を止め、しばらく見入った。
「へぇ。ハイビスカスですって。買おうかなぁ。でも……」
 百合子が小さな鉢を手に取って「すみませ~ん」と、店員を呼んだ。エプロンをかけた青年がにこやかに寄って来る。虎雄が身構えるのが百合子に伝わった「適当なところで、話に加わってみて」虎雄に囁き、
「あの、これって大きくなっちゃうんですよね」
 店員に鉢をちょっと持ち上げてみせた。
「いえ、品種改良されたもので大きくなりません。プランターや鉢植えで飾るのにぴったりですよ。五センチくらいの花をたくさん咲かせてくれます。カラーも豊富で、白、黄色、赤、青、ピンク、オレンジなどいろいろあります」
「いいわね。ああ、ラベルに色が表示してあるのね」
「蕾がついていますので、じき開花するものばかりです。こちらとかはもうすぐですね」
 青年店員の指さす蕾の先が赤く染まっている。。
「私、オレンジがいいわ」
 少し裏返った虎雄の──夢子の声が響いた。ためこんでいたものを吐き出すような言い方だった。青年はびっくりしたように息をのんだがすぐ笑顔に戻り、
「オレンジは、華やかで綺麗ですから女性に人気ですよ」
 百合子は赤を買おうとして、当たり前すぎてつまらないと青に変えた。オレンジと青の花が咲く鉢をそれぞれさげて店を出た時、
「あの人、驚いてたよな。女性に人気、ってわざわざいったよな。気づいてたのかもしれない」
 虎雄が低くつぶやいた。
「唐突に切り込むような話し方をしたからよ。大丈夫。気づいてない。考え過ぎ。そのあとは普通だったじゃないの」
「気づかぬふりをしてくれたんじゃないの?」
「バレてないって。いい意味で手ごたえがなかった。ある意味、つまんないっていうか。いけるわよ、夢子で」
「ハンカチ、貸してくれ」
 虎雄の額から流れた汗が、鼻の横を伝っている。百合子がエコバッグからハンカチを出して虎雄に渡すと、帽子を少し持ち上げて手を差し込んで拭きだした。
「サイズきつくて蒸れる?」
「いや、緊張で」
「脱いで拭いたら?」
「それができれば」
「──ですよね。どうする? このあと喫茶店でお茶でもしちゃう?」
「帰る。なんだか疲れた」
「え~。もうちょっと、遊ぼうよ」
「今日は帰る」
 今日は、とはどういう意味だろうと百合子は思った。虎雄は不安を口にするものの、女装を楽しんでいる様子だった「もしお手洗いに行きたくなったら女性用に行くべき? うふ。いやね、冗談よ」とか「ねえ、この芍薬と私とどっちが綺麗?」などとベタな女言葉で話かけてきたのだ。百合子とのやりとりはうきうきと嬉しそうだった。店員にはギクシャクだったし、そばに人が来ると無口になったが、次回はうまくやりたいとかそんなことを考えているのだろうか。なんだかんだ言って、楽しんでるんじゃないか。ずるい、と百合子は思った。
「じゃあいいよ。戻って変装を解くってことで」
 なぜか返事が乱暴になった。

「あらぁ。こんにちは」
 あと少しで百合子の家というところだった。同じ町内の井上さんと角を曲がったところで出くわした。井上さんは六十代の主婦だ。
「うっ」
 虎雄が呻いて百合子の後ろに素早く隠れる。
「いいお天気ね」
 百合子が虎雄をかばいながら過ぎようとすると、
「今年は梅雨入りが遅いわね。梅雨入りしたらしたで、大雨が続きそうだとテレビで言ってたのご覧になって?」
 立ち止まってしまった。
「豪雨被害が出そうな地域は、気が気じゃないわね」
 百合子が仕方なく相槌を打つ。虎雄はそのまま後ろでじっとかたまっている。
「こんにちは」
 井上さんが虎雄に声をかける。
「こ、こんに、ちは」
 情けない小声を背中で聞いて、百合子は意地悪な気持ちになる。
「ご友人?」
「ええ。夢子さんていうの。今、風邪で喉の調子が。ね?」
 振り返ると、虎雄が井上さんにわからないように睨んできた。顔を隠すため口元に手を添えた上品なポーズからの抗議の眼差し。
「夢子さん、いい歳して恥ずかしがりやさんなのよ。よかったら、今度一緒に──痛っ」
 二の腕を後ろから、虎雄につねられ、
「じゃ、これで」
 強引に話を終わらせて縦並びで逃げる時、井上さんは虎雄に、
「控えめでエレガントな方ね。お大事にね」
 にこやかに会釈して去って行った。
「井上さん、わかってたんじゃないのか。そうだよ。そうだとしたら……。ああ、どうしよう」
 またも、虎雄の心配が始まる。
「不思議に思ったら、覗き込んでくるとかさ、あれでは済まないはずよ。あの人なら」
「そうかなあ。どうかなあ。どうもなあ」
「うるさいわねっ。バレてないったら」
「なに怒ってんだよ。エレガント、だって言ってたよな。悪くないってことだよな」
「下向いてたからじゃないの。おべっかに決まってるでしょ」
 自分ばっかり楽しんで──という気持ちが湧いて、すぐ打ち消した。虎雄の女装で楽しんでいるのは、私も同じ。もっと早く実行すれば良かったと思ったのも嘘じゃない。でも──なんだろう。もやもやしたこの感じは。

 変装から三日後の朝、百合子は虎雄の庭先にオレンジ色を見た。路地を越えて行くと、虎雄が顔を出した。
「咲いたね。ハイビスカス」
「ああ、そっちの青いのは?」
「もう少しで、開こうとしているところ。先を越されちゃったな」
「蕾がいくつも染まっているから次々に咲きそうだ」
「私のほうだって──ねえ、虎雄。今度はさ、私が男装してお婆さんみたいなお爺さんになるのはどうかな。ん? お爺さんみたいなお婆さんか」
 下向きの花をそっと持ち上げると、長く突き出した雌蕊が揺れた。
「そりゃいい。服、貸すぞ。大きいか」
 なにがそりゃいいだ、不自然な言い方して──と、百合子は思う。
「しつけ糸で調節するからいい。同伴してよね」
「その時俺は女装するのか? しないのか?」
「自分で選んで。どっちだっていいじゃない。どっちだって」

                                 了