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9.5カラット

 だらしない母はいつも妹のように私に甘えてきたが、時折、母らしい顔をすることがあった。この時も母は、母の顔をしていた。だからこそ、私はもう二度と母がこの家に帰ってこないのがわかった。村中から''売女''と揶揄された母は私に別れの言葉を残していった。

「女の涙は飾りじゃない。だから、然るべき時に使うの。そうやって強かに生きなさい」

 両肩を掴み、母は私に向かってわかったかと念押しをした。
 それからキャリーバックのキャスターが石畳の上を転がっていった。雨音のようだったが、そこから1週間、晴れが続き、隣の家の葉物野菜が例年より早く成長したせいで、私は畑一面に広がった黄緑をまざまざと見せつけられる羽目になった。

 結局、お歴々と折り合いがつかなく、村長の次男坊を誑かした女にされた私は何もかもが嫌になり、高校卒業と同時に家を出た。父は憔悴していた。私は東京行の夜行バスの停車場まで母方の祖父に送ってもらい、上京を果たした。
 家出少女だった私に対して、男はやさしくしてくれたが、代償を支払わせた。
 乱暴に掴むやつもいれば、赤子のように撫でる人もいて、そうやって幾人もの男が私の身体を通過していくうちに、水商売から抜け出せなくなった。
 弁当すら入らない小綺麗なバッグを肩にかけ、私は夜の街に出掛けた。
 速い車に乗っけられても急にスピンかけられても怖くはなかった。男たちはそんな私の見てくれを珍しがり、求めた。
 だから理想を魅せてやると、男達は猿のように喜んだ。
 ベッドの上でも、運転席でも、バーのハイチェストに腰掛けていても、男は等しくお山の大将だった。

「お前はきれいだからいい」

 男はよく、私をそう評した。
 微笑んでやると男たちは悪どくはにかんで、洗ってもいない手で私の乳房を弄った。
 私は母と過ごした最後の瞬間でさえ、泣かなかった。それは泣いたりするのは違うと感じていたからだ。母は死んでしまったのか。それともまだどこかで男の世話をしているのか。分からなく、正直、あの時母に言われなくともすでにそう思っていた。
 それでも、母の言葉は私が一人で生きる上でよく役に立った。

 私は母が家を出ていった時と同じ歳になった。
 28になった私は俱楽部で良識のある大人の相手をしながら徒然に身体を重ねた。
 25を越えてから何となく男たちの視線から熱や昂りを感じられなくなり、私の旬が終わりを迎えようとしているのを感じ、焦った。
 そして、夜を見つめることに辟易としてしまい、だが頭の先までどっぷりと浸かっているためなかなか匂いは抜けず、そんな私に残されたのは誰かの伴侶になること以外なかった。

 29の誕生祝の時、私は煌びやかな酒瓶と野太い声に囲まれていた。
 そんな渦の隅にいる男がふと目に入った。背を丸めて赤らんだ顔で、ファッショングラスを睨んでいるつまらなさそうな男の挙動は何故か鼻につき、私たちは知り合った。
 話し始めても身体を重ねても、男は頑張るだけでこちらを楽しませる能がなかった。それでも何故か一緒にいたのは、あの村に残してきた父の顔に似ていたからかもしれない。

「私と結婚してください」

「ごめん。僕、妻がいるんだ」

 即座に帰ってきた言葉に私は理解が追い付かなかった。
 ホテルのエントランスでヒステリックに声を上げ、取り乱して、気付けば縋りついていた。すると男は申し訳なさそうに私の手を取り、追い打ちをかけるように頭を下げた。
 どうしてか私は後がないように感じた。
 そして然るべき時だと感じた。

 私はダイヤを落とした。
 その時、私は母になっていた。母は家を出ていくとき、私にすぐに泣くような安い女になるなと助言したのだと思っていたが、違う。涙を流すと、心が砕けてしまうほど悲しくなるからだ。
 私が泣けなかったのは、本当の恋をしていなかったからだった。

 ロビーの絨毯には私が流したダイヤが沁み込んでいき、男は振り返って立ち止まり、私を見つめている。足を止めているということは逡巡しているのだ。
 私は静かに嗚咽した。
 それは魅せるためではなく、本当にそうなってしまったからだ。
 私はきっとこの男の女房の顔にもシルエットにも勝てる。目が合い、予感は確証に変わる。なんとしてでも、コイツを手に入れてやる。
 
 男がこちらに駆けてきて、私は待ち望む。

 ほら、落ちたぞ。
 拾え。
 この9.5カラットを。

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