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シーブリーズ

「私たち、どこかでお会いしてませんか?」

「え?」

「いや、だから、どこかで……」

 上映開始5分前。
 予告編を流すスクリーンと室内灯の明かりを女の顔が遮る。今すぐ後ろに飛んで遠ざかりたいが、シートの背が彼女の逃避を阻む。
 自分は彼女とどこかの通りですれ違ったのだろうか。それとも学生時代のクラスメイトか、専門時代のルームメイトだろうか。そもそも全く知らない他人なのだろうか。
 判別するには情報があまりにも少な過ぎて、結局、彼女は上映開始からエンドロールまで、女の顔がちらついて本編に集中できなかった。それだけでなく、女が座席から立って劇場を出ていっても彼女は席を立てなかった。
 帰りがけ、通りを歩く彼女は新作のバッグがディスプレイされているブランド店のショーウィンドウに映る自分を見る。彼女は見回し、確認する。纏う服はもちろん、爪も首元も手首も、足元だって隙はないはずだ。
 来週、彼女は目元を切開する予定だ。昔から彼女は、蜆のような目がコンプレックスだった。そんな彼女の目が今は、蛤ほど大きい。

 彼女は潮と錆びの臭いがする港町で生まれ育った。
 婆ちゃんにそんなことを言ったらきっと、親からもらった身体になんて罰当たりなことするんだと叱られるんだろうな。そんなことを思いながら彼女はタクシーを捕まえる。
 厚さ0.08弱。
 最近マッチングした男がコンドームの方が薄いじゃんと笑っていたことを彼女はふと、思い出す。
 カラーコンタクト越しに彼女は新宿の夜景を見る。
 目的地は白金台で、彼女はSNSを通じて仲良くなった知り合いのホームパーティーに合流する。フロントミラーに映る運転手の視線を感じて、彼女は窓際に身体を寄せる。父親と同じ歳くらいの男性からの視線は鑢のようで、彼女の細い腕や胸元をざらついた感触で撫でたが、その視線によって彼女は自分が女であることを自覚する。
 レイトショー後でも街は明るい。彼女の脳裏に地元の海岸が過る。おそらくこの時間でも光を放っているのはウミホタルくらいだろう。 
 ずっと手芸部だった彼女は何となくファッションに興味があった。
 街に一つしかない本屋にはティーン雑誌が一つも置いておらず、店主の老婆に掛け合って、取り寄せてもらい彼女は初めてその世界の華やかさに触れた。表紙から特集ページ、街中で撮ったスナップショット。何から何まで彼女にとっては新鮮で、船に上げられた鯵のように胸の中が騒ぎ、彼女は上京した。
 
 彼女は服飾系の専門学校に入り、のめり込んでいった。そのおかげで彼女はパタンナーになれた。来月にはチームで作り上げてきたコレクションが控えている。

「そこの信号でいいです。下ろしてください」

 彼女はスマートフォンで決済し、タクシーを飛び出す。前髪で目元を隠して背を丸めた女学生と、どこの誰かも知らない女に追いつかれないように、あるいは、潮風が鼻先を捕えるその前に。

 彼女は街を駆けていく。

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