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『獅子の時代』が1980年、『青天を衝け』は2021年だという現実から逃げられない

 一坂太郎氏『幕末時代劇、「主役」たちの真実 ヒーローはこうやって作られた!』を読みました。漫画のこと、映画のこと、フィクションについてつらつらと考えていくと、それは社会の反映だとわかります。

 1980年代から2010年代の漫画はじめ日本のフィクションが、どうしてこうも苦手なのか? 多分、その時代の価値観や空気が苦手なのだろうな。そういう結論に至りつつあるのです。ああいう作品群を読み解くドライバーが、自分のツールボックスに入っていないのでしょう。どうしてこんなに無責任なのか? そうイライラしてしまう。

「明治礼賛」が大好きな「昭和の保守派」

 本題に入りましょう。
 『青天を衝け』のことです。放送前に、バッチリとニュースと重なってしまい、いろいろと制作意図の謎解きができて、圧巻ではあります。例によって厳しいことをキッパリと書くので、退避としてこちらに起きます。裏大河レビューと思ってください。

 なんで渋沢栄一がそもそもお札の顔なのか?
 そして大河にするのか?
 謎解きは、よりにもよって森喜朗氏がらみのニュースで見えてきます。

◆森喜朗会長辞任、「昭和の保守派」の勘違いで日本は衰退まっしぐら | 上久保誠人のクリティカル・アナリティクス | ダイヤモンド・オンライン https://diamond.jp/articles/-/262716

 船に刻みて剣を求む、ですね。

 こういう「昭和の保守派」の愛読書といえば? いの一番、別格扱いで司馬遼太郎です。『坂の上の雲』でビジネスを学ぶ……そういうことを語り出す。それでいいのか? そういうことを私は昔から考えています。

 昔、駅のホームで『翔ぶが如く』を読んでいたときのこと。おじさんがニコニコとうれしそうに、「えらいね、司馬さんを読むなんてえらいえらい!」と褒めてきて、困惑したことがあります。気持ち悪かったわけでもない。悪意はないと思う。けれども、別に褒められたくて読書しているわけでもないのに、どういうことなのかと戸惑いを感じました。ひとまず司馬遼太郎の小説は全部読んではいましたが、過去のものとしてなるべく考えないようになったのは、このことがきっかけとなっています。その違和感をうまく言語化できなかったのですが、やっと、できるようになってきたと思うのです。

 司馬遼太郎の明治の捉え方には大きな問題がある。そしてだからこそ、売れたということはだんだんとわかってきました。

 少年の国。坂の上の雲を目指す明治。それって、第二次世界大戦に敗北し、高度経済成長期までのぼってゆく「昭和の保守派」価値観にピッタリ合致したのででしょう。
 結局のところ、フィクションは価値観と一致しないと売れない。『坂の上の雲』コスプレごっこって、楽しかったんだろうと思います。手元の本に、この社会を作り上げてきた自負のある方が、いかにああいう作品を賛美してきたか、そういうコメントが掲載されていますが。本当に陶酔している……本だけでなく、そういう語り口はいろんな人から聞いた。そこは隠さなくてもいい。なんなら今の30代40代だって、『るろうに剣心』経由で司馬史観は刷り込まれているだろうし。

 そっとしておけばよいとは思う。司馬遼太郎を笑顔で読んでいる先輩を叩いて何が楽しいの? それはそうです。けれども。あの記事で指摘されるように、そういう明治礼賛ファンタジーに踊ってきた「昭和の保守派」が日本を停滞させているとすれば、これはもう看過できない。

 そうそう、明治の渋沢栄一と「昭和の保守派」に共通点もあるのですよ。「時代の子」ということです。

◆ いまさら聞けない「渋沢栄一」…実はめちゃくちゃ「運のいい男」だった! https://gendai.ismedia.jp/articles/-/79738

 そこを肯定的に、素直にとることはできない。
 明治日本の躍進には、イギリスの強い思惑がある。対露のためにも日本を強くしておきたい。なんで日本が植民地にならなかったか? そりゃ、植民地にする以外の使い道があったからでしょう。
 昭和日本の躍進には、アメリカの強い思惑がある。対ソ連のためにも日本を強くしておきたい。
 そういう国の国際戦略に巻き込まれることで、迎合することで、うまい具合に上昇気流にのってきた。それを自分たちの力だと勘違いしてはいけないし、海外はとっくにそんなこと気づいていますけど。
 日本はどうにもそこから逃避したいようです。
 敵を知り己を知れば百戦危うからず――とはいいます。けれども、敵である他国のことも知ろうとしないし、己を知ろうともしない。百戦百敗は当然の帰結としか思えませんけれども、人間とは苦い真実より甘い嘘が好きですから。
 明治経済界の汚職と嘘。
 渋沢栄一の残念な下半身事情。
 火が燃えさかりそうな要素はたくさんありますが、いざ燃えるまで突き進むのでしょうか? 役者さんには罪がないと思いたいところですが。

 そうそう、あの麗しい役者、イケメン祭りぶりも薄寒さを感じます。いつまでも青春! 歳をとってもいろいろこなした渋沢はえらい! そういう描き方をすると、自分と渋沢を重ねて張り切る「昭和の保守派」が元気になりそうな予感がするのです。
 どういう意味での元気なのか。そこは考えたいところです。


 ◆NHK大河 爽やかな吉沢亮で渋沢栄一の「艶福家ぶり」をどう描く?|NEWSポストセブン https://www.news-postseven.com/archives/20210214_1633969.html
◆ 「森会長、『老害』に嫌悪感示したなら」五輪メダリスト:朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/ASP2D7H8VP2DUTIL02Y.html

 麒麟も老いては駑馬に劣る、と申しますが。そういう自覚は大事ですよね。

 どうして『獅子の時代』が1980年で、『青天を衝け』が2021年なのか? それは逆じゃないのか? 逆じゃないということは、むしろ退化しているのではないか? 大河ドラマを「昭和の保守派」による明治礼賛ファンタジーにされている。そんな現実がただただ虚しいのです。

「明智光秀だって美化するんだしさ」
 そういう意見には反論しておきます。
 明治維新以降の場合、現在の日本のも通じる体制であるから、戦国武将の美化とか悪質性がちがう。
 渋沢栄一の場合、国境を超えて問題化する。
 この二点で、明智光秀と渋沢栄一の礼賛では意味合いが異なります。大河はそういうもん、とひとまとめにすることは危険です。2015年、2018年、2019年と2021年ならば、四天王扱いにしてもよいとは思いますが。

 そうそう、最後に懸念でも。
 「昭和の保守派」って、儒教や中国思想、古典を嫌っていて、儒教を貶める本あたりを好んでいそうなのですが。儒教批判と親和性が高い歴史的な事件といえば文化大革命ですが、何かあの事件にシンパシーでもあるのでしょうか? そういう方々は、『論語と算盤』はどう解釈するのでしょう? そもそも大河タイトルからして漢詩由来ですが。
 と、思っていたら謎が解けました。その手の雑誌に、こんな旨が書いてありました。

「『論語と算盤』には日本人特有の知恵や価値観がある」

 なるほど、『論語』を日本人独自のものとすれば問題解決、儒教日本起源説ですね!……いや、駄目だ、そんなの何も解決していない! 
 『論語と算盤』を推す本と、儒教を貶す本が並ぶ。そんな書店があったら、記念撮影しておきたいとは思います。
 
 このドラマについては「マイナスありきで見るのはよろしくない」とは突っ込まれそうなのです。けれども、それについてはよいことを引っ張ってきまして。

夫れ未だ戦わずして廟算(びょうさん)して勝つ者は、算を得ること多ければなり。未だ戦わずして廟算して勝たざる者は、算を得ること少なければなり。算多きは勝ち、算少なきは勝たず。而るを況や算なきに於いてをや。

 『孫子』ですね。要するに、事前情報を集めてどうなるかくらい、予測できるということ。それをした結果、『青天を衝け』には勝つ要素がないとわかりました。
 負け戦はもう、仕方ないことでしょう。撤退戦には撤退戦のやり方がありますから。勝とうとしないことです。勝ち目ないですよ、このドラマ。大河枠ごと壊すことだけは勘弁してください。せっかく『麒麟がくる』で持ち直したわけですから。


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