◆人の夢と書いて儚い・・・手に入りそうで入らない、そういう希望をいつまで追うのか
幻想が幻想であると自認するには、それを気付かせるための何かしらの存在やきっかけが不可欠だろうと思う。
AはAでBはB、当たり前、当然、常識、確信など、人がそれをそうであると思い込むにも相応に理由があったり、個人の経験がそう思い込ませることもあるだろう。
しかしそのどれもが、いつだれがどんな理由でそのように仕向けたものかは常に不確かではないのか。
人が抱く希望とは、一般的には幸せに生きることと考えられがちだが、世の中には現実に失望したり、関わる人間たちに絶望したりして、時に一寸先すらも見えないくらいに真っ暗闇の中に堕ちることがある。
希望を持て、口々にそう言う人がいるけれども、その漠然とした希望という概念を持てとは一体どういうことなのか。不確かなものを追い求めろと暗に示唆しているのか。
それこそまさに幻想ではないのか。もしかすると、私たちが認識している現実とは、幻想の中にあるのかもしれない。中には現実が仮想空間であると信じる人たちもいる。VRでの体験やメタバース空間での経験こそが現実であると。
人よりも多くを手に入れる者こそが幸福である、そういう誤認をさせてきたのは紛れもなく文明の発展そのものだろうと言える。蓋を開けてみれば、これ以上求めるものなどなく、なんとなく日々を過ごすことが現代の在り方になってしまっていて、希望も何もない、虚無感に近いような感覚で毎日を過ごしているように思える。
まるでアニメ「BLEACH」の藍染惣右介が持つ斬魄刀の始解、鏡花水月の完全催眠のようである。いつから現実を現実であると錯覚していたのだろうか、と。
信じる、疑う、その両極端な心の所作は、どちらに振れても誤った選択をしてしまうのではないか、そう思えてならない。
円の価値が下がってもなお、増税が進んでもなお、給料を求める考え方は、どうも幻想の域を出ないのではないかと。その上で、希望を持てと言われたら人はどういう感情を抱くのだろうか。
人間とはこうも易々と操られる生き物なのだな。世の中で最も恐ろしいのは人間、ではなく、幻想から目覚めることのない人間である。
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