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~未来の自分のイメージ~

 どもっ!! にゃむですっ!(・∀・)にっ♬ にゃむはね、こんなに連日暑い日が続いても「暑い」なんて言わないにゃむ(笑) そんな、当たり前のことをなぜ口にする? 暑いのは慣れてるにゃむ。 いくら汗をかいても、それが気持ちいいとさえ思える。 ただ、直射日光だけは極力避けたいし、地面からの反射熱も避けたい。 熱中症にはなるからね、誰でも。 水分補給しっかりして、暑さ対策やってこ!!

 さて、今回は「生きていく中で目には見えない大切なこと10選」というタイトルを掲げ、いざ文章を書いていこうと思う。 サムネイルに描いた10個の単語は、テキトーに選んだわけではなく、ボク自身が特に大事だと思う単語を選定してデザインを施したものだ。 じゃあ、早速、一つ一つの意味を追っていくとしよう。

 まずは、なんと言ってもコレだね。 この意味を調べて初めて気付かされたのは「社会的に調和のとれた良い状態にあること」も健康の意味に含まれているということ。 でも、現代社会で調和をとるということは簡単ではないなと感じる今日この頃。 リアルでもインターネット上でも、この点、慎重さは今後益々必要だろうし、常に不特定多数のネットユーザーが評価する「評価社会」でもあることを考えると、なるほど、無暗に乱暴な使い方はしてはけないのだと改めて思い知らされる。 SNSで他のユーザーに対して罵詈雑言を浴びせるようなコメントをすることは、相手だけではなく、それを閲覧する他のユーザー、そして自身の健康にも著しい害を及ぼすことを肝に銘じておかなければならない。

 いざ本当に何かやりたいことが見付かった時に、自分の健康状態に異常があると、ベストな状態で取り組むことはできない。 食事、睡眠はもちろんのこと、適度な運動やメンタルを強化するための行動、周囲との調和、なんてことがとても大切なことだと「健康」という言葉一つがこれらを意味している。 ビックリだね。 普段聞きなれている言葉を改めて調べ直すと、考えさせられてしまうこと多々あり。 健康志向なんていう言葉もあるけど、健康を意識している人の中にも、実はそれとは真逆の悪習を辞められずにいたり、詳しい知識もなくダイエットだサプリメントだと、間違って解釈している人たちは少なくはないと思われる。

 本来、人間の身体には治癒力が備わっている。 ちょっとしたケガや季節的な風邪、たったそれだけのことで病院に行く人たちのことを、ボクはあまりよく思っていない。 幼児ならまだしも、一般の成人がそんな調子じゃ、病院も患者を抱えまくって大変だろうに、と。 父から教わったことだけど、「風邪を治す特効薬やワクチンなんてものは今の医学でも開発されていなんかなくて、存在していない」らしい。 確かに、市販の風邪薬も病院で処方される薬も、実は気休め程度でしかなく、時間が経つと風邪は治ることがほとんど。 薬を飲めば風邪は早く治る、というのは間違い。 世間に出回っている風邪薬は単なる栄養剤に過ぎないという認識を、一体どれだけの人たちが持っているのだろうか。 「風邪を引いたくらいで病院に行くな」はボクのポリシーだ。 あまり医療の現場を困らせる受診の仕方をするのは良くない。

 逃げずにしっかりと向き合う強さのことだね。 そうだなー、30歳を迎えるまでの自分を振り返ると、忍耐という意味では欠けていたなと思う。 なんかこう、我慢ができなかったんだよね。 人に暴力を振るうなんてことはなかったんだけど、言い合いになると相手を傷つけるような暴言を平気で吐いていた気がする。 いや、事実そうだった。 今思えば恥ずかしい限り。 その状態っていうのは、やっぱり現実逃避したくなるんだよね。 気持ちのやり場がなくて、八つ当たりしてみたり、大して面白くもないことをやってみたり。 そんな時、自分の思考も行動も、自分では明確に理解してなかったんじゃないかな。 忍耐力が弱いということは「意思の弱さ」に比例するような気がする。

 さっきの健康の部分でも述べた通り、ネット上で罵詈雑言を浴びせる行為が日課になってしまっているような人というのは、忍耐力が乏しいということが説明できるかもしれない。 残念ながら、今のネットユーザーは、炎上だなんだと騒ぎ立てて、それに便乗して悪態付くようなコメントを大衆に交ざって楽しんでいる輩が多い。 誰か彼らに気付きを与えてやってほしいなと思うだけで、今現在、ボクにはその力がない。 必ずどこかのタイミングでネットユーザーの浄化をしなければならないと思う。 それはつまり、現代人の忍耐力強化を意味しているわけだ。 前に、ネットゲーム実況動画を観たことがあるが、まあ酷いものだ。 良い歳した大人と小学生が幼稚な言葉を言い合っている様。 実に見苦しい。 そういうネットの使い方に慣れてしまうと、きっと大人になっても変われないのかもしれない。 ハッキリ言ってそういう人種とは関わりたくない。

 ちょこっと昔の話をするよ。 小学校卒業式の日、今も覚えてる。 田舎の小さな小学校の校長先生がね、卒業生24名一人ひとりに、卒業証書とは別に「一枚の色紙」をくれたんだ。 そこには、生徒それぞれに一つの言葉が記されていた。 直筆ですごく綺麗な字だった。 他のみんなはどんな言葉だったのかはまったく知らない。 校長先生がボクに贈ってくれた言葉、それが「寛容」だったんだ。 国語も漢字も苦手だったボクには、まったく意味がわからなかった。 確かその色紙には、言葉の意味は記載されていなかったように思う。 卒業式が終わって家に帰ってから両親に見せた。 その時初めてこの言葉の意味を知ったのだ。

 この言葉は素晴らしい意味なのに、これを知ったボクは校長先生の気持ちをどう捉えたか。 どういうわけか「キミは心が狭い。もっと人に優しく接しなさい。」と捉えてしまったのだ。 もしかすると、この言葉通りの意味として贈ってくれたのかもしれないが、いや、その可能性は低い。 クラスでは浮いた存在だったため、周囲との距離感が他のみんなとは離れていたののだ。 それでもどうにかこうにか小学校卒業を迎えた日に、この言葉によって自身の小学校生活を思い返すきっかけになった。 でも、まだその頃は、この言葉の本当の意味をわかっていなかった。

 以後、中学、高校、大学と卒業し、社会に出たわけだが、学生時代は一貫して「寛容の精神」を自分の思考に織り交ぜたり行動に示したりすることはできなかったように思う。 今までずっと、この言葉はボクの人生にずっと付いてきた。 忘れたことなど一度もない。 この言葉が一体どういうことなのかを知りたい思いが残っていたからだ。 でも、20代後半くらいだったかな。 寛容の精神がどういうものなのかを、態度や行動で示すことができる人物が現れた。 その時、その人物に重なったのが「自分の両親」だった。 ボクの父親は昔すごく厳しかった。 その厳しさから子供たちを守ろうと、母親が抵抗してくれたこともあった。 それでも、父は理不尽な叱り方や暴力ではなく、ちゃんと理解させるための「体当たりの躾」をしてくれていたと今でも思う。 悪いことをしても、結局は許してくれた。 小さい頃から、実は、自分の父親が寛容の精神を教えようとしていたことを思い出す。

 そのことに気付かされて、ボクは、両親の子供に生まれて本当に良かったと思った。 そして、これまで、行くところ行くところで、本当は自分の気付かないところで多くの人たちがこの寛容の精神をボクに教えてくれていたんだということに、今、心から感謝したい。 社会に出て生きるということはこういうことだったんだなと気付けたことは、人生最大の収穫の一つと断言したい。

 そうだなー、ひとりの大人として、あらゆる気付きを得ながら、これも30歳くらいに鮮明になってきたかな。 信念の意味は意味としてはそのままなんだけど、これも人によってまったく異なる種類の意味合いを持つよね。 信念を持つ者と持たざる者の見た目の違いは「眼」に現れるとボクは思う。 自分の考えを信じることというのは、その中身がポジティブなものに限定される。 そうでないものに関しては、信念とは言わない。 そして、正しいと信じるのは自分だけであって、それを他者に押し付けていいものではない。 また、他者の信念に対して批判したり、見下したり、蔑んだりといったことは何の価値もないことを知るべきだと思う。

 茶色く濁った眼か、強い意思を感じさせる透き通った眼か、それによって信念のある者かない者かがわかるし、およそ考え方や行動も相違ないことがわかる。 ネット上ではそれはわからないことだけれども、例えばユーザーの発信するnoteの内容によっては、発信者の信念を窺うことができる。 リアルだろうとネット上だろうと、あらゆる表現、発言、声のトーン、表情、行動、態度、そういうものから相手の信念を察することができる。 可能な限り、信念のある者との関係を構築していきたい。 なぜなら、結局のところそういう人との繋がりが自分の未来を切り拓く糧になるからだ。

 希望、なんて素敵な言葉だろうかと思う。 希望を胸に抱いて生きられる状態とそうでない状態とでは、人生の色が全く異なり、日々過ぎ行く時間的価値にも大きな差が生じるのではないだろうかと思う。 自身が今後どうなりたいか、社会に対して将来何を期待するか、またはできるか、そういうことを時折考えられる余裕は持っていたいな。 

 だって、悲しいじゃないか。 この先の人生に対して希望を抱けないままただ生きるだけなんて。 ボクはそんな人生は耐えられないし、耐える理由はないと思う。 例え現状では希望を抱けないとしても、強引にでも意識を「より明るい未来」に向けて考えたり行動したりして前向きであろうとすることで、自分以外の誰かを照らす光の役割を担うことだってできるかもしれない。 人によってはこんな考え方を「キレイゴト」「絵空事」なんて揶揄したくなる人もいるかもしれない。 でも、そういう人がいたって不思議ではないし、翻弄されない強さを盾に希望の光で在り続けようとすることができたなら、たったそれだけでも存在意義が確立できると思う。

 一つでも多くの「〇〇したい」、英語でのニュアンスで言うと「would like to do (something) for ~」(=控えめな、相手に気遣いした上での「~したい」)ではなく、完全な「want to (something) for ~」(=自分の意思100%の「~したい」)を心に宿すこと。 これこそが生命の燃焼度を上げていくためには不可欠な要素ではないかなとボクは考えている。 「for」のあとに続くのは、「誰かのために」だったり、「環境や組織のために」だったりといった対象となるものが明確であること。 希望すること、その中身はより鮮明に、具体的にしていくことで、希望一つ一つの密度も濃くなっていくだろうから、思考も行動もそれに比例していくのだろうと考えている。

 頭をもたげる壁が目の前に立ちはだかった時に、恐怖や不安を抱きつつも、そうした辛く苦しい状況を乗り越えようと立ち向かう気持ちを自身が行動に移せたとしたら、きっとその行動そのものが、同時に「勇気を与える行動」として他者に幾ばくかの影響を与えるだろう。 他者の理解や協力を得ようとするための行動、もしくは、これまでの在り方に「変革」を起こそうとする行動には、その当事者が誰であろうと、常に恐怖や不安がつきまとうだろうと思う。 怖がることなく立ち向かうことが一人では厳しいと思うのなら、仲間を率いて行動したっていい。 それも一つの勇気だ。

 得てして大衆には、個人もしくは極めて少数の小集団の訴えに対して批判をしたがったり、関心を示すことすらしなかったりと、残酷な一面がある。 「大衆に対して理解を求める」ということは簡単ではない。 どんなに革新的なアイデアであろうと、どんなに新鮮な気付きであろうと、仮にそれが次世代の新常識になることがおよそ想定できることだとしても、一般大衆は、過去の歴史を振り返っても常に抵抗や拒絶を示してきた。 そうではなく、現代の人たちは、そういう勇気ある訴えに対し「まず関心を示すこと」が大事ではないかと思う。 その中で、勇気ある人間だけが「次に行動に移る」のだと思う。

 勇気がないということは、恐怖や不安を理由に行動しない、行動できないことの言い訳になりやすい。 動けば未来は変わるのに、そうした弱い感情が邪魔して未来を変えられずにいることを「それでいい」と簡単に諦めてしまう。 行動するには勇気が必要だ。 そのためには、勇気をかきたててくれる多くの思想に触れることではないだろうか。 ボクはそう思う。 そうすることによって、勇気ある自分へと変わっていき、自分を信じる力も養われていくのだ、と。

  野望や野心といったものは、一般市民には縁のないものだろうか。 縁のないものだと思っているのだとしたら、おそらくそれはそう思っている本人の単なる思い込みであって、すぐにでも払拭しなければならない。 人は、一つところに身を置き、何年も同じ組織や環境で過ごしていると、既存のルールや常識に思考を囚われてしまい、それらを疑うことをしなくなる。 どうして?なんで?と思うようなことがあっても、「今までそうだったから」と自分を納得させる理由や妥協していいものだとして、それ以上を考えなくなってしまう。 それでどうやって物事を改善したり、変革を起こすことができるだろうか。

 確かに、普段の生活で変革を迫られるようなことはないのかもしれないし、そのような訴えを起こしている人物がいたとしても、我関せずでいることだってできる。 でも、普段無関心な人ほど、状況が切迫するとルールや常識に対する変化を嫌い、大して説得力の無い批判をしたがる。 野望の最大の敵は「諦め」と「妥協」だ。 変えられるわけがない、自分は組織の下ッパだから言っても誰も応えてはくれないという決め付けることは、野望を抱く機会を自ら捨てていることに等しい

 おそらく、「どうでもいい」などと無関心を顕わにするような発言をすることに慣れてしまっている人たちは、同時に「考えることを放棄している」ため、死ぬまでそういう生き方しかできないのではないだろうか。 チームや組織に属す人たちのうち、思考停止型の人間や思考放棄型の人間の割合が多ければ多いほど、チームや組織は腐敗しやすく、衰退していくスピードも加速していくのだとボクは考えている。 腐敗させるのも衰退させるのも、そういう人間たちなのである。 しかしながら、個人単位では、そこまで深刻には捉えていないケースが多い。 チームや組織が腐敗しようと衰退しようとオレには関係ない、と。

 例えばそういう種類の人間が人の上に立ってしまったら、最良の選択は「別のチームや組織へ移る」という行動を起こすことが望ましいかもしれない。 無理に居座ることは、自分の人生を不完全燃焼させてしまいかねない。 人離れが起こってしまう組織には、必ずそれ相応の要因が潜在しているのである。 考えることを放棄する種類の人間が多い組織では、その要因に目を向けることをせず、見て見ぬフリをして明日を迎えるのである。 そして、危機的状況に追い込まれて初めて動き出すのである。 実に滑稽である。

 夢はあるかと聞かれて答えられない、または、夢なんて考えることなく毎日生きるだけに満足している、昔よりもそういう人は増えたように思う。 社会は、モノで溢れ、何でも揃っていて、金さえあればほしいものは手に入る。 しかし先立つ物である金が満足に得られていないことを理由に、夢さえも諦めてしまう。 それが夢を諦めていい理由に成り得るのだろうか。 金が全てではないという言葉の本質とは何か、偏にそれは「夢を抱けるか」だとボクは思う。 夢さえ抱けているのなら、金があろうとなかろうと、「今自分がすべきことは何か」という思考が働いているだろうし、すでに行動に移せているに違いない。

 将来の夢のために動けていないのなら、その夢が実現することはないと思っていいだろう。 動けていないことに対して自分で自分に言い訳をして、いつまで経っても最初の一歩を踏み出さないのは「100%自分の責任」であることを自覚しなければならない。 そして、夢を抱くことなく、行動できていない自分を「不幸」だと思わなければならない。 それでいて幸せになりたいなどと思うだけでは、自己矛盾でしかないのである。 妥協と誤魔化しと自己矛盾だらけの人生で終わらせていいとは思っていないのに、夢を抱くということの本質に目を向けないままで生き続ければ、無駄な人生で終わると気付くべきだろう。

 【志、高く】これはもう、今やSoftbank創業者である孫正義氏を代名する言葉であり、彼の座右の銘である。 極めてシンプルでありながら、彼がこの言葉に込める思いはまさに世界No.1であったことを実現したと言っても過言ではない。 彼だから成し得たことであり、一般人が努力しても到底成し得ない偉業であるとも言えるかもしれない。 でも、志とはそういう線引きや境界に左右されるべきものではない。 誰だって志を高く抱くことはできるし、どれほど重要かを彼はずっと訴えている。 他を圧倒的に説得できるほどの結果が伴っているのだから、彼の訴えには必ず耳を傾け理解に努めたいと思わせてくれる。

 彼と同じ時代を生きていることは、偶然であり奇跡でもある。 今を生きる人々は、学ばなければならない。 世の中を嘆いている場合ではないのである。 意識高い系をバカにする輩は今もいるのかもしれないが、人類史上もっとも意識高い系の人物は孫正義氏だとボクは断言する。 彼が辿ってきた経緯からは常人では成し得ない経験や思想がたくさん詰まっている。 ボクたちはそれを何冊かの本で学ぶことができる。 今、志を持って日々を生活している人たちも、そうでない人たちも、孫氏にまつわる本を何冊か読むべきだと思う。 たったその行動一つで、あなたの心になかった志が宿り、将来を見据えていきるための第一歩を踏み出せる可能性は十分にある。

 10選最後の一つ、情熱。 自分に情熱があるか、周囲の人たちに情熱を感じるか、自他共に情熱の有無を感じ取るアンテナは常に張り巡らせておくべきだと思う。 それによって関わる人を選定したっていい。 情熱のある人間同士が協力し合えば、相乗効果で熱量は一気に増大するし、個人では不可能なことでも可能にすることだってできるかもしれない。 それくらい、情熱というのは生きていく上で最も重要な感情の一つだと思う。 そして、情熱の凄いところは【伝染する】という性質があること。 自分に情熱があれば、関わる周りの人たちに伝染するのも時間の問題であると思う。 

 以上に挙げた10の「目には見えない大切なこと」のうち、この「情熱」は、他9つの大切なこと全てにリンクしているのだとボクは信じている。 情熱のある者は、健康を意識し、忍耐強く、寛容で、信念があり、希望を抱きつつ、勇気をもって行動し、野望を果たすべく、将来の夢を描き、志高く、人生を歩み続けることができる。 今のボクが導き出した指針がこれだ。 こんなふうに生きることができたなら、死に際で後悔することはきっとないだろうと思う。 たとえ明日死ぬとわかっていたとしても。

 皆さん、今回ボクが書いた文章は、100%ボクの思考によって作成されたもの。 目には見えないことのほうが人生においてどれほど大事なことかを皆さんに伝えたかった。 目に見えるもの、耳に聞こえることばかりに左右されない自分を構築していくことで、存在そのものが誰かのプラスになるくらいの人間に、ボクはなるっ!!(本気) 実際に、最後まで読んでみて、今の気持ちはどうだろうか。 読む前と何かしら変化があっただろうか。 願わくば、皆さんの今後の人生のヒントになれば幸い。 今回はここまで! 長文になってしまったけど、最後まで読んでくれてありがとう(・∀・)にっ♬

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