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心生且つ

「あのこは貴族」の映画をやっと観た。
2021年公開当初に観たかった。自分が出会うこれからのリアルにひとつ布石となるような気がしていた。
まっさらな無知よりも先に物語から知識を得ておいたからといって、後悔がないように振る舞えるかはまた別の問題だとしても。

2年前に絡まって資源の道筋がバラバラになってエネルギーが霧散した自分から、やっと一個の人として自分が修復され、分岐の地点に戻れたような気がする。体より頭より心の呼吸が静かに整い出した。
小さく小さく、何かを集めては組み替えては自分なりに整えようとするような、無意識に近い内なる働き。

「リリィ・シュシュのすべて」。
YouTubeで期間限定配信を観ることができた。十数年ぶり、二度目の鑑賞となる。
印象に残った作品を鑑賞し直して、今の自分との変化を確認する。
遠く過去に消えた自分と、根本的な部分で感じたことは変わらなかった。生まれ持った心は同じもの。
歳月と現環境で過敏になったり鈍麻したりするのは心とは別の回路のようだ。老化による身体の変化もそうだけれど、それ以上に脳回路かな。

心の働きに鈍感で、思わず言動に溢れるのは、当たり障りなくちょうどいいところにいようと習慣的に浸かり切った意識から脳が必死で繰り出す言動。よく繋がっていない表情と言葉。
いつも何かズレていてちがう。
教養のなさとでもいえばそれまでだけれど。

「特徴としてこだわりの強さが」などと必ずのように提示される。人間を分類する名称のひとつに付いてくる特徴の説明。
「こんなに適当で妥協し続けていて、何がこだわりの強さだろう?」
「プライドが高い」などとも問題点として知人に度々上げられる。
人並み以上に高いプライドなど持っていない。
ふとした時に誰かの癇に障るような表れ方をしているだけだろう。
それがあっても内側に留めて出さない人と、出してしまう人との違いなだけで。
ありふれて日常的なことに思う。個人的に守りたい人としての基準は在るだろう。
こういう内心反論したくなるようなところを言うのだと思う。

まゆの手入れをしていて、鏡で見る自分の髪や顔色や肌の状態は決して綺麗とは言えない。けれど妙に落ち着いた。もし仮に自分の内なる声や他人が、「こうすれば綺麗になるよ」などと声をかけてきても「いや今はこれが落ち着く」と断るだろう。こういうところだろう。今の私が落ち着くというところを聞いて欲しい。人に願うことがあるとすれば。

「変えるとすれば外見を変えるのが比較的簡単」とあって、それは確かにそう思う。
今、自分の外見のケアを怠っているので、ほんの少し手を加えただけでも変化を感じられるだろう。良い方向に。

髪を年々短くしていて、時間と共に馴染んで落ち着く。
髪が長かった頃は「落ち着く」ということがなかった。「長い」「在る」と認識した年頃からはずっと。いつもしっくり来ない。邪魔に感じて仕方ない。心地好いよりもイライラする。
切る度に嘘偽りなく「軽くなった」「スッキリした」と思える。毎回美容師に感謝と共に伝える。自身の心と体が繋がった気がして開ける。
鏡を見たのをきっかけに、カット欲が湧いてきた。そろそろ人生で一度はしてみたかった坊主にしてもいい頃合かもしれない。
長い髪からいきなり坊主にするのは変化が大きくて馴染むよりもショックが大きいかもしれないと渋っていた。人の視線や感想を怖がるし、体感の変化にも弱いので。顔周りは特に、どうしても人を判別する箇所として目につくところであるし、少しずつ慣らそうと。
長年知っている身内がギョッとすると何か申し訳ない気もする。いい加減そろそろ慣れたとは思う。

慣れる時は自分の生活に付随する環境と一緒に慣れなくてはいけない。私はそう感じる。
自分は何かの従属物でも何でもないけれど、自分の中だけの自由選択は私自身も混乱させてしまう。脳と体と心と、自分がバラバラでチグハグで困るような、そんな私だからそう思う。
髪を切ろうが、どんな趣味を持とうが、どんな仕事、どんな暮らしをしようが、独断で何をしようと、法律や規約の中、違反にならないものならば自分や誰を不愉快にさせようと国民の権利として自由だ。

心で苦しむことも、頭で悩むことも、私の狭い狭い範囲内の自由であり、得る時も手放す時も誰に許可が欲しいかも自分で決める。今はそれができそうだ。何となく、そういうタイミングを感じる。ここでこう書いている今はそうだ。

書かなくてもいいことと思いながらも書くと、また間違えたと思うことがあった。何度目かわからない修正できない不愉快なまちがい。
自分の言動が乱雑になる時、状況を読み返しても振り返ってもどのみち起きた事実には後悔する。
自分と誰かの頭の中に無意識にも常識として根付いている態度や言葉から察する暗喩のような何かにまで気は回らなかった。
日本人の使う日本語は、日常会話になればなるほどに正しくないからだ。せめて修正の利く文章の中でくらいは慎重になりたい。
嫌にならない程度に。

これからの冬を思わせる風が庭一体に吹き抜けて、甘い香りも感じた。
幼い頃の自分の視界が脳裏に断片的に過り、不意の過去の情景に救われるような時がある。
数年以内の出来事の想起では思い出せなかった感覚。
子どもの頃と大人になってからでは、出会いやすい出来事も異なっていて、その分「喜び」の質感も異なっている。
自分の内側に芽生えた新しい何かを知っても、すぐに自分として認めていくのは難しい。
その感情や感覚が好きか。また求めてみようか。
その選択の自由。

全部たまたまで、たまたま、今の季節と土地が私にそう思わせる。
近所とは言え、暮らし方はとても変わった。
あの時、あと場所でしか与えられない何かがあった。

今もどうだろう。いつも有難いとは思ってる。
また欲しいか、求めるかは迷い続ける。


2023年10月13日 処理



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