【#とは】「美味しさ」とは何か・・・。
もし仮に味覚を感知する舌に優劣が存在するのだとしたら・・・という表現を前提に話す。
舌が肥えている人が大衆飯を食べたら「不味い」と感じるかもしれない。牛丼チェーン3社では「すき家」が優勢、次いで「吉野家」、そして「松屋」といった具合に、市場原理によってランク付けされている。
高級グルメにこだわる人にとっては一般大衆の間では人気の食べ物でも、きっと不味いと言うだろうし、普段からそういうものを口にしないように毛嫌いしているかもしれない。
ボクは、庶民の味が大好きで、中でも和食は多種多様な食べ物が存在する中でもダントツで好きだ。
白ご飯に納豆、味噌汁、キャベツの千切りを添えたサバの塩焼き、沢庵、こういう組み合わせであれば、毎日同じでも美味しく食べる。
世界三大珍味、フォアグラ・キャビア・トリュフ、日本三大珍味、うに・このわた・からすみ。昔、素潜りを経験した時にバフンウニを獲って、生で食べたり火で炙って食べたりして、すごくおいしかったのを覚えている。
別に高級食材だからではなく、ただ純粋に、バフンウニの特にオスは、身がしっかりしていて、メスよりも非常にクリーミーで臭みもない。自分がそのように感じたことが全て。
「美味しい」とか「不味い」とかは、「舌の肥え方の優劣」とか「一般的に高級であるか否か」とか「人気の有無」とかで左右されるべきものではないというのがボクの持論。
感じたことが全て。でもね、ボクは舌が肥えているわけではないため、食材として認知されているものなら何でも食べる。好き嫌いがない。そして、食材独特の味や香りや触感のあるものは特に関心をもって食べる。
「オレ、グルメだから」って言う人、あんまりいないとは思うけど(笑)仮に、目の前にそう公言する人が現れた場合には、一瞬でその人に対して興味がなくなる。
「食べる」という行為が殊の外好きな人はいるけれども、ボクの場合は「作業」に偏っている。何を食べても相応においしいと感じられる程度の舌しか持っていないけれども、腹が満たされればいいというその目的のために食事をする傾向にある。
食事は大体10分以内。ゆっくり食べないと体に悪いよみたいなことを言う人いるけど、そんなことは知ったことではない。ほっといてくれだね?
ただし、栄養のバランスは大事ね。だからこそ、ボクみたいに何でも食べる人にとっては、あんまり意識しなくてもバランスよく何でも食べてるんだよ。牛肉、豚肉、鶏肉、魚介類、野菜、果物。
特に果物は、旬のものを四季それぞれで食べている。久々に食べたい、そう思わせてくれるものは年間通していくらでもある。でも、高級かどうか、人気かどうかはその判断する上では全く関係がない。
外食も、このご時世も相まって、かれこれ1年半以上していない。そうして時間を置いてかつて行っていた店で食事をすると、めちゃくちゃ美味しく感じられたりする。
ひろゆきさん関連のYahoo!記事でこんなことが書いてあった。「舌が肥えるとメシが不味くなる」と。舌は肥えれば肥えるほど麻痺していくってことだよね。
高級なメシを食えば人生が豊かになるわけではなく、むしろ、そういう食生活に浸ることで、選択肢が減ることに繋がるわけよね。
どんなことでも、選択肢が減るような習慣は、人生を貧しいものにするし、心、感性、考え方なんかも貧相なものにしてしまうような気はする。
アレもコレも適度に楽しんだり、美味しいと感じられたり、面白いと思えたりすることが死ぬまでにどれだけ体験できるかを試すことで人は豊かになっていく。
誰もさ、痩せることを目標に太る人はいないでしょう。一部には「試しに何キロ太ってみた」みたいなことをやる人もいるだろうけど、痩せるためにやることって体質改善をするために食生活を改めないといけないでしょう?
それがそもそもメンドクサイ。口寂しいから何かを口に入れる、そういう習慣が人を肥満にする。ガムとかラムネ菓子とか飴とか、甘いものをいつも口に入れていないと落ち着かないって人は要注意だよねー。
それよりは、水とかお茶をちょこちょこ飲む習慣のほうが断然カラダに優しい。水分摂取量が一日平均2リットルくらいの人のお肌はみずみずしい。実年齢よりも若く見られるようになる。
ほうれい線が気になる人は、普段の生活で水分摂取量や果物の摂取量が少ないことも要因の一つにカウントされる。化粧水で肌のシワは無くならない。
ちゃんと肌の潤いを保つために必要なものを普段の生活で定期的に摂取するだけでだいぶ違う。別に栄養士レベルの知識が必要だとは思わないけれども、何をどう認識するかで余計なことをしなくて済むようになるってことね。
過剰に摂取すれば何でも毒。水も短時間に7リットル以上を飲んだら水中毒で人は死ぬ。実際に死んだ人もいたらしいけどね。
何でもほどほどが良い。欲は削り落としてなんぼ。そのほうがちょっとしたことでも、麻痺している人たちの何倍もの満足感を得られる。
タバコも酒も、定期的に禁じてみるほうがいい。断食もそう。空腹感を敢えて感じるようにしてから白飯を食えば、普段の何倍ものおいしさを感じられるようになる。
漫画「花の慶次」で前田慶次がこんなことを言っていたね。「人は日に米は三合、畳は一畳あれば十分 そんなことより一献くれまいか?」これはそういうことを言っているんじゃないかな?
「たまにあればそれでいい」というのも人生を豊かにする術なのかもしれないね?
愛の言葉もそう。毎日毎日「愛してるよ」って言うルールみたいなものを互いに課しているカップルは、いずれその言葉を「毎日の作業」として言うようになり、どこかのタイミングから言わなくなる。そういうものよ、言葉も。
「ありがとう」も、思ってないのに言ってることって多々あるでしょう?仕事上、接客業なんかであれば仕事だから言っている人のほうが過半数でしょう?マニュアル上で決まっていることなんだから、店員と客という関係性なら言わないといけない言葉ってあるよね。でも、ほどんどは作業として言っているだけ。
それって必要なんだろうか、もはやみんな麻痺してるんじゃないかなってボクは思う。「店員ならありがとうございますって言うのが普通だろ!」ってキレてる人の言っていることは正論か否か。
客の態度が社会通念上から見て異常なものであるならば、思ってもいない「感謝の言葉」なんか言う必要ないと思うけどね?本音を言えば。客だから偉いわけでもないわけで・・・。
ワクチン接種予約の電話か何かでブチ切れてるおバカさんが全国に多数存在して、受付係員の皆さんは精神的に疲弊しているとかいう記事が出てたけど、思い通りにいかないからキレてるの?係員の態度が悪いからキレてるの?
どちらも違うでしょ。電話すれば予約ができる、日程通りにワクチン接種できる、そういう思い込みとか期待があって、それを裏切られたからキレてるだけでしょう?
でもさ、誰もその期待を裏切るつもりなんかなくて、その期待はブチ切れてる皆さんが勝手に期待しているわけで・・・。
期待って厄介だよね(笑)勝手に抱いた期待にきっと誰かが応えてくれるだろうって、それはお門違いも甚だしい。どういう思考回路してるんだろうって思っちゃうけどね。
満たしてもらえることが当たり前な人ほど、環境の変化によって感じるストレスが尋常ではないものになる。満たされないのが当たり前な人たちは、少し満たされただけで絶大な幸福感を感じられるのさ。
来るときが来たら接種すればいいくらいに思っておけばいい。だって日本には1億人以上の人たちがいるんだから、自分一人がすぐに摂取してもらえるなんておこがましい。
親兄弟にブチ切れる時も、「家族だから理解してもらえる」とかいう期待が前提にあるのがまぁ一般的っちゃ一般的なのかもしれない。ボクもそう思っていたけれども、そうではないことに気付かされたし、それ故に家族間の溝は一度できるとそうそう簡単には埋まらないということにも気付かされた。
親しき中にも礼儀ありとはよく言ったもので、近い関係性だからこそ丁寧な接し方が必要で、むやみやたらに煽ったりバカにしたりすれば、思わぬ不快溝や軋轢が生じることになる。
今はそんなふうに感じている。姉と兄には小さい頃に、わけもわからず無駄に馬鹿にされまくってブチ切れたことがあった。限度を知れ馬鹿者、という意味でね。それから一切期待しなくなった。兄弟とかいう枠が何の意味もないものだと知った。
にもかかわらず、親も兄弟も、親だから、長男だから、なんちゃらかんちゃらってこじつけみたくして言うことが多くて、「だから敬え」と。そういうのを聞かされる度にイライラしていた。
そういうことが繰り返されて、リスペクトするよりも前に、そういうズルい言い回しをして強引に納得させようとしている親や兄弟に期待するのを当の昔に辞めたんだよね。一生そういう考え方で向き合うんだなって思ったら、残念になってきた。
挙句の果てに、「オレの人生は本物だ。でもお前の人生は偽物だ。」といった意味の言葉を電話で言い放った父親には幻滅した。どんだけ自惚れてるんだろうかと思った。あなたが見せた父親像は、その一言で一瞬にして崩れ去ったんだよ。
この事実を打ち消すに足る言葉も行為も、きっとこの世界には存在しない。一つ言えるのは、あなたの過去がどうだろうとそれを否定するつもりは全くないけれども、あなたの人生があたかも成功事例だという前提で子の人生を偽物の人生と見下したことは、虚像を崩壊させるには充分な破壊力だということ。
面と向かって言われたらどうなっていたか分かったものではない。
人の尊厳を踏みにじる言動というのは、一生の傷を与える。
もし、父の言葉でボク自身が自分の人生を偽物だと思い込んでしまったとすれば、おそらくその電話の後に頸動脈を切り裂いて死んでいたに違いない。
でも、例え父の言葉とは言え「他人の言葉」だ。他人というのは「自分以外の誰か」という意味。何でも鵜呑みにしていては人生いつ終わってもおかしくない。
父には過去のあれこれに関する話を何度も聞かされてきた。それ故に、リスペクトもあったし、いつも面白いとも思ったし、衝撃的な話もあって聞いていて飽きる事が無かった。
父に対して抱いていた期待のようなものは、それこそ偽物だったのだということをあの一言が気付かせた。
人に対して無防備に期待をするというのは、結局どんな結果に至ろうとも自分の責任。浮気や不倫をされて発狂する人間は、相手に対して期待をしていたからであって、その期待を裏切られて発狂するわけでしょ。
じゃあ、発狂するに至った発端は何かと言えば、自分が相手に期待をしているところからが始まりだ。期待をさせた人、つまり付き合っている相手はそこに対して何ら責任はない。まぁ、不倫や浮気をしている事実は容認されるものではないけどね?
もうさすがに、謝られても、親らしいことを言われても、おそらく何一つ響くことはないだろう。
でもまぁ、親は子を愛すべきだ、というのも言い過ぎで、世の中には毒親は腐るほど存在するわけで、絶対も正解もないんだよね。ただ、前提に対する認識が間違っていたという事実がそこにあるだけ。何も珍しいことではない。
感じたことが全て。
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