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~領域の狭間で~

  今回もタイトル画像作成に3時間♬ 至福の時! アニメ「スラムダンク」の流川楓のセリフ「オレの眠りを妨げるヤツは何人たりとも許さん」に匹敵するぐらい、この時間を邪魔するなら容赦しないにゃむ!!w というのはさておき、時間かかり過ぎだーね、相変わらず(笑) さて、今回は20回目のnote更新。 そのタイトル【境界】、これがね、またもや天から降ってきたんだ。 画像を一通り作り終わったその瞬間に。 これはもはや天性のものではないかと自負してみたくなるくらい絶妙なタイミング。 自画自賛! 自己肯定! ハッピーライフ♬ ハッピーホーム♬ 〇〇ホーム♬ こんな書き出しでいいのだろうかと疑問に思いつつも、指が動く!!

 境界、ネットで検索した意味はこのように記されている。

 わざわざ調べなくても言葉の意味はわかるのだが、思えば、この世界はほとんど全てが境界で分かれているんだな。 今回このタイトルに決まってから、ふとそんなことを思ったのだ。 これを切り口として、いろんな境界について触れていきたい。

 まず、世界は、5大陸全てにおいて「国境」が縦横無尽に引かれている。 それも陸地だけではなく、各国が定めている「領海」は海の領域を国が占めている。 中国の日本領海侵犯はこれまで幾度となく行われており、その度に、日本政府は「大変遺憾なことであり、国として抗議する」という官房長官の会見は毎度のことである。 そして、アメリカ合衆国を例にすると、50の「州」に分かれていて、各州においてはさらに細かく「地名」で分けられている。 国土面積が狭く、全土の4分の3が森林や山脈である日本では「47都道府県」。 そして、総務省の調べによると、平成26年4月現在の「市町村」の数は1,718に分かれているらしい。

 ここで明治時代の市町村の数に触れてみようと思う。 ウィキペディアに掲載されている情報を見てみると、なんと、明治21年には71,314もの市町村があったというのだ。 びっくりだ(笑)  皆さんは知ってた? ボクは今回初めて知った(笑) (・∀・)へぇ~♬ それで、その年の6月13日に可決された法改正によって大規模な町村合併が施行されたのだとか。 これにより町村数は改正前の5分の1にまで圧縮されたらしく、市町村全体では15,859にまで減らし、これを「明治の大合併」と呼んだそうな。 時は経ち、昭和28年には再度町村合併が施行され、それから3年後には市町村全体で5,000を割り込む4,668に。 これを「昭和の大合併」と呼んだそうだが、それから平成へ年号が変わって以降も町村合併は定期的に繰り返されて今に至っている。 高度経済成長によるインフラ整備の加速的な社会発展と、最も効果を発揮したと思われる技術の一つであるインターネットの進化が、都道府県および市町村の自治体や役所の社会的機能を発達させたことにより、行政の管理体制が安定域に入ったことは言うまでもない。

 さらに、団塊世代が高齢化するとともに少子化も同時進行している現代社会においては、人口減少という必然の社会現象と地方の過疎化が町村合併を加速させる最大の要因であることは払拭できない。 なるほど、市町村は時代の流れと共に常にその境界線を無くしてきたのだなということがわかる。 そのうち、汚職の温床となっている市議会も、市の合併により議員の削減を余儀なくされるに違いない。 そうして国市政の健全性を高めていくという考え方は、強ち間違いではないと思う。

 一秒以上前は過去であり、一秒以上先は未来。 ボクたちは、その狭間をリアルタイムで生きている。 当然ながら、過去をやり直すことはできないし、先に未来を覗きに行くこともできない。 今この瞬間を生きているということこそ、過去と未来の境界なのだ。 そこで、時に過去を憂い、未来に不安を抱き、歩みを止めることがある。 過去に後悔なく、未来に期待を抱いて生きられるなんていう、そんな澄み渡った空ほどに美しい人生を歩める人などそうはいない。 人が人であるが故に、人間の持つ残酷さによって傷つくこともあるし、人の行いに心洗われ感動し涙することだってある。 人が生きて死ぬまでに、何度傷付き、何度感動するのか、そして、何度失敗し、何度成功するのか、回数そのものが重要なのではない。 大事なのは、その都度、過去と未来の狭間で何を得て、何を失うのかを「学ぶ」ということではないだろうか。

 文章を書くにあたって、特に才能があるわけでも、専門知識があるわけでもないボクが、自身の思考を言語化するということに時間を投じるようになったのは、確実なものが何もない人生だからこそ、自分にとって必要なことだという確信に近い思いに駆られたのが発端と言っても過言ではない。 学ぶことを放棄するということが、どれほど時間を無駄にし、どれほど損をしていることなのかに気付いたのである。 この気付きは、おそらくは今後のボクの人生を左右するほどの収穫だと思える。

 過去を振り返れば、後悔の山であり、事、人間関係においては、ボクの生まれ育った経緯から言えることは、「変わり者」であったということ。 元々社交的ではなく、周りの人たちに合わせて接するということを好まない性格も相まって、一般的に見ても人との関わりをそれほど望んではおらず、集団の中に身を置いて遊びを楽しむこともしてこなかった。 当然、自分と気の合う人など滅多に出会うことはなかった。 いま思えば、これはこれで損な部分もあったなと感じる。

 人との境界、周りにいる人たちが知り合いであろうと他人であろうと、誰しもパーソナルスペースを持っていて、人との距離感というものはどこにいても存在する。 社交的な人というのは、この境界を打ち消す能力の高い人物だろうと思う。 ただ、どんな人間関係を望むかは自由だが、多ければいいというものではなく、その関係が単なる飾りのような薄っぺらいものか、濃く信頼の強いものか、それによって自分の過ごす時間的な価値は上がりもするし下がりもする。 そこを見極めることは難しくはないかもしれないが、自分にとってあまりプラスではない人間関係をどう処理するかが実際には難しく、本音を言わず、周りに合わせることで保とうとする人が圧倒的に多いように感じる。 

 リアルでは致し方ない部分も多々あるのかもしれない。 しかし、オンライン上においては、今後はこれまでよりも「コミュニティ」が重視されるようになっていくと思われる。 オリジナリティの濃い、とある目的のために人が集い、興味のある、面白く、楽しいことに時間を投じていくことで生活を豊かにしようというコミュニティがどんどんできていく。 もちろん、それも一つの境界と成り得るかもしれない。 そこに加わる人とそうでない人とがコミュニティの枠によって隔たり、全く別の空間で時を過ごすのである。 コミュニティに参加することでより自分が欲する影響を受けることができ、また、そこで新たに人間関係が構築されていくのかもしれない。 こういう動きがすでに社会的には表に出てきており、一つのコミュニティが会社化するところまで来ている。

 自分がやりたいことを仕事にする、そういう意味で「働く」という概念が次世代型に変形しようとしているのだ。 ただ生活のためだけに仕事をしている人が多い中で、やりたいことを仕事にして楽しくお金を稼いでいる人たちがすでにいる。 これも時代の変化の中で生まれてきたもの。 今現状から脱してそんなふうに働くことができたなら、きっと公私共に充実するに違いないと思う。 ただ、これも実際に行動を起こそうとするのは簡単ではないのかもしれない。 足元の生活、それに縛られることなくやりたいことをやろうと思ったら、時間的な制限を排除する必要がある。 そして一定以上の資金力も必要だ。 今、脱サラを狙っている人たちは増えているのではないだろうか。 この人手不足の社会で。 既存の企業はこれに苦しめられているに違いない。

 働く先の職場や企業も、言ってしまえば一つの箱であり、そこに属している間は毎月決まった給料をもらえるが、副業でもしない限りそれ以上の収入を得ることはできない。 ならば、やりたいことをやりたい時にやって効率よく収入を得ていく生き方のほうがよっぽど楽しいに決まっている。 全く別の人生に成り得る。 この境界を飛び越えることで、これまでとは違う生き方ができるかもしれない。 そう強く信じて飛び出していく勇気のある人たちが集い、一つのコミュニティを形成することで、自由度の高い組織が生まれる。 どうせやるならボクはそのコミュニティを立ち上げる側になりたいなと思う。 参加するだけなら簡単だが、一から作っていくことの面白さを体感したい。

 ボクの意識の中にあるインフルエンサー的人物として、多角的に活躍されているホリエモンこと堀江貴文氏、作家・ブロガーのはあちゅう氏、今現在コミュニティをどんどん拡大させている箕輪厚介氏、仮想通貨系コミュニティ創案者のイケハヤ氏、大学教授でありながらメディアアーティストや実業家として活躍されている落合陽一氏などが挙がる。 彼らが発信する情報から、今社会で起きていることやこれから社会がどうなっていくかなどを予見する考え方などを学び取ることができる。 今はその動きをじっくりと観察させて頂いている。 どんな形のコミュニティが創出されてもおかしくない社会になりつつあることを彼らが続々と提言してくれることは非常にありがたい限りである。

 そんな彼らの活動の様子を窺い知る中で、自分はどんな思考を働かせ、行動するか、その指針となるものに繫がる要素を一つ一つ見つけ繋ぎ合わせていくことができるのではないかとボクは思い始めている。 コミュニティを創るでも、集まってほしい人たちというのはターゲットが絞られていて、コミュニティのリーダーたちは会社の採用みたいに選定しているようだ。 誰でも彼でもというわけにはいかないのは当然だろう。 しかしこれも、一つの形が出来上がってしまえば、自然と集まる人たちの質も上がって行き、種類の幅も広がるのかもしれない。

 アニメ「HUNTER×HUNTER」の主人公ゴン・フリークスの父、ジン・フリークスは、遺跡を発掘するために、インターネット上で10人ほどの仲間を募った。 そして彼らはなけなしの金を研究費用に充ててくれと寄付した。 今社会で起きている現象というのは、この、ジンのやっていることと全く同じなのかもしれない。 人はアニメから学んだのだ。 やりたいことさえ決まれば人を募り、必要な資金はそれを調達するための手段を選べばいい。 アニメの中でジンは必要だった「ハンターライセンス」を取得した。 これにより、資金面では難なく活動をよりスムーズに進めることができるようになったわけだ。 例え小規模集団でも、やりたいことはできるのだと彼は証明して見せたのかもしれない。 今、目の前にないものを探し求めることには意義があるのだ、と。

 人との距離感というものは、もしかしたら、勝手な自分の思い込みもあるのかもしれない、と思う。 自分にはできないことをできる人、ボクは是非ともそういう人たちと集い、何か一つの目的に向かって走ってみたいと思う。 まだ、現状においてはそれを成し得るための時間も経済力も全くないし、それに、人を引き寄せる力も、もしかしたらまだ全然ないのかもしれない。 でも、まず人を集めるということが実現できたなら、そこから必ずできることが見付かってくるし、仲間の知恵に助けられることも多いだろう。 今はとにかく、日々の生活を維持すること、健康であること、無駄死にしないこと、この3つを大事にしつつ、今自分ができることをやるだけだ。 資金力が確保できれば、きっとボクは本格的に動き出せる。 その時のために、常に思考はいろんなことにアンテナを張り巡らせて言語化し、発信すること、これを辞める気はない。

 もし、コミュニティを立ち上げることができたその時は、ボクがそのコミュニティを象徴するロゴ作成に携わり、半永久的に掲げていきたい。 これが今のボクの夢だ。 だからこそ、周囲の人たちはどうしても温度差を感じてしまうのかもしれない。 現状に満足するような人たちとボクとでは、話が噛み合うはずがないのだから、至極当然のことだと思う。 なぜなら、そこにある境界を超えていいのは、同じ目的を達成したいという意志のある者だけだからだ。 家も車も服もアクセサリーもバッグも、全部安物でいい。 必要なのは、これからの人生を生きていくための糧だけだ。 この世の中には、不必要なものが溢れ返っているばかりか、それらを金に換えようと息巻いてあらゆる行動心理を効かせて人々を操っている人や組織が多すぎる。 金が目的である場合、それによって得た金は無意味に消えていく。 買い物だろうと投資だろうと、投じた金が活きなければ全く意味がない。

 そういう無駄な金遣いを自身がしてきたということに反省する意味もある。 だからボクにはお金を活かすための知恵はもちろん、仲間が必要なんだ。 途中で裏切ることなく、現状に満足せず、最期の最期まで一緒に突っ走ってくれる仲間をボクは欲している。 この熱い男を手助けしてくれるなら、ボクも命を賭して応えるつもりだ。 可能な限り。 ボクが思う境界を堂々と超えてくる人物がこの先何人いるのか、それを楽しみにこれからを生きたい。 そうしてコミュニティを立ち上げることができた時、ボクは現状から堂々と飛び出していく。

※今回も最後までお付き合い頂きありがとうございます!!今月も残すところ僅かとなり、第2回#cakesコンテストの応募期間も迫っているため、あと1~2投稿は頑張ろうと思いますので、応援のほどよろしくお願い致します!!(・∀・)あはっ♬ ご意見・ご感想などありましたら、noteコメント欄もしくはTwitterのDMにてどんどんどん受け付けております♬ 次回もお楽しみに♬

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