「再現性がない」

ここ最近で自身について言われて一番ぴったりきた言葉だ。
「再現性がない」。「再現性があることが良し」とどこぞで言われ始めた言葉なのだろう。

怠惰か鬱病か発達障害かと疑い続けても答えがない。
私が生きてきて私と決めたことも要因になっている。
自責か他責か、心理的要因か環境的要因かなんてのも原因や責任がどこにあるのかどう取るのかなんてのも虚しい。全てにある。
原始的な脳の俊敏さと集団社会のために規律された脳の固さが何かを切り分けて分断している。

世の中は便利に発展して住みやすくなっていると思う。
どの時代にも環境に有利で強い種と不利で弱い種はいて、どちらも生き方を模索していた。
何十銭、何円が何百円、何千円と値を上げて、どこかの国のようにカフェでコーヒーが一杯千円になったってこの国の人たちは生きていく。

夜明け前深夜にあたる時間にこれを書いている。
昼間の私を信用できないし、夜が明けてからの私も信用ならない。
私を嫌いになっても私の人生を愛している。
何事かに好き嫌いに振り幅はあっても、生まれて生きて死ぬことへの愛に終わりはない。

人と関われば誰かの中の価値観や好感が持てる態度に影響を受けて「自分はだめだ」と何度も思うので、私が私であって私といる時は生きている私を愛そう。
恐怖も不安も嫌悪も怠慢も絶望も、生きていて生まれるすべてを慈しみながら。





2024年5月21日 処理


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