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◆あなたはこれを読んでどう解釈する?

 今回は、正解のないテーマについて敢えて両極端な問いかけをしていく。あなたはあなた自身を「自分」と認識し、他の誰とも違う「唯一無二の存在である」とも認識している。クローンでもドッペルゲンガーでもなく、ただ自分である、と。そして、そのことを誰よりも大事にしていたり、自分で自分を嫌っていたりもする。中には、「自分を探すために旅をしている人」もいたりする。

 「人はみんな違っていいんだよ」「考え方は人それぞれ」という考え方は、現代社会で広く浸透しつつある一方で、差別や疎外の側面も同時に潜在し続けている。

 最近よく思うのは、人間が人間という生き物をどのように解釈するかということを、劇的に変化し続ける現代社会で多くの人たちが考えさせられているのではないか、と。人工知能の急成長により、すでに学校や企業だけではなく、国もOPEN AI社が開発したChatGPTの活用を推進している。

 優秀な人材の育成、優秀な人材を確保するための求人やスカウト、かつてはその評価基準だった学歴、資格、実務経験も、各分野においてそれらの魅力や効力が失われつつあるように私には映っている。少なくとも、私には。

 フェーズは「人工知能を上手に活用できる人材の育成」「人工知能を上手に活用できる人材の確保」へと移行した。このことが多くの労働現役世代を直撃し、今回のメインテーマである「アイデンティティクライシス(自己同一性の喪失)」を引き起こしている。

 厳しい表現をすると「人工知能を扱えない人は低賃金で体力仕事をどうぞ」という意味の分断を引き起こすことに繋がっていると言える。そしてこの事実は、これまでせっかく頑張って培ってきたいくつもの自己同一性をほとんど無に帰す現実を突き付けている。果たしてこれは錯覚なのだろうか。

 ChatGPTを触ったことのある人ならすでにわかるかもしれないが、今、興味本位でもChatGPTを使っている人たちも含め、これを扱うことがどれほど簡単ではないかを実感していることだろうと思う。試されているのは、ChatGPTへの「質問力」。それと同時に、自動生成された文章、画像、音声、映像の「修正力」も試されている。

 事、国家資格の類は全世界でその関係者がChatGPTを使いまくることでChatGPTは急速に成長していると言える。その結果何が起こるかというと、各国家資格の、秒でほとんどパーフェクトに近い回答をする人工知能を誕生させるということ。

 例えば、医者によっては診断方法や診断結果、処方するお薬が違ったりもして、患者は診断してもらう医者によっては全く違う診断結果を告げられることも往々にして起きているけれども、今後はそうしたこともなくなっていく。ともなれば、医者という国家資格の存在価値もなくなっていくということ。

 弁護士はどうか。過去の判例を踏まえた上で、事実を基に最適な判決文を秒で示すようになれば、わざわざ人間が六法全書を開いて調べる、なんてことも必要なくなっていく。

 小さい頃から国家資格取得を目指して勉強して難関高校、難関大学に入り、念願の国家資格を取得して実務に全ての時間とお金を費やしてきた自分の人生が、ある日を境に無に帰すことがわかっていたら、誰もそんな無駄な努力を好んでしようなどとは思わないはずである。

 では、そうして自己同一性の大部分を占めてきたはずの資格の価値が失われた時、その人はどんな思いがするだろうか。人の命を救うために頑張ってきた医者が医者ではなくなり、罪人を弁護し量刑の軽減をしたり被害者の救済に努めてきた弁護士が弁護士ではなくなると、それ以外に特出した何かがあろうとなかろうと、ただの人になってしまうわけで、きっと胸を締め付けられる思いがするに違いない。

 多様性の否定とは、海岸の砂浜に敷き詰められた砂に等しく、手で救った何万粒の砂一粒一粒に大した違いは見られない。何億回と波に打たれて削られていった岸壁、元は巨大な岩だったものが砂粒へと変わり、差がなくなっていくような感覚。

 世界中の人々はそんなふうにしてフラット化されていくのかもしれないと思う一方で、口々に「人はみんな違って当たり前」「考え方は人それぞれ」と言い続けてきた人間たちは、元々砂浜の大量の砂粒のように大差ない生き物なのかもしれない、とも思ってしまう自分がいる。

 はて、「自分」とは一体何だろう?

 地球から384,400kmも離れている月からは人の存在はもちろん、世界最高の標高であるエベレストの存在すらも肉眼では確認できないと言われている。もし仮に地球外生命体が存在しているとしても、我々地球人は認識すらされていないほどに「人間は極めて微細な生物」でしかない(とも言い換えることができる)。

 うん、それはこの地球上では事実であって、誰も否定はしようがないことではある。でも、あと10年もすればそんなことは意に介さない小事であり、人間が生きていく上では大して重要ではなくなっている過去の事実になっているかもしれないよね。

 そして同時に、テストで高得点を目指して勉強することで暗記力を示すことの無意味さも忘れ去られていることだろうと思う。これに関しては現在進行形でそうした認識が広まりつつある。

 むしろ、人間の知能が如何に低いものだったのかを、きっとこれから実感していくことになるんだろうと思う。

 これってたぶん知能だけの話ではなくて、あらゆる競争の全てに通ずることだと思うんだよね。身体的に足が速いとか、ジャンプ力があるとか、視力が良いとか、聴力が良いとか、単純に腕力があるとか、人がこれまでに競い合ってきたことすべてが人工知能によってその次元の低さを体感させられていく気がしてならない。

 きっとアンチエイジングも進化していくんだろうね。30歳を過ぎたら男性はおじさん、女性はおばさんなんて揶揄していた時代もきっと懐かしく思えるようになるのかもしれない。

 それだけじゃない。生まれ持ったハンデだってフラット化されるだろうね。世の中には不遇に見舞われ、不自由を抱えて生まれてくる人たちがたくさんいる。彼らは自分が望んでそのような不自由な身体に生まれたわけではないのに、残念なことに、そうして苦しむ人たちほど心無い差別を受けていたりもする。

 多様性の否定、その本質的な解釈としてよりベターな解答があるとするならば、顔や身長は違えども、生まれた時点から誰もが等しく健常者としてこの世界で生きられる、全ての人が等しく権利を行使できる、そういう意味での完全平等世界の実現ではなかろうか。

 もちろん、そんなことは不可能だと言いたい人も居るだろうけれども、これまではそれができなかったから、妥協して「多様性」という言葉でとにかく違いを認め合おうねと訴え続けてきたのではないのかな。

 でも、結局現実というのは残酷で、人間は差別をする生き物である。では、多様性を受け容れられず、差別意識を拭い去れないその理由とは一体何なのかを考えなければならない。その理由こそがこれだ。

 人は、自己同一性を大事にする。だから自己肯定感が大事だと主張する人がいるし、承認欲求を満たそうとして幸せアピールもするし、不幸自慢もするんだろうと思う。「見てほしい」「聞いてほしい」「理解してほしい」「認めてほしい」「褒めてほしい」「憐れんでほしい」、そう思うのだろう。

 それが良いか悪いかの話ではなく、何も珍しいことでもないし、至極当たり前のことだという認識をしているのが人間だということね。

 「人を怨むな、羨むな。」という言葉があるけれども、そんなことを言われても無理な人は無理なんだよね。人は人を怨むし、羨む生き物。だから嫉妬もするし、負けまいとして背伸びもする。

 「自分が自分ではなくなっていくような感覚」という表現がある。人はどんな時にそういう感覚に襲われるのだろうか。ちょっと思い返してみてほしい。皆さんが思い浮かぶ限りで、業界から追放された元有名人の名がいくつか浮かぶと思うんだけれども、彼らが追放された時の心情を察するに、まさにその瞬間こそアイデンティティクライシスは起きているのではなかろうか。

 この人間社会では、それまでどんなに功績を積み上げてきた人物でも、どこかの時点で(※重大な)過ちを犯してしまうと、メディアから吊し上げられ、世間から叩かれまくり、業界から追放される事案が定期的に起きているよね。(※重大な=浮気や不倫を含む、犯罪、反社との関係、贈収賄、談合などによって関係各所に莫大な損害が発生し、社会的信用が失墜する事案)

 いろんなことに目を向けているとふと思うことがあるんだよ。自己同一性の喪失が起こる時というのは、その起点となるのが自らの過ちである場合もあれば、対外的な事由で起こる場合もあるんだということ

 事件事故、自然災害だってそうだよね。まったく想定していなかった突然の事件事故に巻き込まれて大切な人を失ったり、大地震や津波や洪水などで住む家や仕事を失ったり、当たり前の日常が突如そうではなくなる日に直面する人たちが毎年のようにいる。そういう時にもアイデンティティクライシスは起こる。きっと誰だって思うよね、「どうして自分(たち)だけこんな目に遭わなきゃいけないんだ!」って。

 ところがだ、被害者や被災者というのは、社会に救いを求めたり、理解を求めたりすればするほど、その対立軸に立つ何者かによって心無い言葉を浴びせられたり嫌がらせをされたりする。自己同一性の喪失に苦しんでいる時に限ってそういう輩が涌いて出る

 そんな心無い人間たちも、自分たちと同じ人間だからという理由だけで受容することが本当に多様性だと言えるのかどうか

 ね?多様性にこれといって正解はないよね?何でもかんでも多様性だと言ってしまうと必ず歪を生む。必ずジレンマに悩まされるのが多様性の持つ性質だってことをわかってないといけない

 先に結論から言うと、自分が自分であるために、自己肯定感を傷付けられないようにするために、自己同一性の喪失に直面しても自分を認めてもらうために、「生きる場所」は選ばないといけない。人が集団を形成する本当の理由はこれだと思う。これは、単に集団の掲げる目的のためにランダムに集められて群れる場合を除く

 それで言うとだね、学校や会社という場所は、素の自分で居られるような環境ではないというのが大前提だということを正しく認識しておかなくてはならない。少なくともこの日本ではその認識が根深く、「演じること」を半強制的に強いられる

 この現実を理解していない人は、悉く人間関係に苦しむことになるんだよね。どう?「多様性を大事にしましょう」って訴えかけている様子が学校や会社で見られても、いじめやハラスメントが起きている実態を目撃してしまうと、誰だって思うんじゃない?「多様性とは・・・」って。

 なんで学校だけではなく大人になっても会社でいじめやハラスメントが起きてしまうのか。きっとそれはね、組織の目的のためにランダムに集められた集団だからなんだと思うんだよね。学校では「みんなと同じことをやりましょう」、会社では「会社が求めている仕事をして貢献しましょう」。その概念が暗に示唆しているのは「そのために優等生を演じてください」なんだよね。

 学校では「授業を真面目に受け、宿題もしっかり提出して、テストでは高得点を取り、クラスのみんなとは仲良くしましょう。」、会社では「上司を敬い、意見や文句を言わずに上司の指示命令に従いましょう。」だ。これが平成が終わる頃まで社会全体にこびり付いていた概念。コロナが始まってから3年半で多くの議論が成される中で上書きされつつあるのが現状。ようやくって感じだよね。

 会社で従業員全員に向かって「みんな家族同然だ」とか言う上司の言葉は鵜呑みにしてはいけない。それが経営者だったらもっと危ない。その言葉を盾に業務上あれこれと無理強いしてくるケースしか私は聞いたことがない。部下をうまいこと丸め込みたいだけのフレーズでしかないってことだけは知っておいたほうがいい。それこそね、従業員たちがアイデンティティクライシスに直面する引き金にもなりかねないから

 日本の民間企業がイノベーションを起こせなかった最大の要因、それもアイデンティティクライシス。意見を言えない、もっと良いアイデアが浮かんでも試すことを許されない、言われたこと以外のことをやると説教される、上司の不正を指摘しようものならどんな目に遭わされるかわかったものではないと敬遠する、だから自分を押し殺して演じる。そうやって「組織は上から腐る」と言われるわけだ。

 それももう今後はガラッと変わっていくからそんなに心配しなくていい。求人サイトでいろんな企業、特に業界大手の企業の求人広告を見てみると言い。実態がどうかは置いておいても、コロナ前までの内容とは別次元の社内風土改革を推進している企業が増えていることに気付くと思う。それもピンキリあると思うけれども、労働環境は好転期に差し掛かったと私は見ている。

 いじめやハラスメントもその真実がどうであるかは当事者にしかわからないこともたくさんあるんだろうけれども、もう下手な真似はできないフェーズに完全に移行している。それ故の苦悩もまた別に生まれているようではあるけれども、それは仕方ない。

 とはいえよ、コロナ前だろうとコロナ後だろうと、行った先で感情の制御ができないというのは演じる以前の問題でもある。そこのところは履き違えないようにしたほうがいいね。

 さらに言うと、せっかく自分が望むような居心地の良い環境に属すことができたのであれば、他の集団と争うようなことは極力回避してうまく立ち回ったほうがいいよね。最悪、それをきっかけに自らの居場所を失う可能性だって十分にあるからね。

 本当の孤独とは、「周りに人がたくさんいるのに疎外されて感じる心の孤独のこと」なんだよ。「独りで過ごしている時が孤独だ」と思っているのならそれは違う。それは単に周りに誰も居ないってだけのことで、それを孤独だと思い込んで悩む必要はない。

 そもそもね、誰がどうあれ、今いる環境で疎外されて孤独を感じるのならさっさと環境を変えてしまって、自分が居心地の良い場所だと思える環境を探索すればいいだけのことなんだよ。わざわざ孤独を感じる場所、わざわざ孤独を強いられるような場所に無理して居座る意味はないんだ。その切り替えはすごく大事。自分を大切にしたいならその切り替えの潔さだけは必要

 すぐに居心地の良い場所を見付けられるほど簡単なことではないんだけど、結局、人はね、自分が自分で居られるのは、周りの人たちとの距離感に救われている部分が大半を占めているでしょ。

 でもね、それは、自己同一性に頼りっきりでいてはいけないんだ。あくまでも自分という人間として周りに受け容れられている状態がベストいくら肩書が上で、実績があって、資格をいくつも持っていても、周りからの人望がない孤独な上司みたいな人は、毎日100%上司を演じることでしか自分を保つことができなくて、都度ふんぞり返って偉そうに自己顕示欲を満たすことに翻弄しがちだったりする。でも、そんなことでは下は付いてこない。

 学校でも、会社でも、ランダムに集められた集団だからこそ、人と人の関係性を歪めるような過度の馴れ合いを求めれば必ずトラブルは起こるし、必ず誰かが傷付く。本来はそのことを小組織単位のリーダー的な存在が言って聞かせるくらいないと本当はいけないんだけどね。それができていないからいじめもハラスメントも黙認したり隠蔽したりする体質から逃れられなかったりする

 自己同一性というのは、あくまでも自分がそうであると信じているだけのものだと思っていたほうがいい。周りは自分が思っているほど自分のことを評価してくれるものではない、というのが現実かな。でもね、だからと言って口先で「オレはみんなより頑張ってる!なんで認めてくれないんだ!」なんて言い出したら全て台無しになる。それこそ意味がない。

 古い認識をアップデートするなら、まず、自分もしくは自分たちが争っている次元の低さに気付くことが大事かもしれない。取るに足らない小事で言い争っている間に、目標達成のために結束して協力している集団組織は100歩先を走っていたりする。それも、自分たちからはまったく見えないくらい高い次元でね。

 想像力の欠如は、そういうことにすら頭が回らなくなってしまう。熱く議論を交わすのは非常に結構なことなんだけれども、今本当にやるべきことなのかどうか、もっと他にやるべき議論があるんじゃないか、そんなことをふと提言してみるのもいいかもしれない。

 そうすることで、なるべく早めに何も生まない低次元の言い争いをストップして建設的な議論へ移行することも可能になる。いつも場を遠目から客観的に全体を見渡す想像性は持っていたほうがいいね。何をそんなに熱くなってるんだろうって真上からのぞき込むような感じで場を見守るんだ。

 それができるなら言えるよね。「え?それって今やるべきことだっけ?」って。「違います」って返事されたら「うん、そうだよね、じゃあこれについて会議しようね」って淡々と場を支配できる。

感情とは、いつの時代もままならぬものだね(・∀・)はっはっは♬


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