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アンビエント

「お買い上げありがとうございました。おやすみなさい」

 老婆に雑貨屋の店主が頭を下げる。家に帰った老婆はラジオを聴きながら買ってきた鉢植えに月下美人の種を植えた。
 老婆の家の庭の前を老人が通りかかる。皺と血管が幾つも浮かぶ手を引くのは黒い犬で足取りは鈍い。
 犬と目が合った学生は自転車に跨り、総菜パンを咥えている。
 学生たちが帰った進学塾の明かりは消え、講師たちが家路をたどる。男の講師が女の講師を飲みに誘うが断られてしまう。
 誘いを断った彼女は姉夫婦が営む珈琲屋へ向かう。姉夫婦はちょうど今、店を閉めたところで、三人はテーブルを囲んだ。
 店内に置かれたテーブルを作った男が店の前を通り過ぎると、窓越しにラジオと笑い声が聞こえてくる。

「今は野暮か。おやすみなさい」

 男は会釈だけして入ろうとしなかった。
 店に向かって頭を下げた男を見て、主婦が自転車を止める。肩にかけたエコバッグには森の香りがするバスソルトが入っている。夫が実家で子供を預かっているため、彼女は今日、一人悠々と入浴を満喫する予定だ。
 息子をあやす夫は初めて妻の苦労を思い知る。親の協力も得て、やっと息子を寝かせることに成功すると、寝顔がいつもより健やかで、可愛らしく見えた。
 寝室を出ると、両親がラジオを聴きながら泣いていた。音楽家の追悼特集がやっていたらしい。

「今夜もお付き合い頂きありがとうございました。それではおやすみなさい」

 番組内容を変えて行った収録を終え、ラジオパーソナリティが家に着く。
 レコードプレーヤーからはアンビエントが流れ、彼は喧騒を忘れる。
 街が寝静まり、夢に誘われた彼は音楽家と出逢う。
 白雪のような髪で、面長で、優しげな目付きをした音楽家だ。

「おやすみなさい」

 音楽家は鍵盤に指を浸していた。

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