【書評】金文吉・天木直人編『麒麟よこい』
2020年にこのタイトルであると、まちがって『麒麟がくる』関連書籍かと手に取ってしまうかもしれない。でも、かえってそれこそ、日本の歴史、そして『麒麟がくる』の理解を深めるのではないかと、本書を読んでみて痛感しました。
私たちは、日本の歴史をちゃんと知って学んできたのかどうか?
問われているのは、まさしくそこなのです。
“耳鼻塚”をご存知ですか?
この本のテーマは、日本各地にある耳鼻塚についてのものです。耳鼻塚とは、朝鮮出兵の際に日本の将兵が朝鮮の人々の耳や鼻を削ぎ、戦果として持ち帰ったもの。それを供養するための塚のことを指します。
著者の金文吉氏は、きわめてシンプルかつ、本来持つべき視点でこの耳鼻塚の意義を問います。
朝鮮通信使がこの耳鼻塚を見て怒り、慟哭したこと。慰霊式をどうすべきなのか。こんな惨禍を引き起こした豊臣秀吉が、朝鮮半島でどう思われているのか。そうしたことをまず伝えてきます。
反論はいくらでも想像がつきます。第一に、日本側の事情なりスタンスの表明でしょう。議論が分かれる朝鮮出兵の意義であるとか。他の国だろうとこうした野蛮な行為はあって、日本だけではないとか。あるいは朝鮮側の問題点まで返してくる声は想像がつきます。事実、私たちはそうしてきて、総合的だの俯瞰的だの、そういう言葉で言い繕うことはしてきたわけじゃないですか。
ただシンプルに、戦乱でどれほど民衆が苦しんできたのか、そういうことを語ればむしろ、歴史好きを自認する方面からは「お花畑」と呼ばれてしまうかもしれない。
けれども、そこに立ち戻った方がよい。そうしたくない気持ちはわかります。たくさんの切り取られた耳と鼻。切られる無数の人々。想像するだけで、胸が痛くなる。朝鮮通信使が慟哭した気持ちはわかります。
何年経っていようが、人間の心はその惨禍があったときまで遡れてしまう。敏感な人はそうなってしまう。
金氏がつきつけてくる訴えは、泣き崩れる朝鮮通信使のものと隔たっていないのではないか。そんな思いを抱きつつ、史料を解読し、日本各地に残る耳鼻塚の状況を調べてゆく金氏の調査結果と提言を読んでいるうちに、とても厳粛な気持ちがありました。彼のいう通りだ、もっと考えなければ!
それと同時に、曰く言い難い不快感も湧き上がってきます。
こういう耳鼻塚の扱いをよしとしてきた日本人は何なのか? どういうことなんだ、あまりにひどいのではないか?
ちょうど本書を読んでいる少し前に、自分なりに考えてきたことがある。それは韓流ドラマにどっぷりとハマったある方の言葉も契機としてあります。
「豊臣秀吉ってひどいことをしたもんだね。あんなことされたら、そりゃ韓国の人は許せないよ」
主人公たちが、壬辰倭乱(文禄・慶長の役、朝鮮出兵の呼び方)の被害を受け、逃げ惑う場面を見ていての感想でした。歴史の時間に習ったけれど、知識としてはあっても、やられた側の苦痛はドラマを見るまで理解できなかったというわけです。
これはなかなか深刻な問題ではないかと思えました。
朝鮮の人々の苦痛だから見ようとしないのか? それとも、歴史における人間の苦痛そのものを軽視しているのか?
2020年秋という季節に考えてみると、どうにも人の苦痛への鈍感さがみえるようなニュースが多い。BLM運動への冷ややかな目線。ウポポイによってあきらかにされたアイヌ差別。性犯罪被害者への侮辱。
こうした歴史に根差す人の痛みを踏みつける話には、聞いた覚えがあります。会津から山口県へ向かい、松下村塾はじめ維新関連の史跡見学をしていたある方は、その出身地が明らかになるとボランティアガイドの顔色が変わったそうです。それからは、いかに会津の人々が嘘つきであり、高潔な長州の人々ならばしないようなことを吹聴してきたか、嫌味たっぷりに語られたとか。
第二次世界大戦中の経験を語るボランティアの方が、大袈裟に言っていると鼻先で笑われた。証言に記憶違いがあったのか、些細な相違があったことを指摘され「嘘つきだ」と罵倒されたとか。
そういう話は聞いている。ただ、それが愚かだとも、異常だとも思わない。何かの心根の裏返しだとは思った。加害したことを指摘されると罪悪感が胸に突き刺さる。それに耐えられなくて、証言する側、伝える側、声をあげる側を罵倒する。先手を打った自己防衛の一種であり、とてつもなく臆病で情けない話であるとは思うのです。
そんな臆病かつ卑劣な心理も、ここのところ私は考えてきました。
太閤記を愛でる日本人とは?
コロナ禍の中、『麒麟がくる』が休止となり、その合間に『秀吉』総集編が放送されました。
改めてあの大河ドラマのことを調べていくと、ゲンナリとした思いは湧いてきます。上向かぬ景気の中、国民を勇気づけるために秀吉をモチーフとして、ひたすら明るく描く。朝鮮出兵を含めた晩年に至らないうちに終わらせてしまう。
そういう秀吉の物語を作る手法は、このドラマだけでもない。司馬遼太郎『新史太閤記』もそうです。こうした作品を擁護するために、続編や別のドラマでは秀吉の暗部を描いているという意見が出てくる。しかし、誰もがみなそうした続編を鑑賞するかどうかはわからないからには、そうした擁護は無理筋でしょう。
描けば隣国が文句をつけてくるからと、事情通顔で語る人もいる。何度もそういう意見は読みました。それも違うし、失礼な話ではないかと思うのです。むしろタブーを積極的に避けているのは、日本人側ではありませんか?
大河ドラマ『秀吉』は底抜けに明るい! されど暗部を描かず問題残す https://bushoojapan.com/bushoo/toyotomi/2020/07/05/149168
どうしてそうするのか、そのあたりは私にも心当たりはある。
明治以降秀吉の朝鮮出兵は、アジア主義として肯定されるようになります。徳川史観への反発ともからみあって、徳川を貶め、豊臣を再評価する流れとマッチしました。金氏は、当時秀吉顕彰歌舞伎を演じた役者についても触れられています。そういう国家のプロパガンダに秀吉は利用されたと、ハッキリと本書は指摘してきます。
耳鼻塚の話をすれば、そんな400年前のことを蒸し返すなという意見は絶対にあることでしょう。けれども、蒸し返してきたのは誰なのでしょうか?
朝鮮通信使が慟哭したことはそうです。韓国の方が慰霊祭をすることもそうかもしれない。とはいえ、そうした個人の心情や慰霊と、明治政府が大々的に行ったプロパガンダでは規模の時点で比較にもなりません。
蒸し返してきたのは、日本人であり、日本政府です。
きっちりと認識しましょう。
秀吉が朝鮮半島へ軍を差し向けたこと。さらには神功皇后の「三韓征伐」まで遡り、蒸し返してきたのは日本側なのです。
これは現在も終わっていないと言える。前述した大河ドラマ『秀吉』にせよ、司馬遼太郎『新史太閤記』にせよ、描かないこともひとつの主張であり、国民の認識や政治性にも直結します。
秀吉の朝鮮出兵をタブーとして封じ込め、明るいサルの像を流布する。これだって立派な主張なのです。そういう無反省、ことなかれ、臭いものに蓋をして解決せず、また問題が追いついてくるような選択を、日本人がずっと選んできたことを認識する必要があると思うのです。
盗まれた骨と、切り取られた耳と鼻
後半は、6名の特別寄稿と、編集者である天木直人氏のことばが掲載されています。どれも興味深いものですが、その中でも印象的なものを紹介します。
沖縄在住の彫刻家である金城実氏は、琉球人であればこその視点をみせます。それは琉球人の遺骨返還訴訟問題です。研究材料として無断で墓から持ち出された、琉球人とアイヌの人骨。その返還は、今日においても未解決の問題として残されています。
その背景にある侵略や蔑視は、それこそ耳鼻塚に通じるものがあるのではないか? そうストレートに言い切る語り口には、説得力がありました。そう言われて、どう答えればよいのか? もう世界的にみても、ごまかしが効かない時代になった。金城氏の文章を読んでいると、そのことを強く認識させられたのです。
『ゴールデンカムイ』ファンなら読んでおきたい参考書籍3冊レビュー! https://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2020/07/17/122232
帝国主義は、“愛国”に非ず
そして一水会代表・木村三浩氏の寄稿は、スケールが大きいのです。
一水会として、原点回帰的な保守思想がある世界史観が展開されていて、「おおっ!」と思わず声が漏れそうになりました。
木村氏は、秀吉が後陽成天皇の意に背いて朝鮮出兵をしたことを問題として認識している。さらに、スペインとポルトガルが有していた帝国主義にも触れ、朝鮮出兵もそうした流れに近い問題があると喝破している。
ここのくだりは、なるほどと感じいるところがありました。Amazonプライムの天正遣欧使節団をモチーフにしたドラマ『MAGI』では、スペインの商人から彼らの帝国主義思想を耳にした秀吉が、笑みを浮かべる場面があるのです。秀吉の朝鮮出兵は、当時世界に充満しつつあった帝国主義思想と共鳴したと示す場面でした。これぞ世界最先端、グローバルヒストリーの描き方だと感じ入ったものがあります。ドラマの荒唐無稽な設定ではなく、そういう根拠と思想あればこその描写だと思ったわけです。
外国人宣教師から見た戦国時代のニッポン 良い国?悪い国?鴨ネギな国? https://bushoojapan.com/bushoo/christian/2020/04/09/123140
そういうところまで、国を愛するがゆえに木村氏はふまえて、西洋由来の帝国主義に通じる朝鮮出兵を断罪している。そして、そもそもが天皇の意に背いていると断罪するわけです。これが保守の中の保守が持つ、そういう歴史観か。久しぶりに、田中清玄の著書を思い出しました。右とか左とか、政治思想は横に置きまして。かれらがこういうグローバルヒストリーも踏まえたうえで、きっちりきっぱり耳鼻塚問題に向き合い、こうして寄稿していることに興味は尽きません。
これからの歴史を先取りし、麒麟をよぶには
この本は、「日韓和解の決め手はこれだ!」と掲げて入る。けれども、そこまで実はきっぱり言い切っていません。日韓だけではなく、北朝鮮の歴史にも関わる問題でもある。当時の明、中国視点も取り入れなければ、実は壬辰倭乱の話は解決ができないのです。そういう趣旨のことを、本書は書いています。
これは決め手というよりも、むしろ洗い直して歩み直すための第一歩への提言だと思えました。これはそうそう容易な道のりではない。本書のタイトルに「麒麟」が入っていることは、何も大河の便乗ではありません。けれども、『麒麟がくる』にも通じる問題はあります。
『麒麟がくる』で「来ない」と話題になった――そもそも「麒麟」とは何か問題 https://bushoojapan.com/bushoo/kirinstory/2020/01/27/142228
あのドラマには、駒という戦災孤児出身の医者が出てきます。彼女は恋愛対象者ではなく、戦争の悲惨さ、踏み躙られる民衆の苦しみを代弁するキャラクターです。ところが、そんな重要な役割を背負っているのに、いるからなのか、邪魔だのいらないだのしょっちゅう言われてしまいます。
どうして戦災を語る人物が邪魔者扱いされるのか?
前述したような、戦争体験者の証言を罵倒する心理にも通じるものを感じます。加害の苦しみや史実に向き合えない、臆病者の心根です。そういう心情は日本人の歴史観に根付いているし、根本から改善する必要性を強く感じます。
明智光秀に対して、秀吉を宿敵と言い切る。
駒という人物に、戦争の惨さを体現させる。
そして、東洋にある平和を願う思想の象徴である、麒麟とその到来をテーマとする。
コロナ禍やBLMが加速させたとはいえ、歴史認識は見直さなければならないものだった。『麒麟がくる』には、そうした新しく、かつ古典的な仁政を重視する視点が持ち込まれています。
この世界に麒麟はくるでしょうか。麒麟とはあくまで理想を望む概念であり、永遠に到来しないからこそ、呼び続けるべきものだとは思えます。麒麟を願うことそのものが、理想の仁政をめざす、そういう姿勢につながってゆくのだから。そういう麒麟の役割を踏まえれば、真理として本書も大河も、同じ目線にいるとわかります。
民衆の目線で歴史を見つめなおし、冷笑せずに痛みを受け止め、考えてゆくこと。まずはその第一歩を踏み出すべきである。そう歴史を通して語りかける本書は、2020年代の幕開けにふさわしい良書です。是非とも、一人でも多くの方に手に取っていただきたい一冊です。
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