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嵆康『山巨源に与えるの絶交書』から考える発達障害

夫(そ)れ人の相知るや、其の天性を識(し)り、因(よ)りて之を済(な)すを貴ぶ。

(意訳)そもそも、人の相互理解というのは、生まれ持っての性質を理解して、そのありのままに生きることを尊重することじゃないですか。

 『文選』を読んでいて、嵆康の書状がおもしろいと感じています。
 嵆康は「竹林の七賢」の一人。彼らは働かないで能天気に暮らしていた高等遊民、あるいはロイヤルニート扱いをされることもありますが、そういう存在ではありません。
 中国では宮仕えしないだけで命懸けであることもしばしばありまして。隠者って気楽でいいね! なんてものじゃありません。嵆康は司馬懿で有名な司馬氏を批判し、刑死しております。

 そんな彼の『山巨源に与えるの絶交書』。これにぐっときました。

 要するに、嵆康は相手に絶望し、呆れ果て、絶交すると言い切っているのです。その理由は、山濤(字・巨源)が自分に「公務員、やってみない?」と勧めてきたから。手厳しい絶交宣言をされても、友情は続いたようではありますが。
 もちろんその背景には、曹氏と司馬氏の対立もあります。けれども、嵆康の嘆きは理解がありました。彼ができないから就職なんてしないと言っていることをちょっと並べてみますか。

 嵆康の理想は、老荘であるし、宮仕えして栄達することよりも、自分らしく生きること。レリゴー。ありのままの姿を見せたい。
 そもそも君子とは、理想は個々人色々あるだろうけど、自分らしく己を知って生きてこそじゃないか?
 自分は怠け者で、運動嫌いだし、体も弱い。髪の毛もろくに洗わない。限界がきて、こんなに臭くて痒いのは嫌だと思わないとやらない。トイレも限界まで我慢。
 だらしない生活をしてきたから礼儀ってもんがないし、絶望的に空気読めない。なんとかなっているのは、周囲の寛大さのおかげ。
 それなのに、老荘思想大好きでますますだらける。出世より、ありのままに生きたい気持ちが強まるばかり。

 親友の阮籍はえらい。あいつは相手の気に入らないところをストレートに指摘したりしない。見習いたいけど、自分は無理。だから何かしたら炎上しっぱなしになると思う。いろいろ無理。

 世間には読むべき空気があるし、職場にはルールがあるでしょ? 守れないのあげとく。

1.早起きできない。
2.琴を弾いたり、釣りや狩りが大好きだけど、自由にできないでしょ? そんなの無理。
3.じっと座ってられない。体がかゆいとポリポリするけど、制服着たら無理でしょ?
4.手紙の返事を書くのが嫌い。どんどん貯まっていく。想像するだけで無理。
5.口が悪いし、根性も悪いってしょっちゅう言われて、罵倒されまくる。反省して直そうとは思うけど、どうにもできない! 無理矢理矯正しようにも、ありのままに生きられないから嫌!
6.コミュ力高い人とトークしたりするんでしょう? 愛想笑いしている人らと世間話しなくちゃいけないんでしょ? 大声で笑う人がそばにいるだけできつい。そういうの本当に無理!
7.お役所仕事って、タスクだらけで覚えることたくさんあって……そんなのできるわけない!

 こう切々と具体的な例をあげていく。なんてダメ人間なんだと思えるようで、後半は自分の思想、信念、愛する古典をあげて、自分自身のことを語っています。

 嵆康は、自分を理解していると思った親友が、よりにもよって役所勤めを勧めてきたことに絶望したのでしょう。なんだよ、俺のことわかってないな! そういう悔しさが伝わってきます。
 山濤に悪意はないのでしょう。才能あるんだし、もうちょっと自分を制御できれば成功できるよ! そういう気持ちが余計なお世話だと蹴られて、その書状が後世まで残ってしまったと。

 自分の検索結果のせいかもしれませんが、Googleが勧めてくる「発達障害」記事がことごとくズレていて、どうにかならないのかと不安さえ感じてきます。
 こういう記事を過去の自分に読ませたところで、私とは真逆だ、何を言っているのかとムッとして終わるだけだと思えるのです。実際、ADHDの話は全くもって他人事だとは思っておりましたし。

 発達障害は風呂に入れないとか。料理の味付けができないとか。当たり前のことがともかくできないとか。確定申告できないとか。いろいろ言われますが、自分の場合はむしろ逆です。風呂は言うまでもない。料理はむしろ歴史から調べて、朝っぱらから下拵えをするくらい凝るときはそうする。確定申告もきっちり入力するから特に焦ったことはない。
 どうしてこんなテヘペロ天然ドジっ子アピールをするのか?
 これはどうにも日本独特の傾向が強いようではある。海外のニュースを読むとそうじゃない。専門書ともなれば、人類史における意義や意味も考察されていて、はるかにおもしろい。

 そうそう、おもしろいといえば。歴史上の人物の発達障害判定をしている書物も多いものです。自分がASDだとはっきり認識できたのは、こういう書物での発見が多い。そこを踏まえると、日本のテヘペロ天然ドジっ子アピール調には義憤すら感じます。
 あとSNSなんかで、
「俺なんかやべーこと言ったけど、ADHDなんで許してくださいね」
 みたいなこと言う人もちらほら見かける。偏見を拡大しないでいただけますか? 人間の善悪正邪、賢愚とはまた別物でしょうに。障害を言い訳にするなとは言い難い。けれども、差別や偏見、不見識の言い訳に発達障害を使うのはどうなのでしょうか? それは到底賛同できかねる。
 言い訳の道具がひとつ増えちゃった! 発達障害やったねバンザイ! なんて私は思わないし、思わなくもないですし、そこまで自尊心を捨ててはいません。

 話を戻しますと。
 発達障害については、ドジっ子おもしろキャラアピールをする本よりも、古典や歴史書を探るほうがおもしろいかもしれないと思えてきました。
 前述の通り、海外の書籍では歴史上の人物の解析をしたものは多い。西洋史の人物では実例が割とすんなり出てきます。
 問題は、西洋史以外。
 私は精神科医ではないし、心理学者でもない。けれども、ある程度、そういう傾向がある人物像には何かを感じるようにはなってきました。
 
 ここであげた嵆康が宮仕えを拒む理由にも、その片鱗を見た気がする。漢籍なりなんなりを探っていったほうが、生きる道やヒントが見つかる方が多い。これは個々人によるのですが、思いついたところから古典なり歴史書を読むことは、役立つのではないかと思うのです。

 こう言う話は、自分の脳内だけで展開していてちょっと物足りなくなった。ゆえにこうして書いている。
 世間の需要はろくにないことくらい、想像はつきます。世間とは、ドジっ子発達障害当事者が、確定申告や書類提出に失敗する世界線を望んでいるのではないかと思う。

 そんな世界線、トレンドが、いつまでも続くとは思わないけれど……。


 

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