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ボディ・テンプラチャー

 駐車場に止めてある車のフロントガラスの隅に、霜が降り始めた日の明け方、ベッドのそばに置いてある丸椅子はしんと冷えていて、座面にはまだ日の光の温かさがない。
 だから際立っているように感じるのだろうかと、彼は思う。
 開いた股の間に置いた両方の掌は湿っていて、座面と掌の間に籠る熱は解放してくれと叫んでいるかのように熱い。

「これであなたの身体は、あなただけのものではなくなったからね」

「お―――、うん」

 首の後ろから釘を刺されたように、喉の真ん中で言葉が詰まり、出てこなくなる。彼は彼女の言葉の重量に従い、頷くしかなかった。
 生まれたばかりの娘を抱いた彼女の前髪は汗で乱れていて、顔は自分が持っていたすべての熱を我が子に上げてしまったかのように白い。彼は抱き上げた赤子の顔を見下ろす。赤子を見つめていると、娘の顔が彼女にも自分にも似ていないように見えた。
 重さ、2500グラム未満。早産だった。
 彼は確かめるように見つめる。それは、取り違えた別の子のように、まるで実感が湧かなかったからだろう。

 それから、彼はその時のことを思い出せなくなるほど、慌ただしく、我武者羅に日々を走り抜けていく。低体重児で生まれた彼の娘はそれなりに育児で苦労したものの、日々、一喜一憂するたびに、あっという間に両足で立つようになり、こちらが辟易するほど公園を駆け回るようになった。

「パパ、もう一回! もう一回!」

 雲梯の向こう側に見える夕陽が眩しい。
 園内にいる子供たちは誰彼も全速力で走り、たとえ転んだとしても、親の心配をよそにまた走っていってしまう。
 この時間になるともう、息が微かに白く、今年のプレゼントは何にしようかと彼は思った。よそ見をしていると、肩が抜けそうなほど力強く腕を引っ張られ、彼はその引力に従い、滑り台へ向かって小走りで駆けていく。連勤続きで足が縺れそうになった時、彼は、あの日、出産直後の彼女にかけようとしていた言葉を思い出した。
 おめでとう。
 そう、彼は彼女に言いそうになった。
 今思えば、その言葉は彼が彼女のことを妻として認識していない証拠だった。であれば、彼女を前にしてなんと声をかけるべきだったのだろうと彼は考えてみる。例えば、お疲れさまならどうだろう。さっきよりもマシな気がしたが、ねぎらう言葉もやはりその場にそぐわない気がする。
 であれば、先頭の母音から見直してみよう。あの日の、あの瞬間を彼は頭の中で何度も試行し、そして家路の途中で立ち止まった。

「ありがとうで、よかったんだ」

 呟いた瞬間、急に立ち止まり動かなくなった父親を娘は見上げる。彼の見つめる先にはやけに大きく見える月があり、娘の視線の先には震えている父親の肩があった。笑っているのか、泣いているのか、それともただ寒いだけなのかが分からず、娘が父親の手を強く握ると、彼が彼女の方を見て微笑む。
 彼の瞳に、覗き込むようにして父親の顔色をうかがう娘の顔が映る。外が寒いからか、握られている小さな掌と彼の目頭の熱だけがやけに際立つ。
 手を引かれ、彼は娘に連れられ、また歩きはじめる。
 彼はその時、妊婦になり、あまり好き嫌いがなかった彼女が急に偏食家になったことを思い出し、コンビニでドーナツを買う。
 腕をぶんぶんと、縄のごとく、振り回されながら彼は娘と一緒に家に帰っていった。

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