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【#悲しみを癒す白い椅子】新型コロナウィルスは人々の死に対する悲しみさえもこれまでとは違う何かに変えている

 その事実を否定することはできない。それが事実なんだからね。直接的な死因でなくても、このご時世であるが故に、新型コロナウィルスによって全てが包み込まれてしまっているよう。

 敢えて冷静に考えてみると、とある観点から現在を見ることができる。

 昭和の時代から続いてきた文化のうち、一体何がその当時と変わらずに維持されているだろうか。コロナ禍1年目終盤、「人々の生活がコロナ前に戻ることはない」「新しい生活様式」などといったことがまことしやかに囁かれるようになった。

 その時点では、多くの人たちが元の生活に戻ることを期待していた。しかしその期待も、1年半、2年と続くにつれ、諦めざるを得なくなってきた。

 医療現場では、長期間に亘って逼迫状態が続き、現場の人たちは疲弊し、保健所の対応も手が行き届かなくなるといった状況下で、ワクチン接種時の注射器二重使用、接種済み患者への追加接種などの人的ミスが起こり、病院側が謝罪をする一方で政府への批判や改善を要求する主張が厳しさを増した。

 患者が現場で亡くなる瞬間をこんなに連続して目の当たりにした医療従事者もそうはいなかったに違いない。それほどに壮絶な2年間だっただろう。気持ちの整理が追い付かないような状況で、一人一人の患者の死を悲しむ余裕すら与えてもらえない。

 医療従事者への給与増額は、本当に効果があったのかというと、実際には集団離職を引き起こしている病院も出ているわけで、政府が本当に投じるべき税金の使い道とタイミングが後手に回ってしまったことが最大の要因だろうと思われる。

 誰を批判してもどうしようもない行き場のない悲しさや苦痛をどうすればいいか、気が付いたら多くの人たちがそういうことを考えているように見えていた。

 世界の感染者数に対する死亡者数は、2.06%(2021年9月16日現在)。この数値を「わずか」と捉えるのか否か。では、累計感染者数と実際の死者数を示してみる。

 累計感染者数226,236,577人、死亡者数4,654,548人。ザックリ言うと2億2600万人に対して465万人だ。あまりにも膨大すぎる数値で感覚が麻痺しそうな数字。たった2年でカウントされているだけでこの数字。カウントされていない数を含めれば倍以上とも言われている。

 であれば、悲しむ余裕があるはずがないだろう。特にインドでは、目の前に次々と遺体が並べられていき、次々と川に流されていく様子を呆然と立ち尽くして眺めた人たちも大勢いた。

 人間が生きていく中で感じる全てのことは、本人がどう感じるか以外に理由はない。

 「じゃあ、悲しいと思うなら悲しめばいいってことじゃないか、本人が悲しいと感じるんだから!」と言いたくなるのが普通の感情だろうと思う。

 違う境遇に立たされている人たちが感じている悲しみや苦しみの感情を比較しても意味がない、そう言いたくなるだろう。

 ならば、比較しないことも意味がないことにならないか?人は誰しも、自分や家族、友人や恋人、恩人、関係性として近く深い人たちに降りかかる不幸についてはいくら時が流れようとそのことを思い出して悲しみ、苦しむ。

 でも、自分の知らない所で、自分が経験したこともないような悲しみや苦しみに苛まれて打ちひしがれている人たちの存在は知らないわけで、知らないが故に悲しむことも苦しむこともない。

 2001年に起きた9.11のテロは、全世界を震撼させた史上まれにみる恐怖映像として報じられたわけだが、あの日から20年経った今、あのリアルな恐怖を知らない世代もまたおよそ20年かけて生まれてきた。

 知っているから、経験しているから悲しくて、知らないから、経験していないから悲しくない、あたかもそれがまかり通っているように映るのが人間社会だ。その上、映画やドラマといったフィクション作品に涙を流すのもまた人間。

 人は疑似体験でも悲しみを感じ、涙を流す。

 現在のテクノロジーは、仮想現実と現実との融合を目指している。今のところゲーム関連のVRは不振に陥っているものの、IT技術やIoT技術も含め、現実を別の空間へと書き換えるための技術革新が進んでいる。

 精神安定剤のような役割を担うものも今後多く誕生してくるだろう。そうすると、これまで現実に起きた不幸に対して感じる悲しみや苦しみも、本来どんなものだったかを曖昧にするといった影響も当然のように出てくるかもしれない。

 現実というものが、如何に素朴で味気なくてつまらないかを際立たせていくのが仮想空間に構築される世界が及ぼす影響。もちろん、良い意味でも悪い意味でも様々に影響する。

 よくこんな話を聞くことがある。自分が死ぬときには、一人でも多くの人たちに囲まれて息を引き取ることが最高に幸せな死に方だ、と。本当にそうかなと思えてならない。

 現代社会で問題視されている「孤独死」。これは、見た目すごくネガティブで、孤独死と聞くだけでもかなりマイナスイメージを受けてしまう。それもそのはず、「孤独」と「死」という2つのネガティブワードが一つになった言葉だし、実際に、独りで死を迎えるのだから、どこにも一つもポジティブな要素は見当たらない。

 でも、だからと言って、孤独死をネガティブワードとしか捉えられないというのはどこか自ら不幸に向かっていく思考でしかないようにも思える。

 いや、だいぶおかしなことを言っているのはわかるんだけれども、物事も考え方も人それぞれと言いつつも、孤独死、安楽死、自殺などを全て含む「死」は悪いことだと一体誰に刷り込まれたのか。

 近い将来、現在開発が進んでいる「意識の永続的生存」が実現したとすれば、人は意識の上では死ぬことがなくなるという。脳波は電気信号であるため、科学的観点から言えば意識もコンピューター上で担保できるというのだ。

 そうなると今度は、電力が尽きない限り「死ねない」という新たな苦悩が生じるこということが懸念される。「死ねない不幸」は生命にとって最も避けるべきものではないかと思うけれども、ここで宇宙の話をすると、「肉体の無い状態でコンピューター上で意識をずっと保ったまま宇宙を旅することができる」と考えれば、これはこれでとびっきりに面白い発想ではないかとも思えてくる。

 何百年も何千年も何万年も宇宙をフワフワと旅を続ける。肉体から意識が切り離された時点で「死」と判断するのであれば、宇宙の旅は死後の世界とも言える。死後、ずっと宇宙を飛び回れるのなら、こんなに素晴らしい機会はないと思う。

 意識だけなのだから、宇宙が暗かろうがどうしようが恐怖を感じることもないだろう。「あ!ブラックホールだ!吸い込まれるぅー!!」ってなった時がきっと意識の最期になるだろうね?超巨大質量のブラックホールに吸い込まれたら一瞬にして圧縮されてコンピューターなんか砕けてなくなる。

 おそらく、裕福になることを目指して、勉強して、大学に入って、一流企業に入って、結婚して、子育てして、はい幸せな人生でした、といった人生設計は、これからの世代には不向きというか不可能なもので、それに引っ張られるように冠婚葬祭も簡素化してコンパクトブライダルとか家族葬とか、そういう一見小ぎれいなワードで細長く運営されている。

 それでも寺のお坊さんや葬儀屋は高齢化社会において爆発的に儲かっている。コロナ禍でさえも。彼らは人の死と向き合うのが仕事だ。それ故に、向き合う死を悲しむのではなく、残された遺族のケアがメインの仕事だ。陽性のご遺体の顔を見ることも許されない葬儀が相次いていることだろう。

 そういう人たちが実際に大勢いてくれるおかげで社会は何とか回ってる。自分と自分の身の周りに起こる不幸を悲しむことが正しいのか、それこそが人間らしいのか、どうもここ最近わからなくなってきた。まるで、仮想現実と現実の融合を目指すテクノロジーの及ぼす影響のように。

 人はいつか必ず死ぬ。その当たり前のことについては、人として生きている以上、時折、深く思考を巡らせることがあってもいいように思う。

 血の繋がりにこだわるのも、民族にこだわるのも、宗教にこだわるのも、それは好きにすればいい。これまで同様に。ただ、そうも言ってられなくなる時代がすぐそこまで迫ってきているという認識だけは持っておく必要がある。

 ただ、早すぎる死だけは素直に悲しむ。生後何か月の乳幼児が・・・といった内容のニュースには、どうしたって胸を痛める。

 華原朋美さんが、西村ひろゆきさんとの対談動画で、こんなことを言っていた。

 MCの男性から「当時、どういう人が売れたんだと思いますか?何が理由で華原さんは売れたと思いますか?」といったストレートな質問に、彼女はこう答えた。

 「景気が良かったからじゃないですか?」

 1990年代は、高度経済成長の終わり頃で、まだ経済は今よりも活発だった。何をやっても、何を売っても売れた時代。そういう時代で勝負できた人たちと、令和の時代を生きていく人たちとでは、立っている土俵がまるで別であることを華原さんは自覚していたという話。

 そして、つい最近の記事で、堀江貴文さんがこう言っていた。「コロナ禍に資格の勉強をし始める人たちが見落としている根本的な間違い」というヘッドラインでコメントしていた。

 ボクはずっと昔、高校時代から資格そのものに対する疑念を抱えていた。まだ、リストラという状況すら大して理解していない頃のこと。親はやたらと何でもいいから資格を取れと言う。一層疑念は深まる。

 そうこうしているうちに、IT技術革新の波を受け銀行員が数千人、数万人と希望退職やらリストラの対象がうんぬんかんぬんというニュースを見る。AI技術に関連する記事が出回る頃には、自動化で人が要らなくなるという意味の話題が出回る。

 今流行りの、将来需要が高まる資格を取っておけ、そういうバイアスには違和感しかなかった。

 そこで、昨日か一昨日の記事で堀江さんは、「前準備をきっちりしている人ほど、想定外のことが起きた時の落胆は大きくなる」と言っていた。

 まさにその通り。なんかこうね、「未来に備えて」とか「将来のことを考えて今のうちに勉強しておかないと泣きを見るぞ」とか、そうやって何度も脅しに脅されて育った家庭の子は、今の状況をどう見ているかというと、結局何をしておけばよかったかというよりは、何もしてなくてもその時々で想像力を働かせて変化に順応していくことのほうが重要だよねってことに気付いている。

 未来を予測するとか言っている人たちの言うことは大抵ハズレる。ボクは親父に訊いたことがある。経済とか世界情勢がどうなっていくかとかトレンドがどうかとかいうことの予測には自信のあった親父に「コロナ禍の予測はできなかったよね」ってストレートに聞いたら、「そんなものできるわけないだろう」と返された。

 つまりそういうこと。社会は想定外のことが起きたり、急に潮目が変わって社会生活に大きな変化を及ぼすことがあったりと、通常想定はできても100%に近い予測は不可能で、できるとすれば未来予知以外にはないだろうという認識が正常。

 努力も資格の勉強も大学受験も何もかも、自分が描いた人生設計上はうまくいくように描かれているはずでしょう?でも、それがそっくりそのままうまくいくと信じて前準備に奔走するのは、想定外のことが起きた時に壮絶な絶望感に切り替わり跳ね返って来る。

 ハッキリ言ってしまうと、親の言うとおりにしなくて良かったと思っている。親が子を思って言うことが全て正しいとは思わないし、一部にはそうだと納得できることもあったりして、例え親だろうと上司だろうと誰だろうと、人の言うこともその都度自分の頭の中でリアルタイムで咀嚼して振り分けないといけない。そうでなければ指示待ち人間にしかならない。

 そして、「言われたとおりにやったのに無駄だった!」みたいなわけのわからない逆恨みまですることになる。それは逆恨みしたくなるよね。言われたとおりにしたのにうまくいかなくなったら。でも、自分の頭で考えなかったことが最大の原因。

 堀江さんの考え方ってスッと入ってくるからボクは大抵は理解できるけどね。

 あると思っていたことがなくてガッカリするよりも、ないと思っていたことがあった時のほうが幸福度は数十倍も違うと思うんだよね。

 人に期待させるようなことを言う人の罪深さよ、一番の問題は。「これさえやっておけば将来安泰だぞ?」みたいなバイアスね。ボクは一切信じなかったけどね。未来なんかわかるもんかって思ってたから。

 それに、華原さんの言っていることも、心底共感した。時代の流れに左右されることのほうが世の中圧倒的に多い。だから、想定外のことが起きた時の波もデカいし、社会が変化せざるを得ない事態に追い込まれる。

 頑張って資格取ったのに何の役にも立たないっていう現実を突き付けられたら、たぶんボクだったら何もする気が怒らなくなる。だってさ、資格って取得するのは大変でお金もかかる割に、役に立たなくなったら価値はゼロだからね。だいぶリスキーだなーって思う。

 それよりは、何も考えずにとにかく世間の変化をじっくり観察しながら情報を取りに行くほうがずっと目先が具体的に見えてくるから、資格取ることに心血を注ぐよりは視野も広がるんじゃないかなって思う。

 プログラミングでよく聞くPython(パイソン)あるじゃん。あれ、今更勉強始めてもできるようになる頃には役に立たなくなってるからボクはオススメしませんけどね。世間のそういう流れとは無関係に勉強したい人は別ですが。

 一つのことを極める時代は終わり。何のためにやるかを考えながらいろいろ手を付けていくことのほうが幸福度は高まるよ。

 今更ね、寿司の握り方勉強したって回転寿司運営会社の年商には勝てないから。回らない寿司屋も美味しいかもしれないけど、ボクはスーパーの総菜の寿司とか回転寿司で十分満足です(笑)高級でなければならない理由は一つもない。寿司の価値こそ人によって異なるんだろうけど、そこで誰かと競うつもりは毛頭ございませんので(笑)

 親父の古い考え方が現代に求められているとは到底思えないけれども、全てを否定するつもりはない。彼が生きた時代はその時代に通ずる努力や経験がちゃんと活かされるステージもあったわけだから。

 正直ボクら世代は残りカス世代。じいちゃんばあちゃんが資産がっぽり溜め込んで土地や建物や駐車場を牛耳って、若い世代は車離れが起こってるような状態。傍から見ても世代間格差は見てとれるでしょ。

 それでもなお、昭和の古い思想を当てがって努力が足りないとか忍耐力が無いとかよう言えるわ。気候からしてそもそも別次元でしょ、30年前と今とでは。自分らが生きた時代と同じ感覚で今を語られてもウンザリするんだよね、言い方悪いけど。

 古い考え方が悪いと言ってるんじゃない。現代は現代なりの見方や捉え方ができるのなら言えばいいけど、できないなら何も言わないでくれって話。

 葬式で悲しいと思えるかどうかは怪しい。「死んだんだ、そっか、お疲れさん」って思うくらいはするかもしれない。それが精一杯かもしれない。

 おまけに、自分が死ぬ時には泣いてくれる人がそばにいてほしいとか全く思わない。死んでからじゃ何もわからないんだから。いいよいいよそんなの。葬儀とかも必要ない。そういうところに価値を求めても意味ないから。

 生きている今のほうが数千倍も数万倍も大事。ボクに賛同する人がどれだけいるかは知らないけれども、近い考え方の人たち、今は増えてるんじゃないかな??

 どうしても悲しむことから逃れられない、そういう人たちには、悲しみを癒す椅子を与えたい。この椅子に座って、いろいろ考えるんだ。そばには烏と猫がいて、エサを与えて、食べる様子をボケーっと眺めるのさ。そうしているうちに、悲しみは徐々に癒えていく。

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