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なんでもいいから書きたい

内容を度外視したままただ書くと、自分の中は不器用さや未整理の過去の負の思考ばかりで、やっぱり後悔するのだけど、ただ書きたい欲だけは今確かにあるので、またいつかのように布団から起き上がれずに携帯でそれをしよう。
決していい心地でも堂々と胸を張れた有様でもないけれど、いつかのあの頃よりはどっかしらで苦痛が小さいんじゃないかと思ってみたりする。

悪くなったところの方が普段の不安や心配でより目立って感じられるのだけど、あえて注目しやしない良くなった部分もたくさんある。私が生活と社会と私自身も含め人の中で堂々といるには足りないものがずっと多いけれど、望むとキリがないから、地道に得てきた幸福が私の中に光となって今もゆらゆらしている。
だから私は現状の見え方と私の中にある困り事と幸福感がまったく繋がらないことに戸惑っている。
この自分の中にたくさんある感覚や思考、想像などが一人の人間の中でひとつの循環をなさない部分で私は困惑しているけれど、それ自体は別に病気ではないらしい。生きていて自分が困るか、私と関わる人々が困るか、或いはそのどちらもかということ。

私が外に出づらい、人と顔を合わせづらい時というのは、私自身が私を見た時に、「こういう部分がある人とは関わりたくないなあ」と思う要因を幾つも想像してしまうからだ。
一度はそこそこの生活を身につけてしまった者として、やはり今のできないことだらけで振るい立てない自分は不本意で認められないんだろう。自分が思うことは決して珍しいことではなく、ありふれたものなので、底辺に落ちたことのない人、もしくは落ちたくない人から見れば知りたくもないひとつの人間の現実の姿である。私もできれば今の私は仮の姿であって欲しい。

私の中にある人に対しての直感的偏見はそれぞれ、①私自身が無知の頃に示した個人的に備わっている本能と性格による無自覚で純粋な反応と、②私自身が無知であることを自覚して知識を調べて予想した見解と、③私が私自身も含め人との生活の中で体験して覚えた経験則とがあって、複合して直感として現れる。
これらはどれも学習としては理知的な反応に見れるけれど、ここに大きく恐れや不安が覆い被さるとそれらがコントロール軸に大きく関わってくるので、私の反応は人の中でよろしくなくなる。
私が困っているのは「偏見が生まれる仕組み」ではなく人も関わりを増やしていく学習過程において必要以上に行動や態度を左右する「恐怖心」だ。これは自分だけではなく、同じ空間を共有する他人からも影響される。

そういえば、私はいつから?
恐怖心が別のものにすり変わってしまったんだろう。やっと通り過ぎてやっていけると思えた頃にゆり戻されてまた同じ恐怖と不安の中にいる。マイナスからやっと1へ立てたようなところでまたマイナスへ。それもまたいつ抜け出せるかもわからない、長くかかるだろうことに辟易してしまう気持ちと戦って。二度三度繰り返すとコツを得ることも多いけれど、うんざりしていることも多い。私だけでなく周囲の苦労も窺える。頭に重く足枷になってしまうなら考えたくない。
生きる目的や好きなものが薄れてしまった頃からだろうか。自分の中で確かに信じていたものや自信がなくなったので、ゆるやかに新しい人生を形成していく途中だった。悪くはなかったと思う。

会社勤めが板に付いてきた頃、独力ではどうにもならない仕事の学習過程に及んで、人から仕事を教えてもらったり助けてもらったりするために、自分の心境が変わっていったような気がする。それまではほぼ最初の教育者から教えられたらあとは自分がやるだけであって、その時その時の仕事で組む人は変わっており、派閥に組み込まれるようなやりにくさを感じることはなかった。
私を私を生きていける、私の中でなんとかやっていけると自信と覚悟が生まれてしまったことで、いざ無理(またもバーンアウトだった。積載量オーバーです)だった時に大きな挫折になってしまったのだろうか。

私の心のあり方の問題で、私が大きく困るのなら、私はまた心の形成を見直さなくてはならない。
イメージで自信をつけても実績は変わらない。気分に頼って物事を突破しようとしていたことは頷ける。
実績を作れないような人間として生きていくしかないと覚悟したんだ、気分以外に何に頼れる。せめて気分が良い時くらいはできる気になってもいいだろう。何もできないと思い込んだまま何もできないままじゃないか。しかし、その「やってもいないのに答えは出せない。やればできる」の気持ちのせいで自分を貶めてしまったのかと思うと心苦しい。

心ってなぜあるのか。
ないように淡々と事を済ませるように振舞っても怒られ、あるように表現しても仕事は進まない。
私は容量が少なく不器用なので、必要だとしてもどっちもはできない。
人間関係はどうしても苦しい。みながぶち当たって感じることなのに、どうして悪い方へ傾いてしまう。「いいように考えよう」としてる時点で労力が発生していて良くない。

今の本当にいい部分を抽出したい。
「インターネットで文章が書けてる」
幸せだな。
今はこれが最大。




後記

目覚めに頭の中の雑念を紙のノートに書き切ってしまおう、というストレス発散法や思考の整理術がありますが、机に向かってペンを握る元気がない時は寝転がって電子端末ででも多少の効果はあるようです。
何かを行う前の助走にはなりました。

この後動けそうで嬉しい!!!!(気分へんちょーしょーー!!←皮肉な事実)

誰が読むともわからないインターネットを完全なる独り善がりの現状遺棄場所に乱文を叩き出しているけれど、手段や道具を丁寧に選んでいる余裕がない。
これすらも許してもらえないのならば言論の自由とは何ぞや弱者に厳しすぎるインターネット社会になりましょう。

過去ウン十年と溜め込んできた困り事や怒り事が、小さなことが延々と重なって解決される糸口もないまま(自分が生活区間を変えてその場から消えることで一挙解決しようとして失敗し、むしろストレスフルに!←我ながら皮肉)今も頭の中のワーキングメモリーを圧迫していることに気付いたので、少しこの作業を続けようと思います。

白い紙に手書きで書き出すと字面からおどろおどろしくなって、感情も頭も手も使うので疲れやすく、私自身が客観的に見て怖くなるという現象があって(苦笑)、恥ずかしくも申し訳なくもこういった場所を利用させてもらうことが多いのですが、何をどう思われるなどの恥や、こういった弱者の心理を利用しようとするずるい人に引っかかるかもしれないなどの不安よりも、「誰かはなんとなく見てくれる」という現象に私は救いを感じて仕方ないです。

私の中を圧迫している有象無象がもう少し出ていってくれたら、もう少しインプットしていけることも増えるのではと、人の報告を心地よく受け取れるのではないかと自身に期待しています。

夜の外気を心地よく浴びに散歩に参ります。
みなさんの幸福な一瞬を願って。

2023年11月29日 伏せっている間に11月も終わるとザワつく処理


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