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◆多いほうが正義で少ないほうが異端もしくは悪とするこの世界にそもそも正しいことなど存在しない

 国政政党であり、現政権である自民党は最も多くの議席を有する。故に、最も強く大きい権力も保有する。未だに政権奪取を声高に叫ぶ立憲民主党党首の泉代表は、次期参院選で議席数150獲得を達成しなければ党首を退任すると宣言した。世間ではこれを「事実上の退陣」であると認識されているようだ。

 多勢に無勢とはまさにこのことだ、そう思う人が大半だろうと思う。集団組織における賛否ある議論においてもそのような傾向はどこでも見られる。「みんなが白と言っているのだから白だろう」といった具合に。

 これによく似た、事象や物事の傾向を数字で測る統計もデータ分析した結果こうである、という具合に数値や割合でその傾向を説明付けることが一般的であり、どうも社会は統計によってはじき出された結果論を信じる傾向にある。そう、統計とは、何を指標に測ったかに関わらず、結果論に過ぎないのである。

 データの取り方が適正であるか否かは定かではなくても、数字を元に説明されると人は信じ込んでしまうようだ。

 じゃあ社会的少数派に対する差別はどうだろうか。LGBTなどの性的マイノリティや身体的精神的障がい者、その他、家庭環境に恵まれなかった人や前科の有無に関係なく、浮気や不倫など、過去に悪いことをした経験のある人たち、直近で言えば飲食店での迷惑行為をして問題になったご立派様たちも。中には、人並外れて何かにおいて優秀過ぎる人たちでさえも周囲から疎外されたり言われのない噂を吹聴されたりするなどといったことも往々にして起きてしまう。

 社会的に少数派に属す人たちというのは世界中に一体どれだけ存在するのだろうか。どうして彼らは差別されて生きることを強いられているのだろうか。

 近年よく聞かれるようになった「生きづらさ」の正体というのは、細かい違いでしかないことにいちいち目くじらを立てたり笑いものにしたりするという、人間であるが故の人間らしい差別意識が誰の心の内にも潜んでいるからだと私は解釈している。

 人に対してだけではなく、あらゆる生き物に対しても、あらゆる食べ物に対しても、音や臭いに対してもそうだし、人間が表現するあらゆる創作物に対しても、一般的には人によって好き嫌いがあるはずで、それ自体は特別不思議なことではない、言ってしまえば当たり前のことだとも言える。

 食べてみないと美味しいか美味しくないかわらないものを、食べずして「嫌いだ」と頑として食べない子供を見ているといつも思うのは、そのような認識をさせてしまう機会さえなければ美味しい美味しいと食べていたかもしれない。

 でもそれって統計でわかるものなのかな?と考えてみても、何を指標にデータを取るかで結果は様々になるだろうし、本当は食べられるはずのものを本人が持つ先入観によって嫌いなもの認定しているに過ぎなかったりするのではないかなと思えてならない。無論、アレルギー系の疾患云々は含まないとしてだが。

 西村ひろゆきさんが言っていたことがあったんだけど、

「泣いて許されるのは子供と美人という現実を否定する人って、どういう世界に住んでるんだろう? シンデレラが死んだ魚の目をしたおっさんだったら、妖精も助けないでしょ。」

ひろゆき/Twitter投稿より

 これはあくまでも彼本人から出た表現であって、誰もがそう思うかどうかは定かではないにしても、これを批判する意味もよくわからないものではある。

 そこで、そのツイートのコメントに「いまだにミスユニバースとかしてるけど人種差別はよくなくて容姿差別は許されてる辺り世界は最高に矛盾してるよね」と批判しいている人がいたんだけれども、思わず返信してしまったんだよね。

「差別と評価を混同しているからそう言いたくなるんじゃないの?」と。

 現実的に考えればわかりそうなものだけれども、ミスユニバースを選出するコンテストは、出場資格が平等に与えられている時点で差別ではなく、これによってグランプリに輝いた女性は人の評価によって選ばれただけで、その女性以外の参加者が差別されたからグランプリにならなかったわけではない。

 思いっきりルッキズムに偏った見方を正当化するわけではなく、人は誰でもほかの誰かを見る時に、まず見た目でどう思うかが先に来る場合が多い。イケメン、かわいい、きれい、やさしそう、怖そう、ブサイク、ブス、デブ、などとまず思うでしょ。字面で見ても直接言われるにしてもネガティブワードは気分を悪くさせるだろうけど、思う分には誰でも思っているはず。

 こういう無意識な他者への評価は誰だって常にしていること。差別としての言動や行為や態度をするから差別になるわけで、これを評価と混同してしまったら世の中差別だらけになってしまわないかね。

 で、何がそういうおかしな捉え方をさせるのかってことなんだけど、さっきのひろゆきさんに対する批判コメントのようなことを安易に言ってしまう人たちというのは、一見自分の意思や価値観から意見を言っているように見えて、実のところは大勢の人たちの声に流されていたり、一方的な先入観や偏見故にミスユニバースそれ自体を差別だと思い込んでいたりする。

 みんながどう言ってようと、自分がこう考える、自分はこう思う、とちゃんと自分の意見として言える人は、なぜそう考えるのか、なぜそう思うのかまで理由付けをして説明できる。それができない人は、「なんでそう思うの?」と問われても「なんとなく」とか「みんなそう言ってるから」としか答えられなかったりする。

 こんなことを言う人がその典型。

「みんなお前のことを嫌ってるよ」
「アイツとは関わらないほうがいいよ」

 こういうことを言う人間にその根拠を問うても意味がない。なぜなら、そう思い込ませたいだけの浅知恵でしかないから。こういうことを平気で吹聴する人間はむしろ観察対象にするといい。

 他人の意思をあたかもそうであるかのように代弁したり、とある人物をあれこれと尾ひれを付けて「ヤバいヤツ扱い」をしてアイソレーションの対象にする、所謂いじめを助長するような言動や行為ができてしまう人間は、残念ながらどこに行っても必ず存在する。私から言わせれば、露骨にそういうことができる人間もまた少数派の部類。

 銀河系には36個もの文明惑星が存在するらしいが、地球以外の文明惑星でも似たような差別が存在するんだろうか?ただでさえ地球の文明は進化が遅いと言われているわけで、人同士の差別感情はもしかすると他の文明惑星では消滅した概念の可能性もあるかもしれない。

◆もし今いじめを受けているのなら

 いじめや差別は、少なくともこの地球上ではどこでも起こり得る当たり前のことであり、きれいごとのように「いじめはやめましょう」「差別反対」などと声高に叫んでも決してなくなることはない。

 これもまた他人の意思を代弁するようなもので、いじめも差別もそういう衝動に駆られればきっと誰だってすることなんだと認識しておくことが大事ではないかね。だからと言ってこれを容認していい理由も一つもない。

 結局のところ、場の空気がどうであろうと「自分がどのポジションを選択するか」それ次第。小5の時に一度だけいじめに遭ったことがあるけれども、私は一切動じなかった。ただされるがままにクラスの複数の男子にボールをぶつけられたり避けられたり靴を隠されたりといったことはあったけれども、内心思っていたことは「ふーん、それで?」と、ただそれだけだった。

 上履きは右、外履きは左を片方ずつ隠された日から3日間、私は左右違う状態で登下校をした。その結果、3日目に帰宅した時に母親がこれに気付くも、私は「明日もこれで学校に行くよ」と言ったのを覚えている。すると、その日の学校で担任の教師が「みんなで探せ」と言い出したのだ。すると、面白いことに、私の靴を隠した本人が「先生!ありました!」とすっとぼけた様子で叫んでいた。

 その後、中学も同じクラスメイトだったものの、卒業するまで一度もいじめは起きなかったとさ、ちゃんちゃん(笑)でも、中一の時の発表会の演劇で、私をいじめられ役にしたクラスメイトのことは忘れなていない(笑)たぶん相当気に入らなかったんだろうね。私をいじめたことがあるクラスメイトが演劇で「いじめはいけません!」とか言っているのを見ていて笑わずにはいられなかった。

 もしいじめを受けているのなら、決して動じてはならない。泣いてはいけないし、学校や会社を休んでもいけない。そんなことをしたらいじめる側の行為をエスカレートさせるだけ。小中学校のうちに、動じない心構えを持つことと、それによって周りがどう変化するのかを知る経験が大切。

 「ふーん、それで?」くらいの心構えでいれば全然怖くない。何をしても動じないヤツを人は畏れるもの。本当はそのことを教育すべきなのに、逆のことを教えている。いじめはダメだとか差別はいけませんとか、言うだけでなくなるなら世の中こんなに差別は蔓延していないって話。

 ぶっちゃけいじめる側にもリスクがあるんだよってことを教えといたほうがまだいい。音声や映像なんかで記録されていたら、それは一生涯を通して足かせになる時代でもあるからね。やりたいようにさせて記録しておけばいい。

 いじめが起きているのを知っていて周りで傍観している人たちも同罪だと考える人たちがいるけれども、それは言い過ぎ。いじめることも、周りで傍観することも、止めに入ることも、本来は全て自分の意思のはずではあるものの、大抵の人たちは周囲の人たちを見て、多数派のポジションを選択しやすいのが前提としてあるから、見てるだけの人たちを責めるのはズレた物言いだと私は考える。

 止めに入ればいじめのターゲットにされるリスクしかないからね。これぞ正義だと言い張るのも違う。じゃあどうすればいいのかってことなんだけど、人をいじめて楽しんでいる人たちを黙らせるか飽きさせるか、その二択しかない。やり返すだけがすべてではないってことを知っておくといい。

 「みんな」という謎の空気は、時として悪事を見てみぬフリをするし、ウソも吐く。だから、多数派がいつも正しいなんていう思い込みは宗教思想に近いくらい何の確証もないことだったりする。

 統計も、データの取り方が適正ではないなら何の説明力もないものになるし、場合によっては人を騙す材料にだってできてしまう。

 世の中には何通りの人間がいるんだろうね?という話をすると、大体2通り~4通りに分類したがるよね。人間ってそんなに単純かね?だとしたら、これまで起きているあらゆる差別はどうしてこんなに種類が多い?と考えたら、誰の心の中にも差別感情が内在しているからではないのかね?あとは、その人の良心次第だったり価値観や先入観や偏見だったりで言動や態度が変化するんだろうけど、周りに流されやすい人ってのはどこに行っても自分の身を守ることしか考えないからね。

 自己防衛本能なんていうきれいなものではなく、そういう人間が一番質が悪いのは確かかもしれない。八方美人で誰に対しても好い顔をする人間には基本的に警戒心を緩めてはいけない。

 人と関わることでいろんな経験をして、感情が動き、記憶に刻まれ、人としての経験値が上がり、人を視る目が養われていく。

 あと、よくマスコミがやってるような「過去を蒸し返す行為」に必死になっている人間も要注意。今現在とまったく関係ない過去を蒸し返して他人の評価を下げようとする人間の心理は大方嫉妬だったりするけれども、そういうことをする人間は普段の会話から読み解くことができる。

◆銀河系の外から自分を客観視してみるといい

 銀河系には太陽のような恒星が最大4000億個も存在すると言われている。地球上の人類はたったの80億人だ。視認することさえできないくらい小さい存在、それが地球上の人間だ。それほど遠く離れた場所から自分と他人の違いなんて見分けられるはずがないでしょう。それくらい、外界から見れば人類は大差ない同一種の生き物でしかない。

 しかし、一般的に人はそうは考えない。差別されたとなれば理解を広めようと叫び続ける。少数派への理解を求め続ける。でもそれが意味の無いことだとは言わない。差別される人たちが増えないことを願ってのことだろうし、どんなことで差別されているか、共通の被害経験者が集って差別反対運動をすることも彼らの意思だ。ただその事実だけ認めるだけでいい。批判するのはよっぽど暇な人くらいだろう。

 自分は世界中の人たちと大差ない存在。砂浜で一握りにした砂を見て具体的な違いなどわかるはずもないでしょう。

 しかしどうも言論の自由とか表現の自由が暴走しているようで、胸の内に留めておくことができない人たちが多いようで。よく国会議員がオフレコで発言したことが記者から漏れて大炎上とかやってるけれども、失言したから議員辞職だとか言ってる人たちは大体敵対勢力の一人でしょうよ。

 サル発言がどうした。何が問題なの?サルと言われただけで失言だの議員辞職しろだのキィーキィー騒いでいるほうがよっぽどサルに見える気がするけど、どう思う?そうやって、特出すべき問題ではないことで喚き散らかしているのを見ると、報道そのものの程度の低さを感じてしまう。じゃあコアラだったらいいのか?って話にならんかね(笑)コアラも割と頭悪いみたいだけど。

 足の引っ張り合いで劣化していく社会を眺めながら思考の言語化をするというのはなかなか面白い。

 次回は何について書こうかな。これ何回か書いてるけど、「人としての優秀さ」について書こうか。今回は以上ね。

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