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【書評】山田風太郎『魔群の通過』

 以前読み、あまりに読後感がおそろしくて、再読する気にもなれなかった。ただし、水戸天狗党について調べていて、そうとなれば外せないと引っ張り出して再読しました。
 以前読んだ時からいろいろと変わった。それゆえ腑に落ちることも出てきた。それは果たして幸せなのかどうか。暗い気持ちになりました。

『甲賀忍法帖』すら効率的に思える地獄

 本書は天狗党という時点で地獄です。
 『バジリスク』効果もあり、山田風太郎作品で最も知名度が高いであろう『甲賀忍法帖』すら、随分やさしく思えてきてしまう。
 あれは徳川家康自身が手を下す自覚はある。対してこちらの徳川慶喜と慶篤の無責任さはひどい。
 あれはたった二十名が死ぬだけ。関連死を含めればもっと多いけれども。対してこちらは処刑されただけでも三百人を超える。
 あれはそこまで民を巻き込まない。対してこちらは略奪殺害放火。民草を殺しまくる。
 あれは将軍継承問題の解決にはなった。対してこちらはまったく無意味な殺戮だった。
 あれはもちろんフィクションで忍法勝負はない。対してこちらは史実にあった惨劇。

 こう比較するだけでおそろしい。忍法なんて使えない人間のほうがひどいことをやらかす。その原因分析が冒頭に出てきます。それが現在の日本にもあてはまるのがおそろしい。

天狗ロミオと諸生ジュリエット、そして#Metoo のおゆん

 山風の作風は取り上げる時代により異なり、中でも幕末から明治はゾッとするような権力の冷たさが露わになります。忍法やエロを抑えたぶん、歴史の持つ冷酷さが迫ってくると。
 どうにも山風は忍法帖や伝奇の印象が強すぎるのですが、むしろそこがかえって世界的に見れば最先端だったのではないかと再読して思えてきました。
 山風作品が荒唐無稽とされがちな理由として、稗史重視、“オリキャラ”が出てくることがあります。なぜ日本のフィクションとその受け手が“オリキャラ”を小馬鹿にするのか理解できなかったのですが、最近わかってきたのです。
 稗史目線。オリキャラ。市民ごときが歴史に口を出すな! 「豚に歴史はありますか」で知られる平泉澄じみた呪いがすっかり染み付いているのでしょう。おそろしいことに、これに対して無自覚だ。歴史好きを自称する人々でも、鼻をくくったような冷笑をしてオリキャラ叩きをする。あまりに見慣れた景色です。でも、海外ではオリキャラメインの歴史ものがむしろスタンダードですけどね。

 さて、話を『魔群の通過』に話を戻しますと。
 山風が付け加えたと思える要素を指摘しますと、天狗党がつれていく人質のことがあります。
 諸生党を率いる市川弘美(作中では三左衛門)の娘・お登勢。
 田沼意尊(作中では玄蕃頭)の妾・おゆん。
 語り手が十五歳の少年ということもあり、彼女らの世話を任されると。
 このお登勢は武田金次郎と同年です。それでも二人は、弦之助と朧のように惹かれ合う設定なのです。といっても、あの二人よりももっと悲惨なかたちをとる恋となるのですが。

 そして、おゆん。
 山風ヒロインとしては『甲賀忍法帖』の陽炎、妖婦枠とみなせる造型です。ただ、山風の描く妖婦は怒りが根底にある。じぶんの性を値踏みし、踏み躙ってきた男どもに復讐をする。そういう怒りが根底にある。
 このおゆんがラストに、自分の周囲にいた男たちの思惑をぶちまける場面が圧巻です。おゆんはいう。水戸の戦の意味がわからない。尊王だ、攘夷だ、お国のためというけれど、目の前の敵をやたらめったら殺すだけで何がしたいのかさっぱりわからない。もうイデオロギーすら吹っ飛んでただただ殺し合うところへ突っ込んでいく。
 これは作品冒頭の、作者の目線も入った乱の原因分析にも似ている。イデオロギーという酒に酔いしれて、血で血を洗う愚かさに突っ込んでゆく。男どもはそんな地獄に花でも飾るように女を巻き込む。それは一体なんなのかとあざわらうように叩きつける。
 いやあ、爽快です。
 このおゆんは「変わった女」扱いをされて、天狗党はじめ男たちは理解できないのです。狂乱に陥った側の人間は、まっとうな人間をかえって理解できなくなるのだと。

 この二人以外に、女郎たちも創作として出てきます。この女郎たちは安政の大獄に父が巻き込まれ、没落して女郎になった。だから天狗党に感動してついてくる。いっぱいご馳走を持ってついてくる。繕い物や洗濯をさせてくれと健気についてくる。
 ところが、です。
 彦根藩の武士たちが天狗党の前に立ち塞がります。彼らは水戸藩が引き起こしたテロリズムで殿たる井伊直弼を討たれ、仇討ちをするべく躍起になって行手の橋を塞いでいる。そんな絶体絶命の際に、女郎を渡すことで天狗党は進軍チャンスを得ます。
 彦根侍は親の仇! 絶対に嫌だと抵抗する女郎たちを、天狗党は差し出す。
 彼女らは必死になって脱出し追い縋ってきます。ところが天狗党は冷たい。食料を与えて欲しいと涙ながらに訴える彼女らを突き放し、彦根侍に身を汚されたからには消え失せろと突き放す。
 読んでいて不愉快極まりない。けれども、謎ときはできる。
 これって、第二次世界大戦時の引き上げの際にあったことだ。ソ連兵に女性を差し出し、それと引き換えに逃げてきた。やっとの思いで帰国したあと、彼女らは家族からすら「汚れている」と馬鹿にされることもあったと。
 戦争を目にして、日本人の醜悪さを嫌というほど観察してしまった山風は、本名にふさわしい作風といえる。ちなみに彼の本名は「誠也」です。
 こういうひどいこと、女性を踏み躙った上にあるもろもろについて、日本人は口を拭ってみて見ぬふりをして生きてきた。その上でいまだにあの戦争の性犯罪被害者、今を生きる性犯罪被害者が口を開けば罵倒する。

 そういう偽善と無念を作品を通して告発する。それが山風の作風なのでしょう。それがエログロとして消費され、B級扱いされてしまったと。
 山風の忍法帖の捉え方はなかなか難しい。エロ! そう無邪気に喜べるかというと、人による。むしろ気持ち悪いとみなす意見もある。

 2021年になって読み返してみると、おゆんは性犯罪を告発する #Metoo を訴える女性のようである。いまおゆんがいたら、きっとフラワーデモに参加しているだろう。そういう告発までひっくるめて「エロ」と消費してきたことの問題も改めて考えてしまいます。

 ちなみにこの作品のタイトルは、三島由紀夫の短編からとられています。なぜか? それは推察できます。三島こそ、水戸藩を内戦という血の海にしずめた思想「水戸学」の信奉者でした。水戸学を信奉する果てにある破滅を描くうえで、三島を持ち出すことは正しい。

 かつ、山田誠也(山田風太郎の本名)青年が絶望した大日本帝国、その背骨たる思想を解剖する意義も感じるのです。山田はそのキャリアをとおして、彼を苦しめた大日本帝国と戦い続けていたのです。

日本型愚行の理由が分析されている

 山風は戦争を見てしまった。
 自分を騙した日本人の悪辣さ、軽薄さ。そういうものがともかく大嫌いで、歴史をたどってそこを見出そうとした意図も感じます。
 彼が凄惨すぎて人気がない天狗党を選んだ理由はよくわかります。
 この作品を読んで、今直面する問題と既視感を覚えるなんて、ハッキリ言って冗談じゃないと思います。
 これはNHKリメイク版『柳生一族の陰謀』と『十三人の刺客』の出来がよかった時も思った。あの作品のオリジナル版には、戦争を見て人間不信に陥った人間の、血と涙のあとがあった。
 ああいう権力者の無責任さ、押し潰される民草の痛み苦しみを、リアリティをもって表現できる時代とは、もう乱世に足を踏み入れている証拠なのだろうと。

 じゃあ、そんな既視感のある嫌な傾向を本作冒頭から考えてみましょう。そして、現在直面する諸々も考えてみます。

第一に思想がからんでいた

 エンタメに政治を持ち込むなとか。日本人はノンポリであることを正解とするようなところが長いことあった。ゆえに、思想が絡んだ争いになると、幼稚でしょうもない議論に突っ走っている。

 PCR検査不要論なんて、データでも出してきて理詰めで行けばいいのに、検査するかしないか、そこに思想を絡めようとする。それが問題をややこしくしていたと思えるのです。

第二に水戸が江戸に近かった

 天狗党の場合、一致団結して江戸に直訴したことで斉昭が藩主になった成功例があると。それ以来、ともかくチームを作って強引に訴えかけることで、意見を通そうとする傾向が出てきた。

 今でいうならば、署名活動でしょう。署名活動そのものは目新しくもないけれど、インターネットが介在することで話がややこしくなっている。リコール不正署名は、まさにこういう集団直訴に味をしめた愚行としか言いようがない。

 署名そのものは否定しません。それでも行うならば、相応の理念や理想、正義がなければやるべきではないのです。

第三に統制が取りにくかった

 人類史というのは、時代がくだればくだるほど、国家が盤石にいろいろと支配しようとする。東西問わずそう。
 なぜか? 民衆の自力救済は暴力傾向をおび、統制できなくなる危険性がある。戦国時代のように石をぶつけ合い槍を振り回し水源をとりあったら問題でしょう?

 水戸藩はまさにそう。斉昭が焚き付けたせいで武士から民までたちあがり、統制が効かなくなった。幕末関東はどこも類似傾向がありますが、水戸はともかくひどい。

 だから、歴史をきっちり学んでいれば、自助だのなんだの統治する側が言い出すのは敗北への第一歩だとわかるはずなのです。

第四に決まったことをひっくり返す背信があった

 これは幕府側もそう。このとき、幕府の中心に慶喜がいたことも覚えておきましょうか。慶喜はともかくいうことをコロコロ変えて、自分だけ逃げ切る傾向ばかりだった。彼の人格を褒める人はそうそういない。

 トップがこうだと、人々の間には毒のように不信感が広がる。どうせまたひっくり返すのに従ってられるか! こういう気持ちが燎原の火のように広まって、倒幕へ影響したのでしょう。

第五にトップが無能で無責任。なんといっても「よかろう様」

 水戸の殿様は慶喜の兄・慶篤。これが「よかろう様」で極めて優柔不断でした。血統だけでやる気がない、こういう無能の悪辣さは、本人だけ自滅しないで周囲を巻き込むこと。そして巻き込んでも罪悪感を持たず、ヘラヘラしているだけということ。
 
 慶篤と慶喜の兄弟が今日本にいたら、何をするか? それは容易に想像はつく。
 自分の権力を使って、列をごぼう抜きにしてワクチン接種を受けるでしょうね。そしてそのあと、マスコミを使ってせっせと隠蔽工作だ。

第六に民まで巻き込み、武装した

 天狗党の乱では、報復のために民が立ち上がって被害が拡大しました。きっちり藩が統制すればよいものを、そうできなかったからたちがわるい。
 
 斉昭は民衆を「愚民」と呼んで見下していました。そういう見下したことが斉昭とその子を苦しめるならまだいい。周囲を爆発炎上させていると。

第七に報復合戦

 おゆんがきっぱりと言い切るように、しまいには双方、もはや発端のイデオロギーを忘れてしまった。わけがわからぬまま殺し合う。目の前の敵を殺したいがために荒れ狂う。その結果、水戸藩からは人材が枯渇しました。

 こういうことはインターネットのおかげで可視化された感がある。

 漫画が好きでのほほんとしていたアカウントが、フェミニズムが何かわからぬまま、表現の自由を掲げ、フェミニスト認定した相手を罵倒するとか。
 ヴィーガンがよくわからないけど、ヴィーガン相手に焼肉画像を送るとウケるしスッキリするから、続けているとか。
 フェミニズムに興味を持ち始めたアカウントが、トランス差別を口汚く罵倒することが目的であるかのように変貌していくとか。
 天狗党とちがって実際に殺し合っていない、といえばそうですが。

 でも思い出してみましょう。人間はイデオロギーのために殺し合う特殊な動物です。野生動物はイデオロギーのために殺し合うことはしませんよね?
 そしてこのイデオロギーの中身は、どんなしょうもないことでもいい。
 自分の好きなスポーツチームの、そのライバルチームファンへの加害へのハードルは下がります。そういうことを証明した心理実験の結果がある。人間は集団になると結束し、敵対者を排除する方向へ転がってゆく。しまいには意味がわからなくなっても殺し合う。

 『甲賀忍法帖』はマシだった。あれは権力者の人別帖という目標設定があっての殺し合いだ。しかし、天狗党とその敵は、自発的に何が何だかわからないまま、周囲を巻き込んで自滅の道を突っ走ってゆく。

 リアリティがある悲劇だからこそ、今読むと、心が灼けつくように辛い。まぎれもなく傑作です。


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