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【#とは】根拠なく信じるのは、疑うために必要な知性に欠陥があるからでは?

 まず最初に、真実を追求することにどれほどの価値があるのかを考える頭は必要だし、信じる前に疑うことの重要性にも気付かないといけない。

 Abemaプライムで「 #Qアノン 」関連の動画が2回配信されていて、どちらとも観たけれども、答えたくないことには「保留」と返す常套句と、基本的に世の中をナメている者たちの集まりで、一般的に言う「学の無さ」を堂々と露呈していることに恥ずかしさの片鱗を見せない人間だと解釈した。

 2回目の配信でようやく理解できたことは、彼らは自分たちを含む多くの人々の生活の困窮、その他あらゆる紛争や戦争などを含む不幸を、彼らの言うところの「ディープステート」の仕業であるとの主張が、世間では陰謀論みたいに言われているものの、これが単なる「ワガママな妄想による虚言」であるということ。

 不買運動を呼び掛けるああいう輩と同じで、「信じるも信じないも本人次第」みたいに責任転嫁しておいて、信じた者が行動に移して事件を起こしてしまっても何ら責任を負わない、一括りにして言えば「卑怯な集団」とも言える。

 でも、どう考えてもQ系の輩とか不買運動を呼び掛ける輩たちの言うことにはいつも根拠がなく一つも真実がない上に、言葉に知性が感じられない。その上さらにそういう輩の言うことを信じてしまう人たちの知性の欠陥は、深刻な状態であることが窺える。

 義務教育の在り方自体はもっと変えようがあったとは思うけれども、小中高12年間でどれだけの教育を受け、どれだけ学んだかということは、不足が多ければ多いほど社会に出てから苦労したり恥をかいたりすることは避けられない。

 でも、社会に出てから学生時代の勉強が如何に大切であったかは働き始めれば誰もが気付かされることでもあるし、気付いた者から率先して学びに勤しんだり、本を読んだり、新しいことに挑戦したりして、「必要な失敗経験」を積み重ねていくことができる。

 ここ最近やたらとね、「失敗」という表現を嫌う人が増えたように感じるんだけれども、失敗に対する認識がそもそもおかしいからじゃないの?って思う。

 人間は、そもそも多くの失敗をしてその都度気付き学び得ることで次に活かすことのできる生き物だ。失敗は失敗として認めることが大事、そういう認識で良いと思うんだけれども、どうもネガティブに捉えがちな人を多く見かける。

 避けられる失敗と予期せぬ失敗、状況によって人がミスをすることは当然ある。次は気を付けようと思っていたってまたミスをすることもある。

 Qアノンやら不買運動を呼び掛ける輩やら、他にも偶像崇拝的な集団は腐るほど存在する。アムウェイなんかの悪徳情報商材もそう。みんなで幸せになりましょう!とか、これを飲めば健康になれます!とか、美容整形もピンキリあるし、めちゃくちゃ疑問なのは「脱毛」。

 お肌ツルツルすっきり美肌=清潔感、、、、はぁ?ってボクは思うんだけどね。例えば、腕や足の毛を全て脱毛したならば、蚊に血を吸われるまで気付けなくなる。1か所では済まないことも増える。毛が生えていれば蚊が止まった瞬間に気付ける。個人差はあるだろうけどね。

 でも、脱毛布教は見事に成功したよね。今となってはメンズ脱毛もあるでしょう?時代がそうさせたと言えばそうなのかもしれないけれども、いつの間にか「当たり前」はアップデートされる。

 美容整形もレーシックも、どれだけ犠牲を払い続けるつもりなんだろうか。どちらかというと、タトゥーのほうがまだマシのような気さえする。見方によってはアートだし、ファッションとの融合なんかも面白いとも思える。

 信じることも選ぶことも本人の自由さ。これは否定しようがない。でもさ、「本当に自分の意思で信じているか」「本当に自分の意思で選択しているか」は別の話ではないかね。

 実在するかしないかで言えば、神も仏も存在はしないよね。「どうも、私が神です。」「どうも、私が仏です。」なんて言う人が現れたら、「いや、思いっきり人間じゃん!!」って言うしかない。

 宗教に分類されるものは挙げればキリがない。ビールはアサヒのスーパードライがいい!エアコンはシャープ以外無理!スマホは絶対にiPhone!!とかいう個人の好みすらも、こうして見ればそれぞれ宗教。多くの場合、モノがどうかよりもモノによってメーカーブランドのネームバリューで選びに行ってるからね。〇〇教の紋章でどこの宗教に入信するかを選んでいるのと大して変わらない。安さしかこだわりがないのも考えものだよね。

 情報の真偽を確かめようと思ったら、ネットだけでは不十分でしょうよ。よほどその分野に精通しているか、そういう分野に人脈があるかでもない限り、個人としてネット上の情報の全ての真実を確かめるなんて無理。だから、信じるよりもまず疑ってかからないといけないのがネット上の情報ではないのかね?ってボクは思うけどね。情報元がどこかにも因るけどね。

 反対に、「目に見えるものしか信じない」とかいう極端なこだわりを持つのもどうかとは思う。それ故に、目には見えない偶像崇拝的なものに騙されてしまいやすくなるという場合もある。

 想像力に乏しいと、信じるべきではないことを疑いもせずに信じてしまうことになる。他人の言うことを疑わずに信じるのは自分の責任だから、信じた結果どうなろうとも自分が悪いのは確か。

 だからね、心の通わない人間の言うことは話半分くらいに聞き流して、あたかも聞いているように振る舞わないといけない。そうして相手から聞いたことの裏を取るのなら取るで構わないけれども、裏を取ってそれがウソだとわかっても相手に追求すべきではないんだよね。無駄だから。

 ほとんどのことは自分の頭で考えて動かないと、誰かの言っていたことを信じた結果ウソだったら責めたくなるでしょ、ウソを教えた相手を。

 でも、ウソを言った相手を責めても何もメリットがないんだから、サイレントで距離を置くだけでいい。どういう意図で自分にウソを吐き散らかしたのか、それもどうでもいい。事実だった場合にのみ信じればいい。真実だろうがウソだろうがどっちでもいいようなことは放置すればいい。

 水を買って飲むという文化が浸透してから何十年と経つけれども、水も元々人の身体には毒で、飲み過ぎればおそらく腎臓が壊れる。清涼飲料水だろうがアルコールだろうが同じ。肉もカップ麺も冷凍食品も同じ。

 グローバル化で食文化が複雑になったことは言うまでもないけれども、未だにマックやスタバに毎日のように通っている人たちの気が知れない。これはもう、科学的根拠がどうかなんて調べなくてもわかりそうなもの。

 今の時代に、食いたい放題食って飲みたい放題飲んで肥満体形になれるなんて、正直考えられない。完全に選択を誤っているのにそのことに向き合おうとしないんだから、自己管理以前の問題があるよね。

 だからと言って、企業に責任はないよね。依存性は確かにあるんだろうけれども、マックに通い続けて太ったならそれは本人の責任だ。その上でデブって言われて傷付くのはおかしくない??言うほうも言うほうだけど。

 そういうおかしなことが今の社会では当たり前みたいに起きている。でもさ、この現実に対してああだのこうだの文句を付けるQとか不買運動とかって、本当に「万人が望む平和?のため」に動いていると思う?

 そんなことより自分の人生と向き合えば?ってボクは思うけどね。挙げるべき声も確かにあるけれども、Qなんてただトランプ大好きなだけじゃん。暴動やらクーデターが海外では起きているけれども、あんなことで自分たちが望む平和が手に入るのなら日本ももっと荒れていると思うんだよね。いやしかし大人しいものだ。

 あっちの人とこっちの人と自分とでは、求めている平和の在り方は違うんだよってことを知るべきではないかね。そうでなければこんなに無数の宗教団体が蔓延するには至ってないでしょう。人が信じるものも数知れずって話よ。いつしか騒がしかったISも宗教だ。武装するかしないかの違いであって、偶像崇拝が好きな集団はいつ暴徒化してもおかしくないのよね。

 敵の敵はこちらにとっても敵という場合もあるし、敵の敵は味方ってこともある。10や100の異種教の目的が一つに重なるなんてことがあったら、戦争だって起こるよね。歴史を振り返れば、連合、連盟、協定を結んでは裏切り別のところと組むなんてこともあったわけだから、これからないとも言えないわけよね。

 信じる、選ぶ、戦う、助ける、こういう自分の行動が自分の意思によるものであり、環境や社会がどうのこうので自分の行動がコロコロ変わるようであっては、いずれ必ず後悔することになる。

 疑ってみて、自分で考えてみて、確かめてみてから行動すること、これ大事。

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