見出し画像

『砂原利倶楽部ー砂漠の薔薇』短篇集の4

                   おおくぼ系

短篇集を編んでみたくて、短編を一作ずつ掲載します。ヨロピク!

〈砂原利俱楽部ー砂漠の薔薇(バラ) あらすじ〉
割れた花瓶は元には戻らない・・・上司と口論の末、深見は新聞社を辞めた。書くことで生活できるだろうとタカをくくっていたが不安であった。
古本のブックコンビニへ資料探しに行ったところ、本好きの砂原利倶楽部のママ北辰輝美に会い名刺をもらった。後日店を訪ねていくと要人警護のプロなどいろんな人がいた。輝美ママからある資料を見せてもらい、これを小説にしてみないかと示唆され、直後、輝美ママはグアムへ出張する。ひと月後に小説を書きあげて店へ足を運ぶと、砂漠の薔薇にかかる秘密を共有することになるのだが・・・。


         1

なぜ書くことにこだわる――ライテイングデスクに、かれこれ小一時間は向かっているが、パソコン画面の文字は一字も増えていなかった。

タイトルと著者名が打ちこまれ、続く五行が書かれている。

それを眺めるともなく眺めていた。プロットは漠然としたものが頭の中にあるのだが、完璧に作り上げなくても六十枚の短編なら書けるという自負があった。事件記者を主人公にしてミステリーにするか、恋愛を絡ませるか、方向はキーボードのなりゆきにまかすしかない――俺はプロの物書きなのだ――深見は思った。

日々取材して記事を書き上げてきた実績があった。整理部へ移ってからは書く機会が減ったが、やはり活字が好きで書くことが好きなのだ。はじめて一面のコラム「紫紅らん」を書いたときは、心が踊り筆が走った。

……◆自然と人の接し方は千差万別。転変に仮説を立てて定説を探るのは科学。あるいは一句詠む、詩を造る。キャンパスやカメラに写し取ったりもする。万象を解釈するという愉悦も人は手にしている◆いずれも真理を追う作業。当然、厳しさが伴う。科学者も芸術家も丹念な思索を怠らない。漱石や鷗外の子は漱石や鷗外にはなれないわけだ。問われるのは作品の巧拙だけ。だから一方で高校生作家や学生作家が文壇に躍り出たりする◆……

この新聞コラムが、はからずも翌月の全国新聞協会のコラム集に掲載されたときは舞い上がった。もと総合雑誌の編集長からの推薦があったとのことで、文章の切れが良くて無駄がないとのお褒めにあずかったのだ。「深見が、まさか?」と、社内の記者仲間に疑問符つきのさざ波がおこった。

両腕を頭の後ろで組んで伸びをした……であれば、辞めたのはまずい、絶対にまずかった。しかし、若いころの夢を追って、念願の作家を目指せる。これでブン屋に決別し思い切ることになったのだ。いままでの経験をいかせば月に二百枚は軽いだろう。実際に「一身上の都合で」と辞めてしまったら、これほどたわいないこともなかった。

そうだ資料探しに行ってみよう。ノートパソコンの上蓋を閉め窓に目をやった。午前十時を過ぎ、白いレースの内カーテンは射しこんでくる強い光にさらされて、くすんで見えた。

割れた花瓶は元には戻らない……深見は部屋を出た。


 路地の突き当りを左に曲がってJRの線路沿いをたどる。

 右向かいの垣根からは、テッセンが優雅に延びて紫の静寂を放っていた。ツツジは燃えるような朱色を呈している。白ペンキがところどころ剥げたガードレールにそって、景色が広がるのを楽しみつつ駅へと歩む。線路の横に群がって咲いていた菜の花が、今は天にむけて緑のさやを伸ばしており、春が終わりつつあることを知らしている。

 駅で十分ほど待って、すべりこんできた電車に乗り込む。わりとすいていた。テッセンはクレマチスともいうのだったなと、吊革を手にしながら薄紫色の星の形をイメージするが、電車が加速しだしてゆれると外へ流れ出ていった。

電車は二十分たらずで中央駅に着いた。

 駅舎を出ると目の前に路面電車の停留所がある。それぞれが早足になって歩いていく。日光がまぶしく、おでこを照らされて停留所へ向かった。が、陽気が良すぎるので思い直して歩くことにした。時間は十分にある。

右側の路面電車の軌道敷に青々とした芝生がつらなって見える。

ああ、これは都市緑化の先駆けだったなとの感慨がもどる。見出しをつけるとすると二行だろうか。

――市電が緑の回廊いやし行く――これだと一行見出しにしかならないかな、いや狂句ととられかねない、整理部の主も鈍ったものだ。

 ぬるんだ街の空気を味わいながらブック・コンビニを目指した。

古本屋もコンビニ化してきている。ベストセラーの新刊本が六か月もすると半額になり五年もたつと一冊百円均一となる。まさに古本のコンビニエンス・ストアーという名称そのままでいい得ている。昔は旭日通りの裏には本屋街があり古本屋も軒を連ねていたが、今は一件を残すのみになっている。そこは結構重宝したが、近年は店を開けたり閉めたりで自然と足が遠のいてしまった。資料本を安く手に入れられるとなると、ブック・コンビニに限る。時とともに街での行動様式も変わっていく。

 深見は、店のドアまで来ると、心持ち視線を上げて「ブック・コンビニ」の大きなロゴを見つめた。やや胸を張り一呼吸おいて足を一歩踏み出す。店の自動ドアが大きく左右に開く。ドアをひとつ跨いで静寂の世界に入りこんでいく。今日も本が整列して出会いを待っていてくれる予感がした。本とは出会いであり、これといった本とは一つの運命を感じる。手に取ってみて読んでくださいと、本の背表紙がささやいてくるのである。なんといっても本が好きで活字中毒には違いなかった。

 一階はコミックやCD売り場となっており数人の若者がいた。二階の単行本や文庫本の売り場へと上がっていった。文庫本の棚はアイウエの著者名順になっており、手前のアから向こうのワまで分類された見出しの棚が続いていた。手前の婦人がしきりに棚を見やっていたので、後ろをやり過ごして奥から棚の本をたどり始めた。

 ワ行の見出しの作家から順にみていくが、脇田、和久井、渡辺、和田など結構な作家数である。また、それぞれ、さすがに著作が多い。やはり数多く書けることが作家の絶対条件なのだ、棚いっぱいの文庫本をみて寒々とした不安の想いも広がる。背表紙を目で追って面白そうなものを手に取り開いてみるが、これという出会いはなかった。

 さかのぼってヤ行の棚に移るが、ここも安岡、矢神、八尋など、そうそうたる書き手が連なっている。文豪と言われる作家の本を取り出し、表紙と裏表紙を交互に眺めると、開かずにそのまま元の場所に返した。開いて目を通すと、またしても打ちのめされる感がするからだ。『富豪と風石の謎』という探偵ミステリー、『国家警察の真円』という警察サスペンスものなど、かってベストセラーとなった単行本が文庫となって均一価格で並んでいる。これらも背表紙だけを目で追った。

右のマ行の棚に移つろうと本を見たまま横ヘステップした。

 ガツンと体がゆれた。客の婦人とぶつかってしまったのだ。

「おっと、失礼」

 どうもと、頭を軽く下げて小柄な婦人を見つめた。

「こちらこそ、つい本に夢中になってしまって」

 婦人も軽く頭を下げた。深見は、婦人の後ろを抜けて場所を入れ替わった。ナ行の棚をあらためて見つめだした。

並んで本棚を見つめていた婦人が、そっと声をかけてきた。

「あのう、あなたは、前も本を探してませんでした?」

ええ、とは答えたものの、ここしか行くとこがないからとは言えなかった。 

「わたしも本を探しによく来るんですが、ここひと月あなたを、よく見かけますね、本が好きなんですね。これも、なんか……」

 婦人が沈むようなアルトの音色でしゃべり始めた。


 深見はブック・コンビニを出て、コーヒーショップでカプチーノを飲んでいた。結局、参考となる本は見つからずに『ピストル』という雑誌を購入したのだった。それと手元に小さな名刺が残った。本の好きそうなあなたへと、先ほどの五十半ばの婦人が渡してくれたものだった。

『倶楽部砂原利 北辰輝美』

「クラブサハリ、ほくしんてるみ」と読むのだと教えてくれた。

「サハリというと、あのアフリカの砂漠ですか」

「ええ、一般的にはサハラ砂漠だけど、イメージが大きすぎるので語感から可愛くサハリにしたの。デザートローズって知ってるでしょう。あの砂漠に咲く薔薇もあるから一度は見に来てね」

 クラブと言う響きにも縁遠くなった。記者の頃は県政記者クラブがあって黒潮会と呼んでいた。飲み屋も居酒屋がほとんどで、スナックは結構行ったが、クラブなる処は四十一歳の今でも、二、三度しか踏みこんだことはなかった。

 砂原利のママであるという婦人は、さらに一言付け加えた。

「願い事があれば、ぜひ来て砂漠の薔薇に願ってみてね、人生が変わるかもしれないよ。だけど八時が境よ。それまでは、お茶でも相談でも受け付けるけど、八時以降は完全なクラブに変身するの」

 ママの容姿を思い浮かべるが、化粧気のない角ばった顔に、まゆ、眼、鼻、口それぞれが小柄な造りの中でしっかりと主張していて個性的ではあったが、美人で綺麗どころとはいえなかった。

再度、名刺を見つめてカップを口に運ぶと、口の無精ひげにミルクの泡が付いた。いやまてよ、どっかで会ったことがあるような……記憶がそうつぶやいた。


 単身の一LDKに収穫もなく忍ぶように帰ってきた。一冊の雑誌と胸のポケットの小さな紙片、スーパーで買ってきた夕食用の割引寿司弁当、それにインスタントコーヒーの小さなプラスチック容器、いつものようにつつましい。そこは小説家だからだ、と深見は考える。新聞記者は華やかな職業であったが、小説家は、世をすねてひっそりと暮らす存在だと思う。売れるまではなおさらだ、世の中の苦悩というものを一人で背負っ、て押し潰れそうになり赤貧洗うがごとし、それこそが物書きであろう。

 自分でつかみ取った究極の自由だ……ついつぶやいてしまう。しかし、そんなに大それた決断のもとに作家を目指したのか、いや、単なる売りことばに買いことばのなれの果てじゃないか。小さな食卓に雑誌とコンビニの袋を置き、ライテイングデスクに腰掛けて、パソコンのスイッチを入れた。書きたいものが湧き上がってきたわけではなく習性であった。なにげなく胸ポケットの名刺をとりだして眺めた。

すべすべした光沢のある小紙片の主は五十半ばの年配であって、お世辞にも美人とはいえそうもなかった。若い頃は、さぞかし……と思わせるものも伝わってこなかった。ただ、キュートな感触は幾分伝わってきたが……しばらく眺めてもそれ以上は湧いてこなかった。机のうえのビニールカバーをもちあげて、名刺を挟み込もうとした。と、カバーの中にあった三センチほどの薄茶色のタグ三枚が目に止まった。三枚のうちの一枚を取り出してあらためて見た。それは、ワイシャツをクリーニングに出した時に襟についてくるタグである。ただ、印刷されている数字が七なのである。その前に〇が二つ付いている。〇○七……この番号は、英国のスパイ小説で世界的に有名になった数字だ。おそらくクリーニングの店番をあらわす番号なのであろうが、なんとなく粋な数字に思えてカバーにはさんでいたのである。

ふーん、と一呼吸でた。そういえば最新作が上映されていたか、明日でも見に行ってみようか、時間はあり余っているのだ。


 四月末となり気分もゆるんでいく連休の二日前であった。

 午後七時前、深見は、天翔通りに向かって歩いていた。倶楽部砂原利を一度訪ねてみようと思い立ったのである。その気にさせたのは、先日スパイ映画を見たからであった。

 通りは暮れなずみ、街灯が輝きを演出しだしたが、路地に差す影は深い憂いをたたえてみえた。「天翔繁華街」と掲げたアーケード入口の看板が見え、これをまっすぐ五百メートルも進むと、天保山神社へ行きあたる。頭上の案内掲示板をくぐって、通りに踏みこみ先を見とおすと、小さい頃に両親に連れてこられたときのにぎわいがかぶってくる。神社の境内で毎年正月興行が催され通りは人々であふれていた。

 名刺裏の略図は、角の花屋を右折して六つ目のビルを示している。花屋のショーケースからあふれんばかりに咲き誇る、黄色やオレンジ、淡いピンクの花々がパステルカラーを奏でて、晩春をくすぐる色香を匂い立たせていた。

 まん中に入り口がある五階建ての琥珀色のビルが、来客を取り込むように待ち構えていた。倶楽部砂原利はそのビルの地下にあるとネオンは告げている。つづらおりの階段を降りた。地下のそれぞれのバーやクラブはまだ人影がなかった。右折して、ぎょっとした。通路の突き当りに木製の椅子に腰掛けた大きなチーターがこちらを睨んでいた。だが、よく見ると大きな口を開け、上を見上げている表情はなぜか愛きょうがある。アイボリーホワイト色の壁に映える緑色のオアシスのようなドアがあり、砂原利とある。ゆっくりと重いドアを引いた。

「いらっしゃーい」

 カウンターにいた北辰輝美ママが振り向いた。

「八時前のお客さんね」

「えーと、先日、本屋で名刺をもらって、それで砂漠の薔薇を見せてもらいに来ました」

 どうぞこちらへと案内されて、カウンターの奥に座った。後ろにはボックス席が奥まで続き、オーク調のテーブルを囲むようにしてダークグリーンのソファーが、黄土色の壁を背にして並んでいる。中央のシャンデリアと壁のグローブ照明が乾いたひかりを投げていた。

 ママが紫色のおしぼりを出してくれた。

「ママをどっかで見たという気がしてたんだけど、先日、映画を見にいって、やっとわかった。ママ、スパイ映画に出てたでしょう」

「ふふ、それ最近よくいわれるの。そう私は、イギリス情報機関の女ボスなのよ」

「映画を見て、あれっ、ママが出てるって思ったもの」

「まだ、今度の新作は見に行ってないけど。なぜか、お客さんにそういわれると見に行きにくいのよ。ところで、まだ貴方のお名前をうかがってなかったわね」

「ふかみ・みなみといいます。深く見るのふかみで、南海と書いてみなみと読むんです」

「では、深見さん飲み物は何にする」

とりあえずビールを飲みたいと言った。

「みなみっていい響きね、南十字星はないけど、オリオンはあるよ」

「へー珍しいね。じゃあ、それを」

 グラスにビールがつがれる。深見が、ママも軽くどう出会いを祝って乾杯をしようよと言い、もう一つグラスを出してもらってビールをついだ。「では、かんぱーい」と、テノールとアルトが和音になって部屋に響く。

「ところで、神秘の薔薇の花は、どこにあるの」

「その横の棚よ」

 サイドボードの中を見ると、キルト刺繍の上に鼈甲色のこぶし大の塊があった。ママが、キルトを手に取り、包み込むようにしてカウンターの上に出してくれた。

 なんの変哲もない文庫本大の薄茶色の塊に思えた。よく見ると飴色の大理石に薔薇のはなびらが、前面に白く刻まれて光っている。なるほど砂漠に咲こうとしている薔薇には違いない。だが、これから咲こうとしているのだろうか、深見には、咲く時期を失して開花の形骸のみを残した化石に見えた。

「なんか、異様で不思議なものだね。アラジンの魔法の世界が沸き立ってくるように思える」

「アラジンのランプのように、願いを叶える石でもあるのよ。深見さん、何か願い事があるかしら」

「うーん、願い事は持ってるんだけど、口に出しては言いにくいね。ところで、こんな大きな薔薇を、どうして手に入れたんですか」

 残りのビールを一息で流し込んだ。クリーミーな泡立ちが優しくのどを包みこんでいく。

「ふふっ、それは、ないしょ……幸運を運んでくる石だから、解説をつけずに神秘のまま置いとくの。でも最近ね、幸と不幸の数はどちらも表裏の関係のように、一定のおんなじ数に決まってるのじゃないかしらと思うわ。それでも早く幸福にたどり着こうと願うのが人の常じゃない、裏返せば不幸のタネが張り付いているんだけど、私も運を使い終わってしまったのか……みたいに感じてる」

「いやに実感を織り込んでいて、かつ文学的なフレーズだなあ」

「ふふ、わたしは本が好きで、この年になっても、いまもって文学少女だからね」

「それで本屋で出会ったわけか。しかし、女ボスにもう少女はないでしょう」

「ふふっ、気持ちはまだまだ少女よ。歳をとるとますます、少女に帰って行くみたい。いや母性回帰かな。ところで、みなみさん、見た感じは自由業に見えるけど、何をしていらっしゃるの」

「なにをしているように見える。当ててみてよ」

「ふふっ、本屋で出会ったのだから、文字を書く仕事でしょう」

 あっさり言い当てられるのも、面白くない気がする。そんなにプロトタイプ、典型的な人間に見えるのだろうか。

「ブン屋をやってたんだけど、今はフリーの物書き、小説家になりたいと思ってる」

「やはり感は当たった、女ボスだもの。それで、デビューの目途はついたの」

 三杯目を注ぐと、グラスの三分の一ほどでビール瓶は空になった。

「それが、デビューの見込みもなにも、勢いで辞めちまったからね」

 今になっては、自分がすごく戯画的におもえる。単純で滑稽でさえあった。デスクから叱責されたのが、どう転んでしまったのか折り合いがつかず、こじれた挙句、なら辞めますとなり、おおそうかで終わってしまった。原因は役員からもらった極秘情報をデスクに相談せずに記事にして掲載したことからだった。

「地元経済への影響を考えれば、老舗の崩壊を告げる記事は客観的な事実を書いて、特ダネとして喜んでいるだけじゃダメだろう。ただのスキャンダル暴露ならゴロジャーナルだ」、デスクは激怒した。

「いや、オフレコでも書くときは書く。これが、記者魂ではないですか、向こうさんもリークしたからには、書かれる可能性を無視していたわけじゃないんじゃ」

いつもの議論だったが、だいぶ昂揚してしまった。整理部も長くて紙面の割り付けばかりしていると、つい署名記事の一つも書いて存在を誇示したくなるもんだった。

ママが二本目のビールを取りだしてグラスに満たしてくれる。

「なるほどね。これから辛酸を舐めて自滅するか、石にかじりついてもデビューするしかないってわけね。どちらも大変だけど」

 細かい泡が、グラスの中を伸びやかに浮かび上がっていく。

「で、石にかじりついてもデビューしたいわけ」

「うん、それしか、ペンでしか生きる道はないと思うのだけど」

 新聞は社会の公器だから真実を報道する使命があると、社会正義論を振りかざしたつもりはないが、結果的にアダとなった。デスクが、負債総額のウラは取ったのか、と言う忠告にも、しつこすぎると貸す耳を持たなかった。記事を発表した後に、老舗から負債総額がデタラメすぎるし、記事が悪意に満ちているとの激しい非難の声があがった。ガセネタのリークにはめられてしまったのだ。

 グリーンのドアがゆっくりと開いて、がっしりした男が現れた。

「あら、おひさしぶり」

ママが、振り向いて、深見の隣を一つ空けた椅子をすすめた。

「どう仕事は?」

「ん、まあまあだと言っとくか。今やってるのは、中堅サラリーマンのお坊ちゃまをイジメから守る仕事さ。小学生お坊ちゃまの警護だよ」

「へーっ、それってどうやるの」

「朝は母親がその子を送っていくが、帰りは校門の脇で待って家まで歩いて送っていく。その時に、イジメはなかったかを聞き取り、あれば、その子の担任に不行き届きの文句をいう。さらに、イジメっ子の住所を聞き出して家まで行って親にはげしく抗議する。一応三か月契約だ」

「なるほどね、こみいった社会になったわね。こどもの争いにまで要人警護のプロがおでましなの」

「まあ、ちょろい仕事だ。が、親は、子供の時の育ち方が一生を左右すると必死だ。結構な仕事になる」

 輝美ママが、ビールを出して客に注ぐ。

「ああ、紹介しとくわ、そちらは小説家志望の有力新人。こちらは、要人警護を専門としている凄腕のボデイーガードよ」

 男は、軽くグラスをかざして深見にあいさつした。

 ママ、おはようと、ドアが開いて、ドレスアップした若い子が連れ立って入ってきた。一人はショッキングピンクのジャケット、もう一人は黒サテンのミニドレスで素足がまぶしい。急に花が咲いた。

 あでやかさに気後れして、深見が腕時計をぬすみ見ると、八時五分前であった。

「ママ、そろそろ失礼するよ。お勘定を」

「そうね。八時前のお客さんだから、ビール代二千円でいいわ」

「それで、ほんとにいいの」

「うん、八時前は、開店準備を兼ねたウオーミングアップの談話時間だからね、以後はテーブルチャージが七千円に跳ね上がるの」

 じゃあ、と、二千円をテーブルに置いて立ちあがった。

「あつ、みなみさん、携帯を教えてよ。〇八〇の九一四二の×××…これにかけてみて」

 携帯を出して言われた番号を入力して送信すると、ママの携帯が震えた。

「オーケーよ。今度また、話のタネがあったら電話するわ。この地から小説家が誕生するのを見てみたいわ。この薔薇に願って応援するわね」

「ありがとう」、久方ぶりにストレートの素直さが出た。

深見はグリーンのドアを押して砂原利をあとにした。

 ネオンに照らされた街は、ブン屋時代と違って戯画に満ちて揺らめいている。人の流れを縫って歩く姿を自身の冷めた頭が眺めていた。会社にしばられない自由な人生ってのも案外、面白いかもしれない……な。

あれほど振りかざしたブン屋時代の社会正義が影を潜めてしまっている。新聞社の中にのみ住んでいたんだろう……なんとたわいのない、苦笑せざるを得なかった。バカヤロウと叫びたかった。


 十日ほど経った連休明けに、深見は再び門番のチーターに今晩はと言いつつ、グリーンのドアを引いた。カウンターに腰掛けると、午後七時半前であった。

「いらっしゃい、ようこそ、ビールはオリオンでいい」

 今日のママは、銀に縞模様のドレスであった。

「そのドレスは、シマウマ? それともトラですか」

「フフ、シマウマといいたいけど、トラにしとくわ。男を食って生きてるんだから。しかも希少種のホワイトタイガーよ」

 ビールの泡が、ステアグラスを満たし少しずつ澄んでいく。泡の頃合いを見て、ママのグラスと軽く合わす。ビーンと澄んだ音が、倶楽部の中に行きわたる。

「どう、小説の方は」

「…ん、なかなか書くものが、見つからずに、書きだすと小説を飛び越えてエッセイになる」

「ふふ、なるほどのつぶやきだね。ところで、書くネタを提供してあげようか。どっちかと言うと、純文学よりも社会派小説を目指すんでしょ」

 輝美ママは、カウンターの中からなんやらとりだして、深見の目の前にそれを置いた。大封筒だった。

「中を見てみて、某人の書いた手記がはいってる」

 グラスを置いて、封筒からA四大の紙片を取りだすと、パソコンで印字された原稿が七枚あった。

「彼はこれをインターネトで公表して、こんなのありかと世間に訴えるというから、ちょっと待ってと借りたの。後でゆっくり読んでみて、結構、謎めいて小説のヒントになるとおもうけど。ノンフィクションじゃなくて、あくまでフィクション、小説としてね。小説ってのは森全体を視るよりも森の中に分け入って、一つひとつの木の手触りを描く感じでしょう。それで現実より現実らしい虚構の世界を、おもうままに創りだせる。だから、かえって小説は難しく、いい小説は現実と混同されやすいって」ママは雄弁であった。

「自由に制限なく書けて自分の想像世界を創れる。作家が作品の創造主として君臨できるのは、やはり小説かもね。帰ってから手記をじっくりと読んでみて。その行間からヒントがつかめたら基にして書いてみたら。荒原稿ができたら、私にも見せてよ」

「ママ、いやに小説に詳しいね」

「ふふつ、これでも若い頃は仏文よ、二年で中退したけど」

 深見は、原稿を手に取ってあらためて軽く目を走らせた。

 タイトルは、『ホテルワーフの怪』となっている。

  ――一昨年の十二月、グアムの会社がアプラ湾のホテルワーフという米海軍基地の中に、荷揚げ、冷凍、市場、税関等の施設を建設したいとの申請をおこないグアム港湾局から許可が出た。米軍とも借地の賃貸契約をしたので、施設全体の実施設計と工事管理をしてもらいたいとの話が知人から持ち込まれた。海外の大掛かりな仕事ははじめてで、さっそくグアムへ飛んだ――

「ふーん、面白そうな手記だね。これをネタにして小説を完成させればいいのか。結構書けるかもね」

「深見さんの想像力、推理力、構成力を駆使してね。純文学じゃないから、文体は凝らなくていいんじゃない。展開で読ませてほしい。最後をどうまとめるのかが勝負じゃない」

「わかった。ただ、手記の作者に取材させてほしいんだけど」

「深見さんは、ノンフィクションじゃなく、小説、フィクションを書くのでしょう。ホームページに事実として告発すると言うから、ちょっと待ってとお願いして借りたの。取材源は秘匿して作者とは距離を置いて、想像力で書く方が正解だと思うわ」

「なるほどね、確かに小説は、虚構の世界だから、あまり事実を書き込みすぎれば、ノンフィクションになって、事実と混同されるか」

「告発小説として、共犯とみなされるかもしれないし」

「そうだね、社会正義は、社に土産で置いてきたつもりだし」

 とりあえず読み込んで書いてみるよと、残りのビールを飲み干した。


 ライテイングデスクに向かって考えている。手記を三度読んだ。

 三度めは黄色のマーカーで、ところどころに印を入れた。

グアムに渡った設計士の私は、港湾関係者の歓待を受け、アプラ湾に隣接した基地に建設する施設の調査を始める。湾に突き出した細い半島は、ほとんどが米海軍の管理地で、そこの一部を借りて施設を建設するのである。片言の英語を駆使して岩壁の周辺から測量を始めた。米軍が機密とされている湾内部の深度図なども提供してくれて、建設場所を決めるための協力を惜しまなかった。また、湾の奥には、あるゆる兵器を整備し修理できるという、大きな工作船が浮かんでいた。ここは明らかに軍港であり、基地に入り測量調査するためにはIDカードも必要だった。一週間で測量を終えると、建設場所の検討もついて、日本に帰って二百三十枚ほどの図面を一月半で完成させた。

 そして、私は、三月初めに英語の説明の入った図面を持ってグアムに行った。実施設計の確認も終わりグランド・ブレーキングという起工式が催された。州知事のお祝いの言葉に始まって関係者の祝辞が続き、砂山への鍬入れが行われ、あとは、お祝いのパーテイとなった。ここまでは至極順調であったが、その後、実際の工事へ移行する段階で、これまでの進展がはたと止まった。立ち消えのようになり、乏しい英語で催促するも……さあーの一言、一体どうなったのだろう? 設計料をなんとかしてくれー契約違反だと、悲痛な叫びが出た。

 読んでいると、ふふっと含み笑いがでる。が、面白がってる場合ではない、これは事件だ。切り捨てたはずの記者魂が新芽になって吹きだしてくる。だが、社を辞めた時点で、事件記者は過去のお払い箱にしたんだった。このネタを新たにどう小説に料理するかだろう。詳細を調べてみてから、プロットを立ててみよう、グアム関係の資料にあたって背景を読み込む必要もありそうだ。

記者だったころは、社の資料室に年配の生き字引がいて、「グアム関係の記事を探してほしい」と、依頼すると、過去の新聞の中から手掛かりを探し出し、二十分もすると、このような記事が出てたぞ、と写しを渡してくれたもんだ。

 今は一人で調べなければならない、しかし、インターネットという便利なものがある。正確性については、いまいち心配であるが、キーをたたけば幅広い情報を即座に提供してくれる。

 まず、「グアム関連記事」をキーワードにして探そう。

 インターネットは、すぐにヒットした。

「グアム移転費全額削除 米両院合意」の記事が見つかった。記事を読むと、軍の再編成により沖縄の米軍海兵隊が、グアムに移転することになっているとのことである。移転にかかる費用は百二億ドル、日本円にして一兆円を超える莫大なものであり、日本と米国で折半して負担するとことになっていた。それが、その予算案を米議会が拒否したといういきさつを述べた記事であった。

 なんだ予算が確定し、既定事実としての整備事業ではなかったのか、すごいことになったな……グアム移転への思惑の渦に、設計士の私も巻き込まれたのだろう。日本と米国の国際的舞台で展開するサスペンス? いやミステリー、それともハードボイルドか? 切り口をどうすれば読んでもらえる小説になるのか、相手にとって不足はないけれど、題材にしては余りあり過ぎるかもしれぬ。

 大判の大学ノートをとりだした。表紙にマジックで黒々と「ホテルワーフ グアムの荒波」と仮題を表記して、なかのページをめくった。まず、設計士の書いた手記、『ホテルワーフの怪』の内容を要約して箇条書きにした。次のページに、しだいに湧いてくるアイデアを、そこはかとなく書きだす。

 やはり、主人公が、設計士と一緒になって事件を解決する筋書きが、一般的でそこに落ち着きそうな気がする。それでも日本政府と米軍の絡みともなると、ハードボイルドでCIAも登場することにもなろうか。想像は際限なく広がる。けれども、そこまで書ける自信があるか? 風呂敷を広げ過ぎる分、こころもとなくなってくる。どうしても裏付けに頼る記者体質が染みついているのだ。新聞の記事となる事件には、小説以上の奇想天外なものもある。事実に即して書けば自然と小説になるのではないか、心は千々に乱れていく。

 まあ、書くより仕方がないか、おおまかなデザインがあれば書けるだろう、物書きのプロだったんだ。だが、最初の一行がなかなか浮かんでこない。スムーズに移行できないイップスという病気、あれであろうか、小説は最初の三頁で勝負するのだ。読者は、最初の二、三頁ほどを読んで、面白いか、面白くないかを判断する。出だしが「私は設計料を取り戻すべくグアムに来た」では、あまりにも薄くて白けてしまう、奇抜すぎる出だしでもいかがなものか、ええい、創造的見出しをつけるプロだったんだ、とりあえず船出をするのだ。

――プールサイドの椅子に寝そべって、遠くフィリピンを望   む海を眺めた。夏のバカンスにはだいぶ早かったが、今回は仕事なのだ、仕事でグアムまで飛んできたが、宿泊先のホテルの開放的なベランダから、ヤシに囲まれたプールが見えた。そのふちに白い建物が日に映えて、プールサイドに寝そべる水着姿の若い女性たちも楽しもうよと俺を誘っていた。向こうには紺碧の海が見え青い空がある。世間の青さに射す光、水着のカラフルな色、忘れていた俺の何かが動きだしたのだ。仕事はさておいて、まずは一息入れようと、さっそくプールまで降りて行きデッキ・チエアーに横になったのだった。「ホテルワーフ」という地名は、ホテルの名前ではなく、正式には「H岸壁」というのだが、アルファベットのHをいうときには、HOTELのHということから、いつしかホテルワーフと云い表すようになったのである――

 ここまで書いて読み直してみた。書いた端は、いい出だしだと思ったが、あらためて読みなおしてみると、たいしたことはない。ありふれていた。これで、読者を惹きつけるのか、問い直してみるが、答えは出ない。何か違った味が欲しいなとは思うが、どうやればいいのかが解からない。ああ、文章の個性なのだ、文体だ。とりとめもないことが次々と浮かんでくる。プロットをもう少し詳しく筋立ててから、文体を考えていくとすると、今書いているのは、まだプロットだということか、訳が分からなくなった。部屋の先にあったスツールを引き寄せて椅子をまわして両足を乗せた。椅子の肘つきに両腕をのせて、後ろにもたれて、天井を眺めた。グレイ色のクロスは、何も語りかけてこずに、冷ややかに深見を見下ろしていた。

 右手を伸ばして、かたはらの本を取った。『小説大全』は、分厚い本である。おもむろに本を割ってぺージを広げてみると、「前に進まなくなったときに、そこでどれだけ長く考えられるかが分かれ目だ」と書いてあった。ふーん、でも前に進まなきゃどうしようもないんだ。

 「イメージだ」、どんな小説を生み出したいのか、静かに目を閉じて瞑想した。疲れた頭にはイメージは浮かばず、そのまま眠りに落ちて行った。

 空中を歩いている感じだった。俺の処だけは鈍く光があたっている。板敷の上を歩いているようだが、床が激しく波を打っている。その上を俺は不思議そうに歩いている。しかし、どの方向へ歩いていいのか、わからなかった。途方に暮れる俺を、彼方から見つめる俺がいる。

 どこへ行くともなく歩き出すが、大きく上下する床が抜けそうで怖い。立ちすくむ俺を見ている俺は、床の下は無限につづく深い奈落になっているのに気づいている。舞台の下も奈落と言うのだったと思う。もうこれ以上俺の落ちる所はなかったはずだと、ぼんやりと考えている。一歩、二歩、前へと踏み出した途端に床が抜け落ちた。

ワーッと、叫ぶ声とともに目が覚め、椅子の上に戻った。

 うっすらと汗をかいていた。机のデジタル時計を見ると、午後四時四十四分であった。またか、数字の魔術にぶつかってしまった。四・四・四に接すると、なぜかシネ、シネ、シネと脅迫されている気になる。気にするとますます四が付いてまわるのだ。ゴルフボールの番号の四はパーで縁起が良いとされる。クローバーも四つ葉が幸せをもたらすのだ。四は、しあわせの番号で、幸運が訪れる予兆ではないかと、頭を切り変えようとしたがだめだった。ことに社を辞めてから、数字につきまとわれてますます気になるようになった。

通勤に使ってた千二百CCの小型車を車検に出すとき、走行距離を見てぞっとした。四万二千四百二十四キロ、シニシニヨだったのだ。戯画もここまでくると笑えない。人には、運と不運がともに取り付いているのではないかと切に思うようになった。人生は上りもあれば下りもある。どうも下りつつあるようで滅入っていた。

 預金通帳の残高を記帳した時は最悪であった。六万四千四百四十四円と印字されたのである。どうやって生活しようかと考えるより、六の次に並んだ四ケタの四に圧倒されたのだ。まだ六が最初にあるだけ救われると急いで通帳を閉じて、意識して見ないようにした。さらに郵便局の為替窓口で、なにげなく順番待ちカードを引いたとき、カードの待ち順番が、〇四四、すなわち四十四番めであった。この不吉な番号を変えてくれと文句を言いたい気持ちをおさえて、振込みが済むとそそくさと後にした。振り返ると数字が不気味にかぶさっていた。

ただ、唯一、クリーニングのタグだけは七であったのだ。すがるような思いで捨てずに、机のカバーの端に〇〇七と書かれたタグを三枚はさんでいた。それを見て、スパイ映画を観に行き、砂原利のママと知り合った。机のタグをしばらく眺めてみた……〇〇七はスパイの番号か、確か撃墜された大韓航空機も〇〇七便ではなかったか? しかも領空侵犯、スパイ容疑で撃ち落とされたのだ……いや、いい加減に不運の思いを断ち切るべきだ。

しばらくタグを取出し睨んで、ラッキーセブン、数字七のヒーローが乗り移ってくるのを待った。よし、失業保険もあとふた月を残すのみになった今、これ以上落ちる所はないではないか……。南海よ! 開き直るのだ。それしかない。報われない怒りをパソコンにぶっつけるのだ。小説の中でヒーローとなって思う存分暴れてやる。邪悪を打ち砕くのだ。自己に鞭打ってプロの物書きの意地を見せるのだ。

 そう決め込むと、続きを書きだした。面白いか、面白くないかは、どっかにおいてキーを叩くことに集中した。


          2

「ワッツ ザ パーパス?」入国審査で目的を聞かれた。

「サイトシーイング、アバウト ア ウイーク」

 北辰輝美は、日常英会話は不自由がなかった。学生時代のもともとの専攻は仏文であった。けれども、フランス語はなかなか込み入っていて、ジュシ、チユエ……ジュチュルラノブレと何度も諳んじてみたが、授業のスピードについて行けなかった。それでフランス語の単位を落としてしまい、再履修をせねばならなかった。比較的得意であった英語でも、せめてものにしなければと新宿にある語学専門学校に別途通ったのである。

そこで米人の講師アンデイと出会った。長身で精悍、背丈が違い過ぎて見上げるようだったが、ノッポと小太りの若い男女が恋に落ちるのに時間はかからなかった。挙句、大学よりアンデイといる時間が長くなり、遊ぶ金を稼ぐため、スナックで働くようになって自然と退学になった。アンデイは、つき合って一年後に韓国に行くといって去っていった。輝美は、さすがに韓国までも追いかけていく気はなかった。当時の外国は生活するには遠すぎた。アンデイは、やさしくていい恋人であったが、日本に腰を落ち着けそうではなかった。その後も時々思い出したように連絡はあったのだが……。

 グアムの入国審査は、テロ事件があったためか、わりと厳格であった。他に異物の持ち込みはありませんかと、二度、三度、聞いてくる。ナシングと語気を幾分強めていうと、やっと通してくれた。先に出て後に続く萌を見守る。

 例年、七月末から八月初めの猛暑の時期に、砂原利は、バカンス休暇を取るのである。今年は、新人ホステスの萌とともに、直行便のあるグアムに飛ぶことにしたのである。もっとも、グアムの日本語学校に、若かりし学生時代の語学専門学校の講師であった、園田邦夫が学校長として赴任していた。青春時代の語学校でのつながりは、細々ながら三十数年のときを超えていまだに健在であった。園田とは七年ほどまえ砂原利で再会してから久しぶりである。園田は、六十五歳で退職して再雇用となりグアムの日本語学校長として赴任した。六十七歳となっていた。

「ハーイ輝美さん、お久しぶり元気ですね」

「園田先生こそ、お元気で」

 輝美は、国際空港の出口に迎えに来てくれていた園田とハグした。 

「こちらは、同じ店の萌さんよ」

「ようこそ、グアムへ」園田の出した手を萌は握りしめた。

 駐車場まで歩き園田のシルバーセダンのトランクに荷物をいれて、ホテルまで送ってもらう。右手に海を見ながらヤシ並木の道路を南下していく。

「そんなに混んでなかったからか入国審査で結構聞かれたよ」

「ふふっ、ママは日本人に見えなかったのでしょうよ」

 萌の言葉に、輝美はそうかなと思った。今回の旅行に際し、短い頭髪を茶色に染めてカーリーヘアにした。これにうすい色の縁なしサングラスをかければ、随分と若返るのだ。

「予定ですが、あさって知事の私的パーテイがあります。選挙の資金集めのパーテイだから、比較的自由に参加できます。私も申し込んでおきましたから、ご一緒しましょう」

「ありがとうございます。楽しい滞在ができそうです」

「グアムは、三分の一が米軍の軍用地ですからね。日本からの観光も重要な産業ですが、なんといっても軍事基地ですよ。それにアメリカの準州ですから、ここは原則アメリカですね」

「でも、ブーゲンビリアがあちこちに咲いててきれい、あっ、バナナもなっている。まったりとしてのんびり過ごせそう」

 萌が、車窓から移りゆく景色を眺め楽しげに言う。

「南海のリゾートに来た気がするでしょう、パパイヤやパンの木も自生してます。この海のむこうはフィリピンですよ。時に道路に鶏が出てきますが、すべて野生の鶏です」

「へーっ、面白そう」

 三十分も走ると、セダンは海を背景にして白くそびえるベイリゾート・ホテルのエントランスへ滑り込んだ。

ボーイがすぐに近づいてきて、うやうやしくドアを開けてくれる。

 園田が、トランクから輝美たちの荷物を降ろして、ボーイに引き継いだ。

「今日はゆっくり休んでください。また明朝迎えに来ます。何かあったら電話をください」

「マダムこちらへどうぞ」、ボーイは日本語であった。

 輝美と萌が七階の部屋へ入り、ソファーに腰を降ろすと、カーテンの向こうには光る海が見え、すぐ下にはヤシの林の中に、ヒョウタンの形をしたプールなどがいくつもあり水もきらめいている。白、赤、色とりどりのビーチパラソルが開き、水着の若者も見える。四時過ぎでまだまだサンセットには間があった。 

「ママ、プールにでましょうよ」

 萌は、旅行バッグの中から衣類を取りだして、ハンガーにかけだした。

「これ、こんど旅行で着たいと無理して買ってきたんです。これを着てデッキ・チエアーに寝そべって、夕日を眺めるのが夢だった」

 萌はビキニの上下を取りだして広げて見せた。赤紫のふちに青いプリント模様が入ってる。

「やはり、若さだけには勝てないね。私も持ってきたけど、すごくレトロよ。着れるかな」

 輝美の広げたのは、レオタード様の水着でメタリックに紺のストライプが入っていた。見ようによっては派手であった。

「ママらしくてステキよ。ほんとにストライプが粋だわ。旅の恥は…で、着て出ましょうよ。ママ、先にシャワー室を借りるね」

 二人は水着に着替えた。それぞれアロハシャツ、白のビーチウエアを羽織り、首に花柄のバスタオルをかけサンダルをはいて階下へ降りて行った。

 四時を過ぎてもまだまだ明るい。輝美と萌は、プールの端をたどり、海が開けて見える処に空いていたパラソルの椅子に腰を下ろした。右手にはヤシの林が幾分傾いて茂っている。そのヤシの間に海が広がり遠くに夏の雲が湧いていた。

「ここで、横になりながら、夕暮れをむかえるって、最高だわ。映画のシーンのように」

「萌ちゃんは、肌が白くてピチピチしてるから、ロマンチックだけど、私は、たそがれ年金生活者の時間つぶしに思われるよ」

 萌の横のチエアーで背を伸ばしながら輝美がつぶやく。ゆるやかな風がほほをなぜて、低温サウナに入っているような心持である。輝美はボーイを呼んでトロピカルドリンクを二つ注文した。

「あたしとじゃなくて恋人と来たかったんじゃない。萌ちゃん、恋人はいるの」

「ううん、なかなか、これっていう男はいないわ。ママはどうなんですか」

「そうね、園田さんのことは話したよね。若いとき園田さんと同じ語学学校の講師でにくい奴がいたんだけどね。初めての男ってのは、忘れがたいね」

「へえー、珍しいですね。ママが自分を語るって……それで」

「英会話のアメリカ人講師で、五つ上でね、グレーの髪に青い眼、それだけで夢中になってね。背が高く体もしまってた」

「それで、どうなったんですか」

 萌が横向きになって乗り出すと、水色のトロピカルドリンクが二つ運ばれてきた。

「同棲して一年近く続いたんだけど、急に韓国に行って新たな仕事をするっていって去って行った。当時の韓国はまだ戦後の傷が見えててね、追いかけていく気はなかった。同棲も白い眼で見られる時代だった。その後日本に帰ってきたときに、時々会ってたんだけど」

「それで、おしまいになったのですか」

「面白い奴でね。夢中だったころ、日本人の女性は横に割れてるって信じてたっていうんだよ。まじまじ見るから、バカバカしさを通り越して爆笑だった。日本へ仕事で帰ってきたときは会ったりしたけど、その時あたしは、お水の世界にどっぷりだったからね」

「へー、ママの青春って面白い」

「萌ちゃん、ナンバーワンに美人無しって知ってる。こうみえても新宿のゼブラって店で二年目には売り上げナンバーワンを張ったよ。それから、店を出したいからって、チーママとして四か月無料見習いをして、郷里なら比較的安くで店を出せるって帰ってきたの」

 陽が傾いてきて正面から射しこんできた。顔が赤く染まり、ヨットがシルエットになって遠くに見える。

「そうだったんですか……ママちょっと水につかって冷やしてくるね」

萌が、プールの手すりにつかまって、こわごわ入って行った。しばらく水のなかで泳いだり、あおむけに寝そべって浮かんでいた。

「ママも入ったら、すごく気持ちいいよ」

と、プールの縁へ寄ってきた。

「わたしは、ふやけたビヤ樽になりたかないよ。いやだよ」

聞こえたかどうか、ややあって萌が水をしたたらせながら戻って来た。ああ気持ちいいと、バスタオルを巻いて椅子に座った。

「黒こげになって帰るかもね」輝美が飲み終わったグラスを置いた。

「着替えたときに日焼け止めを塗ったから大丈夫よ」

 萌が濡れた長い黒髪をほどき、また後ろにまとめる姿を見て、輝美は、髪も若さだと思った。百六十センチを優にこすボデイの主でもある。この若い迫力ボデイだけはいかんともしがたく負けている。

「なるほどね、ところで萌ちゃん、お水の世界に入って、今後どうするの」

「それが、はじめは興味とお金が目当てだったのだけど、まだ、なにも考えてないんです」

「わたしの場合は、気がついたらママになっていた。お前は可笑しむぜって言われてね、帰ってきて店をはじめたら、結構いい客がついて、それにパトロンもついたから、順調にやってこられたけどね。」

「可笑しむぜ、ですか……」

「美人じゃないけど捨てがたい可愛さがあるってことかな」

「ふーん、面白い人生を歩んで来たんですね」

「焼酎造りの社長の紹介で、大阪の化学薬品会社の役員を紹介されて、こっちの工場に来るときはいつも一緒で、いい人だった。バブルの時はすごくてね、冬レストランで食事してたとき、突然、毛皮のコートを買いに行こうと、食事はそこに残して、またすぐ帰ってくるからと、デパートにタクシーを飛ばしたこともあった。男の価値を金ではかる時代だったかもね。わたしを驚かすのが好きだった」

「そういう話を聞くと、夜の世界で一花咲かせてみたい気もするし……」

「でもね、巧くいくといいけど、嫌いな奴と金のために寝るってこともあり大変だよ。クラブ経営を学んでいたとき、ママが、しみじみ言ってた。好きでもない男と五万円の金のために一晩過ごすと言うのは、苦痛でしかなかったが、病気の母や弟の学費など六人の家族を養うには、大金だった。でもいやな気持は変わりなかったので、遅れて行って早く帰ろうとおもったけど、朝までネチッコかったって、でも、それに耐えるぐらいないとクラブなんてやってけないよ、趣味じゃなく金儲けだからと厳しく教えてくれた」

 海の向こうに大きな朱色の玉が沈みだした。二人ともしばらくは無言で見つめていた。アカネに焼けた雲を残して周りが紫に変わりさらに漆黒に包み込まれていく。プールサイドに灯りがともりだした。

「……しかし、奴を想うとまだかすかにうずくね。熱かった青春が返って来てあたしを満たす……」

黄昏の中にたたずんで、弾んではじけた時が暗闇に収まって行く……そろそろ食事の時間だね、いこうか。

「ママの話を聞けてよかった」

「萌ちゃん、男って勝手だからね。あいつは夢を追って……アンデイは、エージェントだったんだ……韓国の商社に就職して、コンサルタントとして東南アジアを飛び回って、さらにはイラン、エジプトに渡り、アラブの石油ブローカーのロビイスト、情報屋のような仕事をしていたのよ。マメリカ人って、世界を自分の庭のように考えていて、凄くかっこよく思えたけど、こういう男が女を不幸にするのよ。家庭に収まってくれるような奴じゃない。若い頃は、そういう彼の夢にいっしょになって燃えたのだけど……やはり、ついてく自信はなくて……けど愛しい」

 今までがつぶやきになって響く。

「萌ちゃん、これで、このお話はおしまいね。これっきりよ」

 二人は立ち上がり並んでホテルのなかへ帰っていった。

 今晩のデイナーは和洋折衷のバイキングで、にぎり寿司から焼肉、パスタとなんでもありだという。


 翌日は、昼前から園田校長の運転で島の観光へと出かけた。

 園田は、パンフレットの略図を輝美と萌に示しながら、グアムの中央部、タムニン地区を抜けて首都ハガニアを案内すると言う。グアムには先住民のチャムロ族がいたが、マゼランが十六世紀にこの島に到達してからはスペインの植民地となった。その遺跡がハガニアに数多く残っているのだと教えてくれる。

 先ず、先住民のチャモロビレッジの街並みを眺めた。水曜日の夜にはマーケットができて屋台も並ぶと言う。赤い屋根に白い壁の家々は陽光のハレーションをうけて幻想的に映えている。やや早かったがレストランで昼食となった。バーベキュー・チキンとスペアリブ、サラダにレッドライス、そして最後はトロピカルデザート。萌が、「ワーけっこう、これ重いね」と驚いていたが、どうして見事に平らげた。

 昼食をすますとアフガン砦に向かい、丘に残されたスペイン軍の大砲の横から、ハガニア市街と湾を眺望した。次にスペイン広場へいきますよと、園田が先に立ち案内する。そのあとをTシャツにジーンズの萌が続く。輝美は、二人の後をゆっくりとついて行く。スペイン広場は、芝生が敷かれ樹木の点在する広大な緑の空間であり、一帯にスペインに因んだ名跡が数あるという。

総督邸の石造りのテラスの跡にたたずみ、武器庫、簡易小屋、それに総督婦人がチョコレート・ドリンクでもてなしたとの謂れのある、チョコレートハウスを順に歩いてまわった。広場の端の少し先に坂があり、坂を上った処に現知事の公邸があった。鉄のアーチ門をとおしてアプローチに続く白亜の二階建てが見える。ホワイトハウスとも呼ばれており、一階には曲線のリズムを連ねた屋根の回廊が見えた。

「明日の夜、ここでパーテイがありますのでよろしく」

「園田先生、装いはどうするんですか。フォーマルですか」

 萌が聞いた。

「そうですね、この気候ですから。わりとラフな装いが多いですよ。ただジーパンじゃどうか。礼を失しないようにしてください。若い女性は着飾っても当然じゃないですか」

「わたしは、どうしようかね」

「ママは、その貫録でなんでも似合いますよ」

「それ、お世辞には聞こえないけど」

 ハハハ、失礼、失礼と園田が笑う。

 公邸を後にして聖母マリア聖堂などを見て広場を後にした。

帰路、三人のセダンは著名な恋人岬に立ち寄った。遠くフィリピン海を望んだ岩壁に三人が並んだ。輝美が恋には反対が付きものだね、それで悲恋となり最後は心中のパターンだねと、しんみりと述べた。

園田が、では本日はこれでホテルへ戻りますと言う。車のなかで歩き疲れた気だるさがただよう二人に、かみしめるように語り始めた。

「グアムは、先の大戦中に三年ほど日本の占領統治下にあったのですよ。その遺跡、戦争の残骸も多いけど、何となく直視できない気持ちですね。無条件降伏を知らずに、グアムのジャングルに二十八年も潜伏していた日本陸軍の兵もいました。幸い日本語学校はなんの屈託もなく日本語を教えていますが……日本人は、グアムはリゾート地でいやしの天国みたいに思ってますが、どうして侵略と戦争の歴史で染められています。現在もアメリカの準州であり、東アジアの軍事拠点の中心ですし……歴史は過去ですが……見ようによっては、厄介ですね」

輝美も萌もなるほど、そんなもんかとうなづくが、グアムのこの気候はリゾート地にしか感じられない。

「明日は、夕方の六時ごろに迎えに来ますからよろしく」

 ホテルのアプローチで二人はセダンを降りた。


 一夜明けて、ゆっくりと過ごしていたら、はや午後となり萌がそわそわしだした。ドレスを三つほど取りだして、どれにしようかなと、鏡に向かって相談し始めた。

「萌ちゃんは若さだけで十分だよ」輝美が後ろに立って言う。

「ママ、サツマには社交界ってないじゃないですか。日本でもまだまだ定着してない。今夜は本場の雰囲気を味わえるチャンスなのよ」

「わかるその気持ち、学生の頃、アメリカン・スクールのダンスパーテイに潜り込んだことがあって、壁の花だったけど、若い男の子同士が一人の女性をめぐって争ってる場面にでくわしたの。二人の会話は、速くてよく分からなかったけれど、雰囲気で分かった。かっこいい男の子が、それこそ互いに鼻が触れ合わんばかりに、相手を睨み合って罵った。お前は彼女にふさわしくない、彼女から手を引けってことらしかった。取り合いになってる女の子も皆といっしょになって成り行きを見守ってる……ほんと映画の一シーンみたいで、おなじ空気を吸っているとは思えなかった。その女の子にとっては勲章なのよ」

「そう、やはり、若いうちに花になりたい」

 萌が、やっぱ、これにしようと薄い藤色のドレスを当ててみていたが、決めたように着替えだした。もう少し若さを出したいな、とスーツケースのポーチの中からジルコンのへアバンドをとりだした。

 真ん中で分け、まとめた黒髪に銀色の細いヘアバンドが光った。

「萌ちゃん、その三つ光ってるのは、まさかダイア?」

「いやだ、ママ」萌は少しはにかんだ。

「萌ちゃん、そのまさか、なんだけど。萌ちゃん、家計を助けたいといって応募してきたよね」

「いやだママ、この世界でホントのことをいう人はいないって、ママは何時もいってるじゃない」

 ヒールの高いサンダルを履いて立つと、萌はますますすらっとして、黒髪の桂冠が光るさまは、ちょっとしたミューズ(女神)の誕生であった。

んん、若いって装いにも結構時間がかかるものだね、わたしは、地でいけるからさ。輝美は、独り言のようにいうと萌から離れてフォーマルなパンツスーツに袖を通しだした。


 園田に続いて受付で署名をすると、「こんばんは、ようこそ」と、日本語であいさつされた。園田が寄付金の封筒を差し出すと、タンキュウ、といったように聞き取れた。

 三人がリビングのパーテイ会場に入ると、黄色のワイシャツにノーネクタイの知事が、前に出てスピーチを行っていた。客の間をぬって白い調理服を着たボーイがカクテルを運んでくる。三人とも水色のドリンクを手にして、トロピカルな花とオードブルやフルーツで飾られているメインテーブルのやや後ろにたたずんだ。しばらくすると知事のスピーチが拍手の中で終わって、次は選挙対策本部長のスピーチだという。スピーチを聞き流しながら、輝美は美味しそうなオードブルをつまみ出した。

「あとで、知事が回ってきますからその時紹介しますね」

 園田も手を付けながら輝美と萌にささやく。だんだんと混んできて、四十人ほどでリビングはいっぱいになった。

スピーチが拍手で終わり会場がざわめきだした。知事がこまめに動き出した。それぞれに語りかけ、ハグしたり握手をしたりして来客の中に入りこんでくる。園田は、近くにいた知り合いと話しだした。輝美は二杯目のトロピカルカクテルを手に取った。萌はにこやかな笑顔をふりまき周囲を見回している。

 人の波が割れて園田の前に知事が現れた。

「園田さん。きょうはありがとう」園田に向かって握手をする。

「知事さん、おかげさまで語学学校は順調です」とお礼を述べた。

「あっ、知事さん、こちら日本からのお客さんです。マダム、ホクシンとパートナーのモエさんです」

「ああ、ようこそ。ガバナーのギルガムです」

 四角張っているが丸い厚みのある顔の知事は、がっしりしていて輝美に手を差し出した。二、三度大きく腕をシェークすると、次に萌に差し出した。萌は右手を差し出すと、軽く両膝を曲げ腰を落として優雅にうなずく。

「知事に、お会いできて光栄です」

「いや、こんな素敵な女性と出会えるとは、今晩のパーテイは大成功ですね」

 知事が笑顔をつくり、まじまじと萌を見つめだした。

「知事、こちらのお二人は、グアムにパブを出せないかと、このたび日本の九州から来られたのです」横から園田が説明した。

「それは、いい。どんどん進出してください。期待してますし私も応援します」

「ありがとうございます。その時はお世話になります」輝美が答えた。

「ではなごり惜しいですが、またのちほど」

 知事は、二人に笑みを残すと隣のグループヘ移っていった。

知事が二人から離れると、待ち構えたように若い男性が、グラスを持って萌に近づいてきた。ブロンドの髪にグレイの目を持った、アメリカ人のようであった。

「グアムは、はじめてですか。流れるようなバイオレットのドレスに包まれた貴女は、この澄み切ったグアムの海から生まれ出たようですね」

「あら、グアムのミューズをご存知なかったのですか」

 歯の浮くような社交会話を隣で聞いていた輝美は、萌の育ちは並み以上じゃないかと思いなおしていた。簡単な英語を使いこなし、なかなか粋で、どうに入っている。それにしても萌の若さだけはうらやましい、若さだけは帰ってこない、あたしにもあいつと、ああいう弾んだときがあった。輝美はカクテルグラスを空けテーブルに置いた。

 若い二人は、テラスのガラス戸を開けて、寄り添うように庭の茂みへと消えて行った。


          3

深見は、三週間で九十枚の「ホテルワーフ グアムの荒波」を書き上げた。先ずは輝美ママに見てもらおうと、携帯で連絡を取るが、何度かけても「只今、通話できません」としか、返ってこなかった。どうしたのかと、砂原利まで出かけていくと――八月三日までの一週間夏季休暇です――との張り紙がしてあった。短編を書き上げたことを携帯メールに入力してセンター預かりにした。

 五日後に、やっとメールでの返信が入った。原稿を見たいから、別記住所に送付してくれとのことで、読んだらまた連絡するとのことである。

それから一週間経った盂蘭盆の直後に「読了しました。都合のいい時に、ご足労ねがいたし」のメールが入った。

その日の午後七時過ぎに深見は天祥通りを砂原利へと向かっていた。

 小説を書き上げた後は、フィクションの世界から現実に舞い戻ってきて奇妙なものである。新聞を発行した後よりも、著者としての責務が募っていた。似て非なるかたまり、自分の分身を産み落としたような面持ちがする。書いたぞ、という自負は、改めて読み直してみると、すぐに後悔へと色あせていく。意図するところを十分に書き込んだつもりだったが、再読すると云いつくしたとは思われない。まだまだ書き足らないのである。が、くだくだと一人称の愚痴めいたことを無限に書き綴れば、読む方は退屈としかいいようがない。かえって焦点がボケてしまう。はじめての小説を書き終わっての虚脱感に打ちのめされていた。

 角の花屋のショーケースには、いつものように胡蝶蘭などが咲き誇っていたが、心は花の上を素通りしていく。五階建てのビルを見上げて、はやる心と気後れとを抱えながら地下へと降りた。通路の突き当りにいるチーターは余所を見ていてつれなかった。砂漠のオアシス、グリーン色の大振りのドアを引いた。

「いらっしゃーい」ややかすれたアルトの声が響いた。

「しばらく、グアムで遊んできたの」 

 ビールでいい、といいつつグラスをだす。ママは、前より精悍に見えた。

「少し、焼けたんじゃない」

「そうかしら、あのね、グアムは軍事基地なのね。それで小説のネタになったこの一件ね、落着したみたいよ。設計士の口座に、七百三十五万円の設計代金が振り込まれたみたいよ」

「ええつ本当、じゃ現実に解決したんだ。どうして?」

「それで二か月前に出た、この新聞のニュースを見た」

 輝美ママがカウンターの下から、一枚の新聞を取りだした。

――沖縄海兵隊、グアム移転費復活へ――

 小さな見出しが目に飛び込んでくる。日付をみると社を辞めてからの記事であった。

――二年連続で凍結される予定のグアムの移転費が、米議会で復活することになった。日本政府も約半分を負担することとなっている――

ネットでは、収録されていなかったのか見当たらなかった。ベタ扱いの八行記事と言うことは、ニュースとしてのバリューがなかったということだろう。いや、重要な記事を事情により、かえってベタあつかいにして、さらっと流すのはブン屋の常套手段でもある。くそー見落としたかと、唇をかむ思いであった。

「でね、グアムで聞いたところでは、あそこは外国でしょ、工事の中断と復活は日常のことだそうよ。ホテルワーフの軍港では、米軍発注、管理としてちゃんと工事が始まっていたわ……わたしものどが渇いた、ビールをもらうわね」

 ポンと音がして、オリオンの中瓶の栓が抜かれた。深見は、ビール瓶の口から流れ出る冷気を見つめながら固まっていた。

「でね、本論にもどろうか、深見君の小説だけど、はっきりいって面白くない。新聞でもわかるとおり、そもそも今回の件は、米国の予算の都合だったと考えられないかしら、その大波に翻弄された結果だと。その巨大な敵を相手にして単身で乗りこみ、設計の事実をホームページでばらすというのは一種の脅しだけど、巨大機構を相手に立ち回りが過ぎる気がする。無理が見え見えで、かえってチンケすぎる気がするのね。ハードボイルドに仕立てたとしても、中途半端すぎるよ。巨大な力に弱小者が力で対抗するって、カッコと意気込みは買えるけど、よほどうまくさばかないと。現実には蚊がさしたほどもなく、無視されるか簡単に潰されるかだわよ。どうぞどこにでも訴えてください、ただし、訴える相手を間違えないようにって、その辺りが落ちじゃない。それに読者層をどこに設定してるのかも、わからない。分別の付いた大人か、まだ発展途上の若者なのか、男女どちらなのか、まあ著者は自分が書きたいように書くんだけど、ホントにそれでいいかも一度は考えなきゃ。作文じゃなくて、読者が読むに値する小説を書かなきゃ。お金をだして買ってもらうものでしょ小説って……」

 ママは一気にいうと、グラスを飲み干した。

「次に、作者が何を考えて何を書きたいのかが、全然わからない。ただ活字を並べているって感じで、読む者を引き込まない。新聞の記事を単にふんふんって読んでるみたいよ。作者の視点のブレもあるから、読む者がこんがらかる。説明もくどすぎて、ハードボイルにしてはスピード感がない。ああ、言うの疲れた……要するに、読んでもらうことは、読者の貴重な時間を泥棒することだから……ここんとこ、わかる? この小説は破綻していると言われるんじゃないかとか、恐れてては小説は書けないよ。破綻があっても当然じゃない、それぐらいでないと」

 いろいろ迷っていることをズバリ指摘されると、さすがにカチンとくる。

「ママ、そこまで言うと俺が小説家として能無しってことじゃないか」

「あら、そんな言葉もあったようね」

しゃあしゃあと輝美は眼を合わさずに言う。さすがに深見が切れた。

「わかった、分かった、ママもういい。書き直せばいいんだろ、書き直せば、もうやめてくれ」

 深見は二千円をポケットから出して、カウンターを立った。ドアを出ようとするとき、入ってこようとする萌とかち合った。あら、ごめんなさいと萌が脇へ引いた。深見は萌を無視して憮然として出て行った。

また喧嘩してしまったか、デスクとやったときの激情が戻ってきていた。そして、後頭部が激しく興奮して高速回転の空回りで、オーバーヒート状態になり止めようがない。

 アパートに帰ると、パソコンのスイッチをいれ、立ち上がるのももどかしく、小説の題名を打ち直した。『ホテルワーフ グアムの高波』、荒波にのまれるのではなくて、高波をいかにしてサーフィンで上手く乗りこなすか、じゅっくりと味わえる小説にしようと思ったのだ。題名を変えると不思議なもので、悔しさの波の中から題にそったストーリーが、かすかに浮かびあがってきた。


 十日の間、書き直しに没頭した。

 朝は、アンパンかクリームパンにコーヒーか牛乳、昼はほとんどインスタントラーメン、時に弁当屋ののり弁、夜はノンアルコールビールに烏賊や焼き鳥のかんづめ、コロッケなど、お口直しにニュースを見る。考え続けて、深夜、寝ていて突然に一節が浮かぶ。と、飛び起きてメモをとる。冴えわたっているときは、そのままパソコンに向かう。いつしか作中の人物、背景と一体化していった。

 書くことは精神力以上に体力であった。眼から肩、そして腰へと疲労が幾重にも積み重なって行く。へとへとになり、きしむ体をベットに投げると、まだ生きていた精神が高まり文章が浮かんでくる。ふたたび体を引きずりだしてパソコンに向かう……パソコンの周りは本や資料が重なり山となる。それをひっくり返して必要なものをさがす。

 身体がベトついて来て思い出したように風呂に入ると、バスタブに垢が浮き髭が随分と延びていた。洗面所の鏡に映るやつれた顔をみて、作家らしくなったじゃないか、とうそぶいた。

 十日目に、これ以上は書けないとパソコンを離れた。書き直しが一区切りしたのだ。書くときは書くんだザマを見ろと読みかえすと、再び才能のなさに、そこはかとなく打ちのめされる。だが、今の力ではこれ以上は書けない、破綻していると言われても激情をそそいだ分身である。原稿を細かく推敲していく。四度推敲すると、これ以上はかえって文章をこわすと、推敲の気が忽然と消えて行った。

パソコンから打ち出して、読めるなら読んでみろと輝美ママに即郵送した。憑いたものが落ちたように翌日はこんこんと眠り、脱力感からしだいに自堕落な生活に帰っていく。幾分元気を取り戻すと、ぽっかりと空いた時間をうめるべく外に出た。寿司を食ってビールを飲みパチンコ屋をのぞいてみた。スロットの台に向かうといつしか夢中になった。九千円めを注ぎ込んだ時にフラグがたってビッグボーナスを引いた。おめでとうのランプが輝く台の上の回転数をみると、四・四・四が点滅していた。こいつ、まだしつこくつきまとってくるのか。苦笑いとなった。八連荘をして三万三千円を換金した。

 しばらくは焼酎スピリットで癒しの日々を送ったが、癒されてくると、その分だけまだ書き足りなく思えてくる。あらたな不満が少しずつ息を吹き返してくる。まあいいか……次作への挑戦意欲がおおいかぶさってきて、ふつふつと気がみなぎってくる。次は、より良いものが書けるに違いない。自然と足がブック・コンビニへと向かった。

棚から無造作に文庫本を引出しレジに出すと、評論に短歌集、ライトノベルにポルノ、ミステリーにヤオイなど、十冊を超えた。大事にそれらを抱えて帰ると手当たり次第に読み漁る。また、書きたいものが形をともなって見えてくる。大判のノートを取りだして、浮かんでくるイメージとはずせない文章を書きとめだした。


 ひと月以上たって秋もたけなわを過ぎていく。

輝美ママからは、なしのつぶてであった。そんな昼過ぎに一通の郵便が届いた。差出元は三國小説協会とある。いぶかしげに封を切って手紙を広げた。

  ――拝啓、ますますご健筆のこととお喜び申し上げます。さて、今回ご応募いただいた貴作『ホテルワーフ グアムの高波』につきましては、応募総数四百三十一作のなかから、一次選考三十四作に残りましたのでお知らせします。二次で十作品、最終候補で四作品にしぼられます。最終候補になった場合はお知らせしますが、それ以外にはお知らせ致しませんので、あらかじめご了承願います。敬具――

うおーっと、驚きがでた。なんなんだ、これは! 

 ややあって、輝美ママなのだと、がてんした。一呼吸、二呼吸……深呼吸をして、さっそく携帯のボタンを押した。ツルー、ツルー、ツルーなかなか出ない。一旦、きって五分ほどしてまたかけた。ツルー、ツルー、ツルー、ブッと音がした。

「ママさん、ご無沙汰いたしてます、深見です」

「しばらく、ご無沙汰ね」

「ママ、三國小説賞の一次候補に残ったって通知がありました」

「ああそれ、推薦状を着けて送ったからね。よかったじゃない」

「よかったも何も、ママからなにも連絡がないから……いや、ありがとうございました」

 深見は携帯を耳に当てたまま、深々と礼をした。

「近いうちにでてくれば、八時前の客としてね……」

 意外に素っ気なく携帯は切れた。だが深見は、今晩にでもいかねばと決めた。


 七時過ぎは、どっぷりと暮れていたが、天翔通りの街灯はほんのりと赤らんでいた。角のガラス・ウインドウの中で、胡蝶蘭が白く並んで揺らぎ深見にささやきかけてくる。五階建のビルも今宵は大きく両手をひろげて、ようこそと出迎えてくれた。

ドアを開けて、いらっしゃいの声に迎えられカウンターに座る。ビールのステアグラスが目の前に据えられる。

「まず、乾杯しましょう」

ママとグラスを合わす。チーンと澄んだ響きが広がっていく。

「小さな一歩でも進んだからいいじゃない。二次はなかなか難しいと思うけど」

「うん、これで小説が書ける気がしてきた。どんどん書くよ」

「ヘタウマかな。今度のは文章に熱気がこもってた。自分は、リアリズムじゃなく、ファンタジー作家だってわかった? 昔の話だけどね、某民族学者が日本各地の伝承文学を集めていて、ある老人に聞いた実話だというのだけど、極貧で食っていけなくて、自分の息子と娘からひもじくて、ひもじくて生きる望み気力もないから、、お父ちゃん私たちを殺して楽にしてと言われた。それで、斧でこどもの首を落としたという話を書き残しているの。息子と娘は痛くなくてよく切れるようにと、最後の力で自分たちで斧を研いだという。深見さんは、そういう話に耐えられる精神力を持ってる? また、庭の鶏を自身でつぶして、ごちそうが造れ平気でうまいと食べられる? 今の自分に書けるものでしか勝負できないんじゃない。そうしたらファンタジーになるんじゃない。ハードボイルドを気どったとしても、しようがないよ。まだ本質が違うんだから。ファンタジー・ロマンよ、その方が女性も読める。ただ、商業出版となると荒馬に飛び乗る離れ業も必要かもね」

 ママが、ピーナツとアーモンド、黒糖のキューブを小皿に出した。

「でも、知事主催のパーテイに美人の日本女性がもぐりこみ、パーテイの取材に来ていた米軍の若い報道官をとりこにして、彼に設計の権利の買い取り交渉を迫るというのは、そんなのありかと思わせて結構面白いと思うわ。どこで知恵をしいれたの」

「ふふ、どこからでしょうかね……それはママは知ってるはずでしょう。だけどママ、この設計の事件はホントにあったこと?」

「そこをいっちゃ、お終いてとこ。言ったでしょ、この夜の世界で本当のことを言う人はいないって、ただ、漁業施設ってのは真っ赤な嘘で、コンクリート造りの堅固な建物は、軍事施設となるようだけど。予算獲得の必要から急いで民間に設計させたもののようね」

「ママ、それホント?」

「それもウソかもよ。嘘であった方がいいこともある。この世は戯画に満ちてる、欺瞞だ……といってもいいかしら」

「なるほど、そうだった」

 いままで、ブン屋として事件を記事にして載せてきたのだが、真実にどれだけ迫ってたのだろうか、ふと考えた。一面の事実を切り取ってたとは思うのだが……。時計を見ると八時に近くなっていた。

「ママ、ありがとう今日はこの辺で、ありがとう」

 再度グラスをママに捧げて残っていたビールを飲みほした。


 秋も去って行き師走の喧騒に入るころであった。

 深見と輝美ママと萌が、砂原利のボックス席に腰掛けていた。六時半から、「これからの前途を祝して」と三人のパーテイを開いてくれたのだ。結局、三國小説賞は一次止まりであったが、新人に期待するとして地元の小説雑誌の表紙を飾ったのである。三國小説賞一次候補作『ホテルワーフ グアムの高波』と紹介され全文が掲載されたのである。三國小説賞は中国、四国、九州の三地域が、東京、関西に対抗して設立した、地域の作家を育てる賞であり、新人「深見みなみ」は国際的な時代を見すえて地域で幅広く活動する可能性を秘めているとの評を得た。第一歩としては大成功といえよう。

「賞を取り売れる作家を目指して、カンパーイ」

 ママが音頭を取り、深見と萌もワインのグラスを掲げた。

「いや、ママに鍛えられたおかげで小説が書けた。もう次の長編を書き始めたよ」

「ふふっ、小説はある意味で読者との対話かもしれないし、作者は一人で書くと思うけど、結局、周りや環境が書かせるんではない? どう、みなみさん、わたしが書かせてるって思う?」

「それについては、コメントできません」

 ちょっと考えたのちにきっぱりというと萌が笑った。

 あの時萌から、何かあったのと電話がなかったら、グアムの高波は最後まで完成しなかっただろう、そのことはママは当然に知っている? いや、ママが萌に電話させたのかもしれない。

「小説を書いて初めて世の中は神秘と謎に満ちてるって、わかりましたよ」

 みんな秘めてて、みんないい、そこに社会のいや人生の奥深さが出てくる。それをすこしでもヒモ解くのが小説だと考え出している。

 さらにブン屋根性もまだ少しは残っていて、苦労していくらかの情報を仕入れた。

萌は、祖父の遺産を少なからず相続している。

その萌から聞いたことだが、ママは文学少女で、若き日に文学賞の最終選考に残ったことがある。さらに砂原利のボトルキープの棚は、二重になっていて、前の棚をスライドさせれば見えない後ろの棚が現われ、中には本が詰まっている。その中で一番のお気に入りは某版画家の表紙絵と挿絵の入った耽美主義者の作品で、表紙や挿絵に描かれた裸のふくよかな菩薩を自分になぞらえているとのことである。

 アンデイ……ママのはじめてで忘れえぬ人の職業はエージェントだったと言う。それが、いっしょになれない最大の理由だったのだと。アンデイが韓国から日本へ帰って来てママと会ったあとに、ママのアパートに外事警察が訪ねて来たのである。アンデイはダブル・エージエント、二重スパイの疑いがあると言う。彼との関係や知っていることを根掘り葉掘り聞かれた。そして日本へ帰ってきたときには、必ず連絡してくれと厳命された。

しかし、ママにはアンデイは、愛しいアンデイでしかなかった。それで目立たないように東京を引き払って郷里に帰ってきて、いまだに彼との再会を待ち望んでいるのだ。いつまでも待っているから、いつかは帰ってきてとの手紙を毎年いくつも出した。

東京などのメガポリスでは、エージェントなどに出くわすことは、日常生活の一端でもあろう。いや、地方の日常でもあるかもしれぬ……酔いのまわる頭が物憂げにつぶやく。やはり現実世界は戯画的だ。どっぷり戯画のなかに浸かる面白さが分かってきたぞ……と。

 深見は酔いの目でママを見て萌を見て、そして口を開いた。     「ママ、一度やってみたかったのだけど、あの砂漠の薔薇にアルコールをかけて火を着けたら綺麗じゃないかな、燃える薔薇って神秘的じゃない、今やってみない」

「そう、だけど……巧くいくかしら」

 輝美ママはちょっと考えたが、そうね火遊びをしてみようか、とのってきた。

 テーブルに、皿に乗った飴色の薔薇を出した。うえから黒糖酒の四十五度をふりかける。ライターで火を着けた。ボーッと青白い炎があがった。うわーっ、きれい、と萌が声を上げる。一瞬の希望をともして薔薇は再び静まり返った。

何か願い事をした、ママがポツンと言った。

特に、と否定したが想いはすでに出来上がっていた。

――砂原利倶楽部、ここは俺一人の記者クラブいや小説クラブだ。ここから社会派の心に残る作品が生み出されていく――


十二月もあと二日と少なくなり長編が三百枚を超えた。書き淀みながらも少しずつ前へと進んでいる。

「世の中は常に戯画に満ちている」が俺の信条になった。だから楽しいのだ。数字のマジックに捕らわれていたのが、いつしか、四・四・四をヨシ、ヨシ、ヨシ、やるぞーと読めるようになってきた。

社会の公器を自認する新聞は、表層だけに光を当てている。対して小説は、社会の構造と人の心裏の奥深くまでを自由にえぐり取ることができる。だから書くのだ。

 砂原利倶楽部、俺はサハリと名付けたママの奥底を理解している……いやこれは真実であるはずだ。

ひょうきんな顔をして倶楽部のドアの横に座るチーターは、帰らぬであろうアンデイを、永遠に待ちつづけるママの姿なのだ。チーターの上目遣いは、砂原利の番をしているのではなくて、疲れてもなお待ちつづける憂いに満ち、それでも男の帰りを信じている。

砂漠に咲いた枯れた薔薇は、アラブにいたアンデイからの唯一の贈り物であったのだ。そして、その後のアンデイの消息はわからない……。

まえに見たスパイ映画が鮮明になって現実にかぶさってくる。

部下の優秀な諜報員の任務遂行と無事帰還を祈って待ち、焦燥する女ボス……女は男を待つことで愛を高め、待つことに人生を賭けるのか。一人芝居のヒロインとなって、セピア色に焼けた想い出のなかに入りこみ、純粋な思いと厳しい現実を織り交ぜながら演技を続け、生きる心の糧として永遠に保ち続けていくのか。

それが、ママのこれまでの人生を賭けて紡ぎだした現実小説なのだろう……ママ、もう思い切れば……。残酷かもしれないが、その気持ちを込めて薔薇に送り火を着けたのだが、いや違う、その前に、一瞬でも薔薇として、本来の花の光りを咲かせてみたかった……?。

待ちわびて固まりつつも、秘めた意思を失わない砂漠の薔薇、送り火の願いはどこまで届いたのか。ママもわかってる。分かってるのだが……もうよそう、いつか小説に、その想いをありったけ書いてやる……。


                                                      (本作品は創作である)


#創作大賞2023  

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?