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プレイヤー

 街灯の明かりが少しずつ減っていき、交代を告げられた朝焼けが頭上の空に橙と青のグラデーションをつくった。
 両手で囲う小さな窓から人々を覗く。
 駅の改札から溜息のように吐き出されたた人々はスクランブル交差点で歩行者信号が変わるのを待っていた。

「いい加減プロになりなよ。生徒はあくまで生徒。割り切らないと」

 実習の時も、就職面接の時も着続けてきたスーツを纏い、彼女はパンツのポケットに手を突っこんでいる。ジャケットの上にはアイボリーのライトダウンを羽織り、首に巻いたマフラーを彼女が口元に寄せ、頭をうずめるとマフラーに収まった後ろ髪が僅かに撓んだ。
 彼女が出てきた駅とは反対側にいるカラスが紙くずをつついているのを見ながら、彼女はスクランブル交差点で信号待ちをしていて、その隣にはこれから家に帰るであろう気怠そうな若者が二人、肩を組みあっている。
 彼女は進学塾の講師で、昨晩は大学の同期であり、彼女が教師として働いていた時の高校に偶然赴任することになった彼氏の部屋にいた。
 二日酔いと彼の言葉が彼女の頭の中で今も響いている。
 紅葉が終わり、包まれているような陽気が去っていくとともに、受験生は追い込みに入る。答案用紙と対峙し、強張った両肩が並び、テスト開始の合図とともに出走したが如く、ペンが走り出す。
 カルチャー雑誌が好きで何度か映画をお勧めし合った彼女も、講義中隠れてお菓子を食べていた彼も、何かとちょっかいをっかけてきて構うたびに嬉しそうに笑う彼も、誰もが両親の期待を背負い、目の前の問題を凝視して浮かんだ答えを当てはめていく。
 その空間には当たり前だが、笑顔はない。ただペンが机をたたく音だけが響き続けていて、彼女は未だにどうしてもその緊迫感に馴染めないでいる。
 出力された学内ランキングを彼女が廊下に貼りだすと生徒が殺到した。勢いに押されながら彼女は生徒の顔を見回した。一喜一憂する生徒達は、点数の良し悪しに関係なく、表情には焦燥感疲労が滲んでいた。
 彼らは今、頑張っている。
 だからそんな考えは捨てて、自分も彼らに尽くしてあげないと。
 彼女はそう思うが、やはりその場の空気に馴染めなかった。

「お前、ほんと付き合い悪くなったよな」

 駅とは反対側に立つ彼は歩行者信号が変わるのを待っていた。
 駅側に立っていて、マフラーに顔をうずめている彼女を眺めながら、彼は昔付き合っていた彼女とサイズ感や、猫背なところが似てると思いながら、パーカーのポケットを探る。
 彼がメモ帳と、鉛筆を手に持った時、彼の友人が肩を抱きながら、そう言った。
 彼は今、目についた彼女をデッサンしようと無意識に道具を取り出そうとしていたところだった。
 彼は専門学校に通い、自動車部品の整備工場に就職した。母親は商店街から少し外れた路地でスナックを営んでいて、父親は彼が小学校に上がる前に蒸発した。
 彼は親の金で養ってもらっていることを幼いの頃から自覚していて、だから早く働きたくて、社員寮のある工場に就職した。就職すると家に給料を入れられるようになり、前より母親の顔色は良くなった気がした。だが、どこか満たされない日々が続いた。
 20歳になったある日、彼は母親が営むスナック意外に行きつけの飲み屋ができた。
 赤提灯が似合う小さな居酒屋だった。
 そこで偶然隣に座った壮年の男と薬師丸ひろ子の良さを語らい、意気投合して夜が明けるまで飲んだ。久々に呑みすぎた朝、彼は男の部屋にいた。コンクリート打ちっぱなしの武骨なそこは部屋というより、アトリエだった。
 問いかけると、男はフライヤーを彼に手渡した。
 男は画家で、フライヤーには会期中の個展の詳細が記されていた。
 それが半年前の出来事だ。
 彼の中で、その時の光景は今朝見てきたように息をしている。
 昨日彼は昼休憩中に立ち寄ったコンビニで芸能雑誌を手に取りグラビアのページを眺めていた。すると以前は映っている彼女自身にしか興味がわかず、スタイルや各パーツの丸みや膨らみを眺めながら、抱き心地はどうだろうかと妄想していた。
 だが、今はポーズや、構図、色合いのバランスが気になっていた。抱きたいとしか思っていなかったグラビアモデルが、今の彼には被写体として映っていて、そのことを飲み屋で知り合った画家に芸能雑誌のページを開きながら言うと、男は笑って嬉しそうに彼の肩を叩いた。
 彼はずっと求めていた会話ができた気がして、堪らなくそれが嬉しかった。
 だからその後入った油そば屋でたまたま出くわした専門時代の同期とカラオケに行くことになり、いつの間にか同期の男の知り合いの女が二人来て、その後入ったバーで付き合いが悪くなったと言われ続けてもなんとも思わなかった。
 頭の中でウィンカーが鳴りだして、左折を待ち続けているような焦燥感が常にあり、彼にはその切迫感がどこか心地よかった。
 そんな彼は、画家になりたいという願いを、まだ母親に打ち明けていない。

「そいつ、バイだからあんま近寄んない方がいいよ」

 信号待ちをしながら騒いでいる二人の若者、その隣にはヘッドホンで両耳を覆い、鼓膜を揺さぶる轟音で何とか学校へ向かうとしている男子学生がいる。
 彼のクラスには担任が黙認したまま今も続いているいじめがあった。その生徒Aと彼は入学当初、お互いを認知しておらず、クラス替えが行われて同じクラスになっても挨拶すら交わしていなかった。
 彼がAと知り合ったのは、いじめが始まってからだった。
 昔のテレビドラマのように靴に画鋲を仕込んだり、鳥の死体を下駄箱に詰め込まれていたり、机に自殺をほのめかすような落書きはない。陰口で、ネットで、ラインで異端者はゆっくりと炙られていく。
 そのため、彼は最初、Aがいじめられていることを知らなかった。それは彼がもともと、クラスの誰と誰が付き合っているとか、仲がいいとか、最近絶交したとかそういった事情に興味がなかったからかもしれない。
 彼の興味はもっぱら音楽で、もっといえばデスクトップミュージックで、知り合いの居酒屋がコロナの影響で土日限定でやり始めた昼営業を手伝いながら欲しいMPCを買うために貯金している。
 彼とAの出逢いはCDショップの視聴コーナーだった。
 使い込まれひび割れたイヤーパッドで両耳を抑えながら静かに揺れるAに何となく既視感があり、彼は近づいた。すると、気配を感じたのか、ゴムで反動がついたように瞬時にAが振り返り、凝視された。彼の目にAは対象が自分にとって、脅威か否かを判定しているかのように映った。
 だが、話しかけるとAは目を輝かせて音楽の話をしだし、彼もまた目を輝かせ、好きなビートメーカーの話で盛り上がった。
 今まで彼には、月曜日の怠さや、教科担任の特徴的な喋り方や口癖を笑い合う仲間はいたが、音楽の話を熱意をもって語り合える友人が誰一人いなかった。周りは大抵、流行りのポップスが好きで、たまに昔の曲の話題が挙がるが、その話題に参加してみると曲の良さではなく、どこかの誰かが勝手にやりだした振り付けのをモノマネをして盛り上がるのが関の山で、結局、共有し合える人は誰もいなかった。
 それでも、彼は構わなかった。
 好きな音楽がサブスクリプションのおかげで新旧、国境も問わず、毎日漁れて、家に帰れば父親の部屋でレコードが聴ける。
 スマホで聞いていた曲の音源が父親の部屋で見つかる。そういった偶然が時折あるだけで十分彼は幸せだと思っていた。
 だが、分かち合える人間は傍にいた。その事実を彼は知ってしまった。
 Aと意気投合した翌日、彼はAに話しかけようと思ったが、生来の人見知りが邪魔をして、一言もしゃべりかけないまま、一日が終わった。その次の日も、喋りかけられず、彼は自分の肝の小ささを恥じて死にたくなった。それでも好奇心は日ごとに強まっていった。
 その日は帰りのホームルームが終わった後で、誰よりも早くAが教室を出ていった。
 彼はその行動に共感しかなかった。
 なぜなら彼らが初めて意気投合したトラックメーカーが出すEPの発売日だったからだ。
 彼は急いで荷物をまとめ、教室を飛び出しAを追尾した。だが、彼は昇降口ではなく体育館の方へ走っていく。彼は体育館に飛び込んだAの肩を掴んだ。
 振り返ったAは彼を見ていなかった。
 そのことに気づいて、彼も後ろを振り返ると今日、欠席だったはずの男子生徒が立っていた。
 身長178センチ。扉に寄りかかっている姿も、どこかしなやかで、黒髪で、センターパートで、女性のような顔立ちをしていて、左目の下に涙黒子があった。
 不敵に笑った男子生徒は彼を突き飛ばしAの前髪を掴み、そのまま体育倉庫へ連れていき、鍵を開ける。Aはマットに押し倒された。男子生徒は倉庫の扉を閉めるとき、彼を凝視したまま、口元に人差し指を立てて笑っていた。彼は微動だに出来なかった。
 誰もいない体育館に、Aの嗚咽と肌同士が強くぶつかり合う音が聞こえていた。逃げ帰ってもぐりこんだベッドで眠りに就こうとすると、Aの嗚咽がどこかから聞こえてきて、彼はヘッドホンで今も音楽を流し続けている。
 男子生徒にとってAはいじめのターゲットであり、誰にも渡したくない所有物でもあった。
 例えるなら、王子専属の奴隷だ。
 そしてAには、ストックホルム症候群がきっかけで愛が芽生えてしまった。つまり今や、この状況を、地獄を、Aは望んでいた。もちろんそこに彼が介在する余白はない。
 彼はこの相関図に気づいていなかった。
 確かに悪寒はあり、そういった予想もしたが、彼はそれでも接点を持ってしまったからには、何かAのために動かないと。いじめを止めないと。
 そう思いながら愚直に信号が変わるのを待ち続けている。

「あー、さっぶ。部屋もどろ」

 寝間着姿で、髭はもう一週間剃っていない。机の上には締め切り前日の原稿の直しが散らばっていて、赤だらけ、大幅な加筆修正がいる。雑誌連載と並行して進めていると担当に言ってある書きかけの長編小説はまだ第一稿の半ば過ぎで止まっている。
 彼は専業になり切れない小説家で、大衆も目にする大賞に時折、ノミネートされるが、一度も獲ったことはない。
 締め切りが迫っていて、彼は家とコンビニの往復以外、外出をしていなかった。その為ほとんど刺激がなく、彼はベランダに出る時スマホで動画投稿サイトを開いて、なんでもいいからリアルタイムで外の様子を配信し続けているチャンネルを漁り、見つけた。
 それはスクランブル交差点を上から見下ろすアングルで撮り続けているチャンネルだった。
 彼の目に着いたのは三人。

 一人は、出勤前のOLに見える二十代後半辺りの女で、
 一人は、さんざ夜を遊びつくして、気怠そうに信号待ちをしている若い男で、
 もう一人は、その隣でヘッドホンをつけて俯いている男子学生だ。

 彼はたばこを吸いながら、目についた人間が今どんな状況で、なにを考えているのかを勝手に作り上げていく。そんな遊びをしていると、だんだんありきたりではつまらなくなり、特に男子学生のところは色濃く人間の暗部を混ぜた。
 幼いころも、今も、彼は他人の人生を勝手に夢想するのが好きだった。
 そうすれば、横ばいのままで保ち続けていた成績も、親の期待とは真反対に進んだ進路も、それなりに虐げられてきた過去も、他人の人生を想像している時だけは考えないで済んだからだ。
 そして今、彼は全くアイデアが思いつかないことを考えないため、他人の生に思いを巡らせている。眺めているとやがて、歩行者信号の赤が点滅し始めたのか、人だかりが横に散らばりながら進み始めた。

 スクランブル交差点に風が吹く。
 駅側に立っていた彼女が、
 その向かいの彼が、
 そして隣の少年が、
 顔の前で指先を合わせて、隙間に吐息を送り込む。そして僅かな温もりを右の掌と左の掌で分かち合うように擦り合わせた。小説家もまた体が冷えてきて、同じポーズをとっていた。

 彼は、ふと思う。
 まるで祈っているみたいだな、と。

 小説家の頭の中にひらめきが舞い降りて思わず口元が緩んだ。
 神頼みもやってみるものだと、小説家は思った。

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