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【小説】まどろみのなかへ

彼女の艶やかな髪の匂いを嗅いでいると、まどろみの中へ溶け込んでゆくような浮遊状態に陥ってしまう。安心し切った緩やかな吐息。隣り合う僕らの安らぎは、何万年も前から続いているような気がした。
車窓の風景はいつまで経っても、どこまで行っても、ビルと戸建て住居の皮膜に覆われた夜景が広がっていた。夜の闇は暗かった。ひとつひとつの光の粒は、それぞれの人間の持つ、それぞれの人生の灯がともっている。列車の振動を背中に感じながら、静かに目を閉じて、まどろみの中へ沈んでゆく。

浜辺の砂を踏みしめる音が近づいてきて、ぼんやりと目を覚ました。褐色眩しい海パン男が、街角で親友に出会ったかのような屈託なき笑顔をして近づいてきた。
列車の窓を叩きながら、何かを訴えているようだが、何を言っているのかわからなかった。
眼前には見渡す限りコバルトブルーの海が広がっている。海はあまりにも鮮やかだった。
「さあ、早く出ておいでよ。そこに海があるんだから」
海パンがジェスチャーをしながら、僕を誘い出そうとしているように見える。
隣の席で眠っていたはずの彼女の姿はどこにも見当たらなかった。この海パンの笑顔に誘われて、先に行ってしまったのだろうと疑いもなく思った。後を追うように、僕も車外へと出てみることにした。
列車から一歩降り立つと、真っ白な砂浜に革靴の先端が浅く沈んだ。8月の太陽が容赦なく照りつけている。「ここはどこですか?」
海パンに尋ねると、くしゃくしゃになった笑顔で、
「パラダイスへようこそ」と胸を張った。
「パラダイス?彼女はどこでしょうか?」
「ビキニに着替えて、今頃はシャチの上なのだろうか」
「シャチって?あの鯱ですか?シャチの上?」
「行ってみればわかるさ」
海パンに促されて海の方へ並んで歩いた。
「あなたはいったい…誰ですか?」
「良い質問だ。海パン…とだけ名乗っておこうか」
褐色に日焼けした顔から覗く歯は黄色い。
「魚に虎と書いてシャチと読む。海のギャングと言われているが、その意味わかる?」と海パン。
「さあ?文字通り、激しく獰猛ってことでしょうか?」
「君はなかなか見込みがあるよ。物事は素直な目で見なくちゃならん。うがった見方をして、わざわざ見当はずれなことを言う輩の実に多いことか」
「つまり、こう解釈できる。シャチの上にいる彼女は大変に危険である?」
「その通り。水族館にいるシャチとは違う。例えばオフィスで働くリーマンとアマゾン奥地の原住民とを同列にみなすことはできないだろう。根っこから違うんだ」
「だったら大変じゃないか!早く助けに行かないと!」「まあ、そう慌てなさんな。それにしても、虎にしてみりゃあ迷惑な話だよ。虎は森のギャングなんて言われ方はしない。孤高なる森の王者さ。君もそう思わない?」「それ、今話さなきゃならないことですか」
「もちろんだね。俺は断然、虎の擁護に回るさ。タイガーバームのお世話になってるし。それに阪神ファンなんだ」
「タイガーバームって何年か前に販売中止になったあの?阪神ファンって」
「タイガーバームがいい弛緩剤になるんだよ。おかげで気持ちの方も緩んじゃってさあ。最近じゃ阪神の応援にも身が入らない。ま、今シーズンは弱いから余計にね」
「それって、タイガーバームのせいなんですか?」
「はっきりしたことはわからないけどね。筋肉痛は確かにやわらぐけど…アソコの方も弛緩してしまって勃起障害になったというか。それで販売中止になったのかな?」
「知りませんよ、そんなこと。それより早く彼女を探さないと!」
「その心配は無用さ。彼女ならもうシャチを手懐けているよ。シャチに喰われたんだけど、どうやら彼女自身がシャチになったみたいなんだ」
「シャチになった?言っている意味がわからない。どういうことですか?」
海水面から勢いよく飛び出したのは、体長10メートルはゆうに越える赤色のシャチだった。彼女は赤いワンピースがよく似合うエレガントな女性だ。今日もお気に入りの服を着て二人でお出掛けしていた帰りだったのだ。
ふたりでショッピングして、少しだけ背伸びしてフレンチへ行って…
赤色のシャチは大きな飛沫を上げて海面から飛び出すと、そのまま宙に浮かんだまま落ちることなく、ゆっくりと水平移動をはじめた。空に浮かんだまま海の彼方へ行こうとしている。
「待って!行っちゃダメだ!」
海パンがそっと僕の肩に手を置いて言った。
「黙って行かせてやりな。彼女には彼女の道がある。君にも君の道があるのと同じだよ。一度っきりの人生、自分がやりたいことをしなけりゃ必ず後悔するだろう。それに…」
「それに何ですか?」
「それに彼女はもう人間の言葉がわからなくなっている。あの澄んだ目を見てみろ。全ての重荷から解放された目だ。案外、君がその重荷だったのかもしれないがね」
「そんなはずはありませんよ。来月、結婚する予定だったんだ!」
「言動より行動。行動こそが真実なことくらい、わかり切ったことじゃないか。彼女は彼女の意思で海の彼方へ行こうとしている」
「止める方法はありませんか?今すぐやめさせなきゃ!彼女は僕のフィアンセなんだ!」
「止める方法は…なくもないんだけどね」
「早く教えてください!」
「そら、そこの鉾でひと突きして…強制的に撃ち落とすのが最適解だろう」
「馬鹿言わないでください!どこの世界にフィアンセを撃ち落とす人間がいるんですか!」
「だったらそこで指を咥えて、見送ってやるまでのことだね」
「他に方法はないんですか?」
赤色のシャチは優雅にどんどん遠ざかってゆく。気づけば陽が傾いて、鮮やかな夕焼け空。夕焼け空がこんなにもピンク色だったなんて…生まれてきて初めて知った空。ピンク色の空にグラデーションさながら、赤色のシャチが溶け込んでゆく。
「カウボーイみたいに、投げ縄で仕留めてみるか」
「その手がありましたね!海パンさん、名案です」

僕は知らなかった。自分がこんなに投げ縄が得意だったなんて。こんなに思い通りに縄が操れるなんて、僕はこれまで生きてきた人生の中で、不覚にも一度も気づかなかった。投げ縄を投げたのが今日初めてだったとしても、あまりにも鈍感だった。
「よし、かかった!」
大切なフィアンセの彼女を逃すわけには行かない。
上手く尾びれに引っ掛けることはできたが、さすがに体長10メートルを超す巨体を止めることは簡単ではなかった。浜辺から波打ち際の方へジリジリと引っ張られてゆく。
「海パンさん!手伝ってもらっていいですか。一緒に縄を引っ張ってください」
「嫌だね」
「なぜです?」
「未練がましい男ほど見苦しいものはない。これ以上は見ていられないんだよ。男は黙って去る者追わず。それが美学じゃないの」
「彼女の意思なのかどうかも、まだわからないでしょう?赤色のシャチが彼女なのかもわからないけど、とにかく今は止めないと」
すると、僕の後ろから女の乾いた笑い声が。振り返るとそこには、真っ赤なワンピースを着た彼女が立っているのだった。
「何してるの?」
「シャチを止めようかと…」
「それで、止まったの?」
「いや、海の方へ引きずられているところだよ」
「まあ、大変」

「海パンさん!早く手伝ってくださいよ!そろそろ限界です」
見回すと、いつの間にか海パンの姿は見当たらなかった。

見渡す限りの広大な砂浜と海。

砂にでも潜らない限り、姿を消すことなどできないはずなのだが、どこにもいない。
すると次の拍子に、物凄い勢いで縄が引っ張られたのだ。シャチが尾びれの縄に気づいたようだ。宙に浮かんでいたシャチが二三跳ねたと思うと、勢いよく海の中へダイブしたのだった。手が縄に絡まって離れない。浜辺から突如として海の中深くへ引きずり込まれてゆく。

子供の頃、川で溺れそうになった経験がある。ヘドロに足を取られて、自力で這い上がることができなかったのだ。たまたま通りかかった近所の爺さんに助けてもらったことがあったのを、ぼんやりと思い出していた。

こうして死んでゆくのだろうか。

目を開けると、真っ暗な窓ガラスに自分の顔が映っている。薄っすら日焼けしたような顔。背中に感じる振動は列車の鼓動だろうか。静かな車内には僕ひとりきりだった。車窓からは夜の闇に浮かぶ粒状の光。ひとつひとつの光には、それぞれの人生の、それぞれの灯がともる。隣の座席に彼女の残り香を微かに感じた。座席はまだ温かい。まだ、そんなに遠くへは行っていないようだ。
ボクは再び、彼女を探すために立ち上がった。


(3429字)

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