冷たい言葉

 「不愉快です。」自分の発した言葉の冷たさに、自分自身で驚き、場が凍りつきました。

 それは、交流分析研究会の勉強会での事。その日の勉強会は「ボディサイコセラピー」で、歩きながら段々他の人と近づいていくことで、自分自身の身体に起こる反応に気付く内容でした。いかにも、力の抜けた自由人然とした女性の講師で、座りながら感想をシェアしていた場面です。「他の人が近づくと、どんな感じでしたか?暖かさを感じるとか、ザワザワするとか、色んな感覚があると思います。何が良いとか悪いとかではなく、それに気付く事が大切です。暖かさを感じた人?」殆どの人が手を上げます。「違う人は?」私が手を上げると「どんな感じですか?」と言われたので答えました。

 私は物心ついた頃から、他人と接触するのが嫌いでした。特に男性が…。背筋に何とも言えない不快感が走るのです。総毛立つ…?それは、弱い獣が強い獣に後ろから狙われているのに気付いた瞬間のようで、生命の危機すら感じているようです。別に親に虐待された記憶はないし、性暴力を受けた記憶もありません。しかし、何か封印した体験が有るのかもしれないとすら思います。

 大体、母親曰く「お前は、4ヵ月の健診の時に、もう、人見知りをしていたんだよ。看護婦さんが、「先生!この子人見知りしますよ」って言ったら先生が「そんなはず無いだろう」って、でも、看護婦さんがお前に顔を寄せたら泣き出すのを見て「ホントだ!」って言っていたんだ。」と教えてくれました。生まれつき、感受性が高いのかもしれません。「おまえは、小さい頃、他の人は分からない赤ん坊の話とか、年寄りの話を良く通訳してくれていたよ。」とも教えてくれました。「おまえは、中学生の頃受けたIQテストで140以上あって、職員会議で話合われたくらいなんだ。」と言う話は50歳過ぎてから聞いたことでした。感受性と知能は、比例しないように思うのですが、アスペルガーに知能が高い人がいる事を考えると、案外、多動性発達障がいの気もあるので、関係あるのかもしれません…😅。(?)

 感受性が強すぎる人を「HSP」とか「エンパス」と言って、最近では新聞でも特集されたりしています。なるほどそれを読むと、確かにすべての特徴が当てはまります。でも、それ程「生きづらさ」は自覚していませんでした。本能的に、苦手な友人関係や集団を、避けていたからかもしれません。一人で居ることが、苦痛ではなかったから…。「HPSの人は、他人の感じていることを敏感に受け取ってしまうため、人間関係に悩み精神をやみやすい。」と書いてありました。でも、私が精神を病んだのは、人間関係ではなく、自分自身の完璧主義が原因で、勉強する程に、出来ない自分自身を責め過ぎたからです。

 何れにしても、この、あまりの「他者との接触に対する嫌悪感」を何とかしなければ、ストレスでまた、精神を病むかもしれない…。そう思うほど、最近、舅に嫌悪感を押さえきれません。どうして、ここまで嫌いになってしまったのか…。去年の家出騒動が発端であることは、間違いありません。あの時は、舅に誓約書を書いて貰い、win winで終わらせたはずでした。でも、私の気持ちはまだ許していないのです。女性蔑視、精神病者や犯罪者への暴言と偏見…。

 こころの平穏は「許し」の中にある。

 そう思い、ずっと、殺された後輩の両親を見守っています。殺した後輩の背景も知っていて、その後輩が唯一こころを許していた存在が私だった、その償いの気持ちで20年以上続いています。そしてずっと、到底「許し」は無いのだと突きつけられています。私のつまらないこだわりと、実の子を殺された親の気持ちは、比べられるものではありませんが…。こんな、つまらないことも許せないのだから、当然だよなぁ…。なんて、あまりの自分の不遜さを思い知っています。

 あまりにも悲しい…。自分のおろかさが。
 あまりにも悲しい…。自分のこころの狭さが。
 あまりにも悲しい…。自分のこころの弱さが。

 でも、おろかだから、弱いからこそ…きっと、気付くこともあり、何かを造り出せるかもしれないと、信じて…。

 

 

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